【ネタバレ】『ジオラマボーイ パノラマガール』解説・考察:つまらない再放送とそこに宿る「福」

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね『ジオラマボーイ パノラマガール』についてお話していこうと思います。

ナガ
岡崎京子さんの作品はこれまでにもいくつか読んできましたが、これは読んでなかったんですよね…。

岡崎さんと言えば、やはり『リバーズエッジ』『ヘルタースケルター』が有名で、こちらは映画化もされています。

とりわけ後者は沢尻エリカさんの怪演で注目され、蜷川実花さんの撮影も相まって、話題になりました。

他にも岡崎さんの作品でいうと、『チワワちゃん』が最近映画化されましたね。

このように彼女の作品は未だに根強い人気を得ており、最近も次々に映画化されるなど、映画クリエイターたちも大きな影響を受けてきたことが伺えます。

ナガ
とりわけ彼女の作品は、前期・後期と呼ばれることがありますね。

基本的に最近映画化されてきたのは、後期に分類される作品でして『リバーズエッジ』『ヘルタースケルター』はその代表的な作品です。

1993年頃から、1996年に交通事故を経験し、後遺症により事実上作家声明を断たれてしまい、そこからリハビリ生活に入るまでが「後期」と呼ばれるわけですが、このころの作品は特に高い評価を得ています。

「後期」の作品は、岡崎さんの作品の発表の軸が女性誌に移っていき、内容も女の子の日常を切り取るようなものから、死生や暴力、性といったものをディープに描くものになっているんです。

そして今回お話する『ジオラマボーイ パノラマガール』は1989年に発表された作品であり、岡崎さんのいわゆる「前期」の末期に描かれた物語ということになるでしょうか。

そのため『リバーズエッジ』『ヘルタースケルター』のようなイメージを持って臨むと、肩透かしを食らうことになると思われます。

青春と恋愛、若さ、そして性を日常の中で淡く描いていくようなテイストは、おそらく好みが分かれるでしょう。

ただ、そんな作品の中にも、高度経済成長期の残り香や、田舎ないし郊外の閉塞感、青春の息苦しさとその解放としての恋愛や性といった「後期」に繋がっていくエッセンスが確かに詰まっています。

私自身も原作を読んだときは、これまでに鑑賞してきた岡崎京子作品と空気感が大きく違っていたので、驚きましたが、2度3度と読んでいくうちに、その淡さの向こう側にある奥深さに気がつき、ハッとさせられました。

今回、映画化されるということで、ぜひとも多くの人に今作が届いて欲しいと願うばかりです。

ここからは当ブログ管理人が自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『ジオラマボーイ パノラマガール』

あらすじ

津田沼春子は郊外のつつましやかで、変わり映えのしない毎日に嫌気がさしていた。

高度経済成長期の残り香が強く漂う自宅の空気を嫌い、ここから今すぐ飛び出したい、誰かに連れ出して欲しいと密かに願っていたのである。

一方で、別の高校に通っている男子高校生の神奈川県一は、勢いで通っていた高校を中退してしまう。

その後、特にすることもなく、行き場もなく、惰性のバイトで時間をつぶす日々。

そんな時に、2人は偶然出会った。

「ボーイミーツガール」の瞬間が訪れ、津田沼春子は神奈川健一に一目惚れをする。

だが、健一の方はと言うと、近所の女子高に通う1人の生徒に一目惚れをしており、春子には特に興味を示す様子はない。

日に日に自分の中の恋愛感情が燃え上がっていく春子。

しかし、健一が好意を寄せる女子高の生徒とラブホテルに入っていくところを目撃してしまい、心が揺れる。

 

スタッフ・キャスト

スタッフ
  • 監督:瀬田なつき
  • 原作:岡崎京子
  • 脚本:瀬田なつき
  • 撮影:佐々木靖之
  • 照明:佐々木靖之
  • 美術:安藤真人
  • 編集:今井俊裕
  • 本編集:野間実
  • 音楽:山口元輔
ナガ
個人的にもすごく期待を寄せている瀬田監督の新作ですね!

