みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『空の青さを知る人よ』についてお話していこうと思います。
- 監督:長井龍雪
- 脚本:岡田麿里
- キャラクターデザイン&総作画監督:田中将賀
やはりこの3人の名前を見ると安心感がありますね。
『とらドラ!』、『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』そして『心が叫びたがってるんだ』とこれまでの多くの作品を世に送り出してきたまさに盟友ですよね。
今年は本当にアニメ映画が激戦の1年だったんですが、やはり当ブログ管理人としては今作が1番楽しみでした。
そして早速作品の方も鑑賞してきたわけですが、もう完全にやられましたよね・・・。
映画を見ていて、これほど涙が止まらなかったのも久しぶりじゃないかと思います。
というよりも今の自分にあまりにも刺さりすぎる映画でしたし、見終わる頃には深く刺さりすぎて貫通しちゃってましたね。
そんな本作に感じた思いを今回は余すところなくお話していけたらと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『空の青さを知る人よ』
あらすじ
秩父の町に暮らす高校生のあかねは、バンド仲間の金室慎之介や妹のあおいと共に、充実した青春を謳歌していた。
しかし、彼女の高校卒業間近に両親が交通事故で突然他界してしまい、妹のあおいと2人で生きていくことを迫られる。
彼女は卒業と共に東京の専門学校に行き、慎之介とバンドを続けていきたいと考えていたが、それを断念し、妹と共に暮らすことを決意した。
慎之介は彼女が東京に来ないことを嘆きながらも、東京に出て夢を叶えて、彼女を迎えに来ることを胸に誓う。
それから13年が経過し、あおいは高校生になっていた。
彼女は、自分のせいで姉を故郷に縛り付けてしまい、東京に行くことを諦めさせてしまったことを気に病んでおり、あかねを自分から解放したいという思いもあり、進学せず東京でバンド活動をしようとしていた。
そんなある日、町で音楽祭が開催されることとなり、大物歌手の新渡戸団吉が出演することになる。
さらに、そのバックミュージシャンの中には、あかねと別れたきり音信不通になっていた慎之介がいるというのだ。
その頃、お堂でベースの練習をしていたあおいの前に13年間の高校生当時の姿をした慎之介(しんの)が現れる。
あおいとあかね、しんのと慎之介、2つの初恋が今静かに動き出そうとしていた・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:長井龍雪
- 脚本:岡田麿里
- キャラクターデザイン:田中将賀
- 総作画監督:田中将賀
- 撮影:森山博幸
- 編集:西山茂
- 音響監督:明田川仁
- 音楽:横山克
- 主題歌:あいみょん

まずは監督を務めるのが長井龍雪さんですね。
代表作はと聞かれると、おそらく『とらドラ!』と『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』が当然挙がるんじゃないかと思います。
ただ当ブログ管理人としては『あの夏で待ってる』というSF青春群像劇が一番好きです。
恋愛群像劇としての感情表現のストレートな応酬をこんなに映像として綺麗に魅せた作品ってなかなかないんじゃないかって思います。
ロングショット、表情のクローズアップショット、そして胴のクローズアップ、背後からのショット、背景や周囲の事物のショット。
人物同士が会話をしているというだけのシーンでも、多様なアングルからのカットを取り入れ、それを使い分けることで登場人物のリアルな感情を映像に宿らせることに成功しています。

そして、脚本を担当したのが岡田麿里さんですね。
当ブログ管理人的には『放浪息子』と『凪のあすから』が好きですが、生々しさとドロドロの人間模様を孕んだ女性らしい目線の作品をこれまでに多く手掛けてきました。
ただ、やはり彼女の最高傑作は『true tears』だと思います。これについては後程詳しく書きますね。
そして近年、新海誠作品でもキャラクターデザインや作画監督を任され、注目されている田中将賀さんも加わりました。
その他にもこのゴールデントリオの作品でおなじみのスタッフの顔ぶれが並んでいますね。
劇伴音楽は最近映画やに目に引っ張りだこの横山克さん、主題歌は独特の退廃的な歌声で今若者から支持を集めているあいみょんが手掛けました。

- 金室慎之介/しんの:吉沢亮
- 相生あかね:吉岡里帆
- 相生あおい:若山詩音
- 中村正道:落合福嗣
- 中村正嗣:大地葉
- 大滝千佳:種崎敦美

まず、主演で1人2役を演じた吉沢亮さんですが、もう彼が素晴らしすぎますよね。
慎之介としんのって同一人物ではありますが、年齢が大きく離れている上に、声のトーンもしゃべり方も、気質や性格も異なります。
社会に疲れ、半ば夢を諦めかかっている慎之介の酸いも甘いもを知った諦念に満ちた声。
一方で自身に満ち溢れ、これからの未来にワクワクしているしんのの声。
全く別物のこの2つの演技も完璧以上にこなし切っているだけでなく、歌声まで披露しています。
本当に吉沢亮さんって何でもできるんだ・・・とただただ驚かされましたね。
またあかね役の吉岡里帆さんも非常に落ち着いた演技を見せてくれました。
この2人の俳優起用が功を奏していたのは、あおいを演じた若山詩音さんがかなり派手にアニメチックな演技をしてくれていたというのもありますね。
大人のキャラクターには俳優のボイスアクトを、子どものキャラクターには声優のボイスアクトを年齢の違いという点で分散させ、見事な化学反応を引き起こしています。
というより俳優陣の日常会話に近いトーンの会話が、大人になったキャラクターの声のトーンとして非常にマッチしてますよね。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!

『空の青さを知る人よ』感想・解説(ネタバレあり)
理想を置き忘れてきた大人のための青春譚
冒頭にも書いたんですが、もうこの映画があまりにも自分にも深く刺さりすぎて、涙が止まりませんでした。
『空の青さを知る人よ』という作品は、今まさに青春のど真ん中にいる子供たちに向けてというよりは、青春時代を通り過ぎて大人になったにも関わらず、学生の頃「卒アル」に書いた理想を形にできないまま、今も心の片隅にしまっている「あなた」もための映画なんだと思います。
基本的に4人のキャラクターを主軸にして物語が進行していきますが、やっぱり私としては大人になった慎之介に感情移入してしまいました。
(C)2019 SORAAO PROJECT
何と言うか子供の頃は誰だって「理想」や「夢」を実現可能性など微塵も考えずに真っ直ぐに語れますし、私自身にもそんな子供時代がありました。
しかし、社会に出る時に、どうしたってその理想