PARKS』という作品の監督・脚本を務めた瀬田なつきさんが今作『ジオラマボーイ パノラマガール』の監督を務めます。

個人的には彼女がこの原作を映画化することには必然性のようなものを感じています。『PARKS』という作品で彼女が描いたものについて考えてみると、今作と1本の線で繋がっているような感覚を抱くのです。

これについては後程お話させていただこうと思います。

撮影・照明には『PARKS』『寝ても覚めても』と言った作品で知られる佐々木靖之さんが起用されており、この少し不思議なボーイミーツガールをどう撮ってくれるのか楽しみです。

編集には瀬々監督の『ヘヴンズストーリー』などを手掛けた今井俊裕さんと、『Red』『美味しい家族』にVFXで参加していた野間実さんがクレジットされています。

『PARKS』以来の瀬田監督の作品と言うことで、非常に楽しみにしておりました。

キャスト
  • 渋谷ハルコ:山田杏奈
  • 神奈川ケンイチ:鈴木仁
  • 山形先生:黒田大輔
  • 神奈川サカエ:成海璃子
  • マユミ:森田望智
  • 渋谷フユミ:大塚寧々
ナガ
やはり山田杏奈さんが主演ということで、注目したいですね…。

『小さな恋のうた』『ミスミソウ』などで際立った演技を披露し、一気に評価を高めた山田杏奈さんが今作の主人公役に抜擢されています。

ただ彼女の演じるキャラクターが原作では「津田沼春子」という名前だったのに対して、映画では「渋谷ハルコ」に変更されている点は、どんな意図があるのだろうと気になるところではありますね。

苗字が地名と言うところで、神奈川健一の方と揃えたかったということなのでしょうか。

そして健一役の方には、同じく『小さな恋のうた』そして『のぼる小寺さん』などでもお馴染みの鈴木仁さんが起用されています。

他にも実力派の俳優陣が脇を固めていますが、やはり岡崎京子作品の映画化ということで、気になるのは性描写をどこまで盛り込むのかという点です。

『リバーズエッジ』はR15+指定で公開され、主演の二階堂ふみさんが大胆な濡れ場を披露するなど、原作の性描写にかなり忠実に作りこまれました。

しかし、今回の『ジオラマボーイ パノラマガール』は主演の2人からしてもそこを追求するのは難しそうですし、既にPG12指定と発表されているので、そこまで踏み込んだ性描写はないのだろうと思われます。

ただ、岡崎京子作品と性描写を切り離して考えるのは難しいですし、それを明確に描かずして、どう原作の空気感を活かすのかという点では注目したいですね。

ナガ
ぜひぜひ劇場でご覧ください!



『ジオラマボーイ パノラマガール』解説・考察(ネタバレあり)

本作が追求した「ボーイミーツガール」の破壊

(C)2020岡崎京子/「ジオラマボーイ・パノラマガール」製作委員会

さて、こういった考察系のブログを書いている私ですが、時折、鑑賞しても全く掴みどころがないと感じる作品に出会うことがあります。

まさしく、この『ジオラマボーイ パノラマガール』という作品はそれに該当する内容でした。

読み終わって、一体何を描こうとしているのかが理解できず、もう1度読み直しても、やっぱり掴みどころがない…。

一体この作品から何を読み取ればよいのだろうかと自問自答していた時に、ふと原作本の巻末に掲載されている原作者の岡崎京子さんの走り書きのような「あとがき」を発見しました。

ナガ
それを読んだとき思わず、アッ!と声が出ましたね…。

この作品が何をやりたかったのか、その一端が見えたような気がしたのです。

今やわたし達のつたない青春はすっかりTVのブラウン管や雑誌のグラビアに吸収され、つまらない再放送を繰り返しています。

(『ジオラマボーイ パノラマガール』あとがきより引用)

ナガ
皆さんは、この言葉から何を読み取りますか…?

私は作品を読んで、そしてこの著者のあとがきの一節を読んで、本作がやりたかったことというのは、メタ的な視点による少女漫画ないし「ボーイミーツガール」の枠組みそのものの破壊だったのだと考えるようになりました。

本作は劇中で極めて意図的にこれまでに作られた「ボーイミーツガール」ものを模倣しており、さらに言うなればそうした物語のフォーマットが存在していることを劇中の人物が知覚しているという構造になっています。

つまり、既存のコンテンツからのセリフや展開を引用し、さらにこれまでに作り上げられてきた「ボーイミーツガール」のコンテクストを踏襲しながらも、それを「裏切る」という姿勢を取ることで、脱構築していくのです。

岡崎京子さんが作り上げたこの『ジオラマボーイ パノラマガール』という作品にはそうしたある種のポストモダン性が見え隠れしているんですね。

さて、では具体的に作品のどの部分がそうした性質を帯びているのかを分析してきましょう。

まず、本作における津田沼春子は神奈川健一の出会いの場面は「ボーイミーツガール」の典型とも言える描写で描かれています。

傷を負って自宅の近くで倒れていた神奈川健一を通りがかった津田沼春子が偶然発見し、彼女はその瞬間に一目惚れしてしまうというコテコテのやつですね。

しかし、こうして2人の恋物語が始まっていくのだろうと、誰しもが期待するのですが、今作はそうした期待を大きく裏切っていきます。

なぜなら、比較的序盤に2人の出会いが描かれたにもかかわらず、そこから彼らの関係はほとんど進展することがありません。もはや会うことすらしないんですよね。

しかも、健一の方は他の女性に好意を寄せており、そっちの方の関係を発展させていくという始末であり、春子のエピソードも祖母の憑依であったり、謎のパンや強盗未遂であったりと、全く恋愛に関係のないものばかりが羅列されます。

このように本作は、「ボーイミーツガール」の典型的な枠組みを「再放送」するかに見せかけて、その枠組みを華麗に破壊してしまうんですよ。

「ボーイミーツガール」の瞬間が到来したにもかかわらず、作品がラブストーリーへと全く舵を切らず、のらりくらりと進行していき、挙句の果てには作品内で「ボーイミーツガール」を「再放送」する始末です。

というのも、終盤に2人がようやく再会する場面があるのですが、その時健一の方は春子のことを忘れてしまっていて、「はじめまして」と初対面の挨拶をするんですね。

この言葉によって、あの劇的な出会いの瞬間がなかったことにされ、つまらなく「再放送」されることとなります。

そして、今作をメタ的な視点で捉えた時に興味深いのが、主人公の春子は自分がボーイミーツガール」の物語に内包されているという自覚めいたものを持っている点ですね。

例えば、出会った日の夜に彼女はモノローグの中で次のような言葉を残しています。

あした校門の前でまちぶせしよ
んでふたりは恋におちんの
うードラマチックや!

(『ジオラマボーイ パノラマガール』より引用)

個人的に面白かったのが、この「んでふたりは恋におちんの」の部分です。

なぜなら、これって彼女が自分と健一が恋に落ちるという状況を俯瞰で見ている人間の視点から発せられる言葉だからです。

春子は自分と健一を典型的な「ボーイミーツガール」の物語に当てはめており、そうであれば、自分と彼は結ばれるはずだと確信しています。

それ故に、彼女は健一との出会いを「運命」だと言いきれるのです。

『ジオラマボーイ パノラマガール』より(C)岡崎京子

そこには、何か直感めいたものがあるというよりも、むしろこれまでに作られてきたたくさんの「ボーイミーツガール」のサンプルに自分の「出会い」が類似しているという根拠が存在しているのではないでしょうか。

しかし、彼女の恋愛物語はそうした「再放送」のレールに乗ることはありません。

早い段階で明確に脱線し、脱線したまま物語が進行していきます。

ただ、2人が再会し、健一が「はじめまして」とあいさつをすることで、今作は「ボーイミーツガール」を作中で文字通り「再放送」するのですが、今度は面白いことに、2人が身体を重ね、春子は彼との決別を決意するんですよ。

しかし、決別を決意したにもかかわらず、彼のことが忘れられず、春子はクライマックスでは半ば本能に身をゆだねる形で会いに行きます。

足を信じよう
逢いたいから
逢いに行く
それだけでいいじゃん
ダメならダメで
その時はその時だ

(『ジオラマボーイ パノラマガール』より引用)

このシーンに至るまで、春子は自分が健一と初めて身体を重ねるときも、彼女は「これじゃ安手の少女誌じゃん」とコメントするなど、自分の物語のはずが、知らない間に既存の何かの「再放送」になっているという側面を悟り、嫌悪感に襲われていました。

他にも、健一が犬に指示を出すかのように、自分に指示を出してきて、それに従ってしまった自分に驚きを隠せないでいます。

自分が誰かに指示されたことを「再現」するという役割に甘んじたこと。

しかし、彼女はこのシーンで明確に、自分が何かの「再放送」でしかないことをも受け入れて前に進みます。

既存の物語に自分を投影されてしまうことを悲観するのではなく、それをも自分の物語なのだと受け入れて前に進む決意をしたのです。

そしてラストシーンでは、2人で始発電車を駅のホームで待っているのですが、ここで春子がこんなモノローグを残しています。

何かこうして
おしゃべりしながら始発とか待ってると
何か恋人同士みたいじゃない?
ねえ何かさぁ
こういうのって

(『ジオラマボーイ パノラマガール』より引用)

このモノローグは、途中で切られてしまっており、最後の「こういうのって」に続く部分で彼女が何を言おうとしていたのかは分かりません。

ここでは、彼女が自分たちをどこかで見た「おしゃべりをしながら始発を待っているカップル」に重ねて「恋人同士みたい」と形容しています。

つまりは、春子が自分自身が何かの「再放送」に甘んじている自分の「ボーイミーツガール」をそれでも愛おしいと、そしてこれも自分の物語なのだと腑に落ちた瞬間を描いたのだと思います。

本作は、岡崎京子さんの言葉を借りるのであれば、「つまらない再放送」を繰り返す「ブラウン管やグラビア」からもう一度「ボーイミーツガール」を取り戻そうとする物語と形容できるでしょうか。

それは、「再放送」であるという構造そのものを否定する形ではなく、むしろそれを好意的に受け入れて前に進むという方向に寄与していると感じました。



模倣を散りばめた作風とタイトルに込められた意味

(C)2020岡崎京子/「ジオラマボーイ・パノラマガール」製作委員会

さて、本作のタイトルには「ジオラマ」とそして「パノラマ」という言葉が込められています。

これについて原作者の岡崎京子さんはあとがきの中で次のように語っていました。

タイトルの『ジオラマボーイ☆パノラマガール』は自分でつけました。当たり前だけれども。
その前は『峠の我が家』とゆうのを考えてました。けどやめた。
「ジオラマ」は伊藤俊治氏の「ジオラマ論」から。
「パノラマ」とゆう言葉はハルメンズの「ボ・ク・ラ パノラマ」から。
どっちも人工的で鳥瞰的なかんじがするので。

(『ジオラマボーイ パノラマガール』あとがきより引用)

特に注目したいのは、「人工的で鳥瞰的なかんじがするので」という部分でしょうか。

パノラマは開けた眺望のことを指すのですが、その一方で「中央にいる人間を取り囲むように円環状の壁面全体に風景画を描いて、その人に実際にその場所にいるかのように錯覚させる装置」という意味合いがあります。

つまり、現実を模倣した作り物の風景を指しているわけで、その点で岡崎さんが指摘した「人工的」という言葉がリンクしますね。

一方のジオラマは「箱の中に風景画と展示物を置いて、その箱の一面に設けられた穴から中を覗くと、本当に風景が広がっているかのように見える装置」のことを表しています。

こちらも実際の風景を作り物で模倣して再現しているという点で「人工的」な要素を内包していますね。

『ジオラマボーイ パノラマガール』というタイトルには、まず先ほど指摘したように本作が「ボーイミーツガール」のステレオタイプ的なコンテクストを内包しながら、それが偽物であると暴くような物語構造をしていることが関係しています。

一方で、本作のタイトルが「現実の模倣」足る「ジオラマ」や「パノラマ」という言葉を内包している理由はそれだけではありません。

というのも、この映画は数多くの少女漫画や映画からの引用をしており、作品全体が模倣のパッチワークのようになっているのです。

映画が好きなので、真っ先に気がついたのは村上春樹が原作を著した『パン屋再襲撃』へのオマージュですね。(これは映画化もされています)

作品の中盤に、春子が知り合いと共にベーカリーに脅迫に入り、シュークリーム100個を要求するという描写があります。

『ジオラマボーイ パノラマガール』より(C)岡崎京子

他にも春子が劇中で、『バナナブレッドのプディング』という大島弓子さんの実在するマンガ作品を読んでいると明かされ、その作品で出てきたシチュエーションが踏襲されるなど、過去の少女漫画から引用してきている部分もあります。

このように『ジオラマボーイ パノラマガール』は、過去の様々な物語へのオマージュをふんだんに取り込んでいるのです。

そして、そんな模倣を数多く作品多く含んでいるのは、先ほども引用したように、本作が「TVのブラウン管や雑誌のグラビアに吸収されたことによるつまらない再放送を繰り返し」を根底に据えた作品だからなのでしょう。

既存の物語やコンテクストの模倣と、そこからの脱却。

『ジオラマボーイ パノラマガール』は、春子や健一を中心に置き、その周りを数々の映画やマンガ、小説の模倣のパッチワークで取り囲み、「現実」だと錯覚させていたような節があります。

しかし、クライマックスにかけて、キャラクターたちはそうしたジオラマ的なもの、パノラマ的なものの存在を知覚していきます。

彼らは自分たちを取り巻く景色が「作り物」なんだと気がついていくのです。

「TVのブラウン管や雑誌のグラビア」の中で描かれたものの「再放送」としての恋愛やボーイミーツガールを脱することはできないのかもしれません。

私たちは、どこまでも作り物のような世界を生き抜くしかないのかもしれません。

既に描かれた青春や恋愛、ホームドラマを「再放送」しているだけの模倣することしかできない人間なのかもしれません。

それでも、私たちは自分だけの物語を描きたいと望むものなのでしょう。

ナガ
でも、きっと「模倣」だって自分の物語になり得るんじゃないだろうか?

岡崎京子さんはあとがきの中で「わたくし達の出来ることときたらその再放送のまねっこ程度のことです。」とある種の諦念を綴っています。

しかし、その後で「でも“すき”のきもちはしつこくしぶとくあります パンドラの箱の残りもののように」と綴り、「残りものには福がある」と締めくくっています。

そこには、小さな希望が伺えますよね。

ジオラマの中で、パノラマの中で、全てが模倣や虚構、幻想に思える空間の中で、たった1つだけ信じられる自分の「すき」を信じて前に進む。

そうすることでしか、自分の物語を作ることはできないのだと。

そしてその先にあるのは「福」なのだと、岡崎京子さんは肯定しているのではないでしょうか。

「つまらない再放送」もその「まねっこ」も悪ではないのです。

きっとそうすることでしか私たちは生きられない時代に来ており、だからこそそれを受け入れ、その先にある「福」を求めてみても良いのではないでしょうか。



原作の再現を避け、瀬田なつき監督印の映画へ

映画版の『ジオラマボーイ パノラマガール』について、ここからはお話ししていきます。

まず、最初に言っておきたいのは、今回の映画版は岡崎京子さんの原作とは一線を隔する内容になっています。

ですので、その「再現」を求めて鑑賞すると、当然肩透かしを食らう内容ではあるのですが、瀬田監督が見事に現代版へと塗り替えた素晴らしい「現代版」と評することもできるでしょう。

今回は彼女が岡崎京子さんの原作を2020年の世界にも通じる作品へと作り替えたのかを自分なりに分析していこうと思います。

 

時代性の放棄と現在を通底する無関心

(C)2020岡崎京子/「ジオラマボーイ・パノラマガール」製作委員会

『ジオラマボーイ パノラマガール』という作品は、そもそも「ポスト高度経済成長期」という時代性と切っても切り離せない作品です。

主人公が暮らしている「郊外」の「集合住宅」という環境が物語における重要なピースであり、その存在を担保するのが、そうした時代性だからです。

日本では太平洋戦争後に深刻な住宅不足が起き、それを解消するために国を挙げて「団地」という形態の住居を急速に普及させていきました。

そして高度経済成長期に入っていくと、その傾向はますます加速し、郊外に「ニュータウン」と呼ばれる新興住宅地が一気に造成され、多くの人が移り住むようになりました。

その後押しをしたのは、間違いなくメディアであり、ホームドラマやコマーシャルによって、「郊外の団地での暮らし」が人々の憧れへと転じていったわけです。

また、このライフスタイルの変化に伴って、家族の在り様も変化していきました。

現代では一般的ですが、当時はまだ主流とまではいかなかった「核家族」という家族形態が、ホームドラマなどを通じて宣伝され、徐々に一般化されていったんですね。

先ほどまで、本作『ジオラマボーイ パノラマガール』が「模倣」と「再放送」で構築された作品であるということをお話してきましたが、実は郊外の団地暮らし、そして核家族という家族形態もまた物語やメディア上での広告の「模倣」として生まれてきたものだったのです。

そうした時代性に裏打ちされて、「ポスト高度経済成長期」の郊外を舞台にした本作は成立していたわけですよ。

ナガ
ただ、瀬田なつき監督はそれをきれいさっぱり取り払ったわけだ!

時代を現代へと移したことで、当然原作には存在していた「ポスト高度経済成長期」のコンテクストは物語と乖離してしまいます。

ただ瀬田監督は、これを埋める形で今の時代の在り様を描こうとしました。

映画の中で何度もテレビのニュースの映像がインサートされていたかと思いますが、キャラクターたちがそれに関心を示すことはほとんどなく、それらは彼らの世界とは切り離されたレイヤーに存在しているかのようです。

ナガ
これこそが、監督の狙いなのだと私は感じました!

映画版の主人公である渋谷ハルコは、たびたび「私の世界は全部まぼろしなんだ。」と語っていましたが、現代を生きる私たちって自分以外のことにあまり実存感を感じていないんじゃないかと思うんですよ。

岡崎京子さんの原作では、世界と私の「世界」はイコールの関係であり、社会で起きたことの歪みが主人公の世界にも還元されるという構造になっていました。

しかし、瀬田監督が手がけた映画版においては、世界と私の「世界」が隔離し、それぞれが完全なイコール関係では結び得ない状態になっているんですよ。

必然か偶然か、この作品の構造というのは、コロナ禍に日本で暮らしている私たちも容易に感じることができます。

新型コロナウイルスが大騒ぎになっていて、世界ではとんでもない死者が出ている。しかし、日本ではそれほどでもない。さらに言うなれば、私の周りにウイルスに感染した人はいない。

じゃあ私の「世界」において新型コロナウイルスって一体何だろうか?本当に存在しているのだろうか?なんてことを考えてしまいます。

メディアの向こうで広がっている世界は、自分の世界と本当に地続きなのだろうか?という疑念が蔓延し、私たちの世界はひどく不確かなものになっているんです。

『ジオラマボーイ パノラマガール』の原作では、時代性やその当時の社会を通底する空気感に苦しみ、悩むキャラクターたちが多く描かれていました。

それが、映画版では時代性やその当時の社会を通底する空気感と自分の世界との「断絶」に置き換えられています。

メディアの「模倣」であった世界は、もはや当たり前のものとなり、今度はそのメディアの向こうにある世界が私たちからはひどく遠いものとなってしまったというのがその実なのではないでしょうか。

一方で、メディアの向こうに「憧れ」が広がっていた時代の残骸という点では、原作と映画版の空気感は似ています。

ハルコも健一も未来にそれほどの展望を抱いていないように見受けられるんですよね。

印象的だったのは、ハルコが未成年飲酒により、狙っていた指定校推薦の資格を失うという大事件がサラッと流されて、彼女もすぐに立ち直ってしまうという描写です。

未来に憧れや希望があったならば、そこへの道を断たれるわけですから、指定校推薦がダメになるというニュースはもっと一大事として捉えられるべきでしょう。

しかし、彼女はそうはなっていません。結局、自分の将来や未来にすら「無関心」なんですよ。

もはや、模倣したくなるほど憧れるものすらない、そこに存在しているのはどこまでも続く「無関心」なのです。

「模倣」の時代ではなく、「無関心」の時代を描くことに切り替え、それにより原作が有する時代性というコンテクストから『ジオラマボーイ パノラマガール』という作品を解き放った瀬田監督の手腕には脱帽です。



メタフィクション的視点とラストシーンの改変について

(C)2020岡崎京子/「ジオラマボーイ・パノラマガール」製作委員会

さて、この記事の中でここまでにもお話させていただいたのが、本作のメタフィクション性です。

多くの映画や小説、マンガから描写やセリフを引用することで、本作はある種の「ジオラマ」ないし「パノラマ」めいた世界観を構築していました。

ナガ
映画版も、そうした流れを引き継いではいますが、その描き方は原作とは一線を画します。

この映画を見ていて、映画や小説といったものからの直接的ないし間接的な引用に気がついたことは多いと思いますが、原作と比較すると、それらが幾分「浮いて」いるんですよ。

例えば、渋谷ハルコらが学校で、小沢健二のレコードを貸し借りしている描写がありますが、違和感がありませんでしたか。

「いまどきの高校生が…」という違和感は大きいわけですが、瀬田監督はそこに一言付け加えてありました。

というのも、このレコードというのが親戚の叔父さんからの頂き物だったんですよね。

つまり、自分が好きだから購入したレコードというわけではなくて、誰かからの頂き物のレコードを又貸ししているに過ぎないわけで、そこにコンテンツに対する憧れや愛情は介在していません。

そうした嘘っぽく、作品のトーンからは浮いた物語の引用が作中で何度も繰り返されていくのだから驚きです。

『スターウォーズ』からの引用を女子高生の会話の中に混ぜているわけですが、それはもはや「再放送」と形容することすら憚られる、似て非なる何かであり、極めて記号的な引用です。

ラブホテルで健一が見た『丹下左膳余話 百万両の壺』も極めて明確に作品のトーンと乖離しています。

原作では、強く打ち出されていた「運命」という考え方も、映画版では実にか弱く、自信のないものとして描写されていました。

さらに、渋谷ハルコらが唯一自発的に「模倣」してやろうと考えた、村上春樹原作の『パン屋再襲撃』は、店が再開発で閉店していたことにより、実現することはありませんでした。

このように、原作では強く効力を持っていた物語というものの力が、映画版ではひどく弱いものになっており、もはや「再放送」と形容するにも値しない醜悪なものに形を変えて存在しているのです。

そこには、「ポスト高度経済成長期」という大きなものが崩れ去った後の時代というコンテクストも絡んでいますが、現代を通底する無関心も強くリンクしています。

原作では、少女漫画で描かれていた「運命」という価値観を主人公が何の根拠もなしに、信じ込んでいるという描写がありました。

しかし、映画版のキャラクターたちには、もはやそんな力すら残されていないのです。

ただ、そこに瀬田なつき監督は1つの希望を描こうとしていました。

「模倣」の時代からの脱却、何かを「再放送」する力すら失った若者たち。

それは、視点を変えれば、自分たちの物語を始めることができるチャンスなのではないか?と。

ナガ
だからこそ、本作のラストシーンは明確に原作からは改変されています!

始発電車を待っていた健一とハルコ。2人は健一の提案で自宅の方向とは逆方向の電車に乗ることを決断します。

一方で、街の風景を歩道橋の上から眺めていた小学生組2人とハルコの親友は、他愛ない会話の中で、空にUFOのような光る物体を発見します。

ナガ
この2つは、明確に原作では描かれていなかった要素です!

原作では、健一とハルコがホームで他愛ない会話をしているところで唐突に物語が幕切れ、小学生組2人の会話も歩道橋の下のキスをしているカップルに話題が移ったところで終わります。

この改変には、瀬田なつき監督の若者たちに自分の物語を見つけて欲しいという願いが込められているようにも感じました。

電車は、始点と終点が定められていることから、しばしば「運命」の表象であると言われます。

逆方向に進んでみるというのは、そうした自分を縛る運命や決められた物語のレールからの脱線です。

また、小学生組2人とハルコの親友が空に見つけた謎の光は、今を生きる私たちにとっての希望なのではないでしょうか。

私たちは、今「空に何か光っているものがある!」と言っても、嘲笑されるか、関心を示してもらえないかの2択みたいな時代を生きています。

だからこそ、もう1度信じてみて欲しい。きっと今の時代にも希望がある。無関心を脱し、信じてみることでそれは「見える」ようになるはずだという強いメッセージが映画版には込められていたのです。

原作のラストは、ある種の諦念めいたものを感じさせるものになっていました。

しかし、映画版はどこまでも漠然とした、根拠のない不思議な希望によって、その諦念を振り払おうとしています。

諦念と無関心の時代にもう1度空を見上げて、希望や明るい未来を信じてみようじゃないか…。

「ジオラマ」や「パノラマ」はもはやネガティブなニュアンスで捉える必要はないのかもしれません。

世界と自分の「世界」が乖離していく時代だからこそ、自分だけの世界を「クリエイト」するチャンスもあるというものです。

空を見上げても、光る物体が見えないのならば、作り出してしまえば良い。

そんな現代に欠けている力強さが込められた本作は、今見るべき青春映画の1本なのでしょう。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は『ジオラマボーイ パノラマガール』についてお話ししてきました。

岡崎京子さんの作品は、とにかく時代性が色濃く反映された作品でして、今作も既にいくつかの先行研究で指摘されているように「核家族化」が進行していった時期、郊外が住宅地として再開発されていった時期の空気感を強く内包しています。

だからこそ、2020年の今その物語を改めて語り直すことが非常に難しくなっているんですね。

そのため、『ジオラマボーイ パノラマガール』という作品も、かなり現代風に再構築・再解釈する必要性は当然出てくるのだと思います。

その点で、個人的には『PARKS』瀬田なつき監督が抜擢されたことに期待感を持っています。

『PARKS』という映画もまた、過去に起きたことを現在にいる登場人物たちが模倣し、その模倣の中から結末を導き出していくというプロットを描いているからです。

きっと彼女なら『ジオラマボーイ パノラマガール』を今の若者にも響く作品にしてくれるはずだと信じ、映画版の公開を待とうと思います。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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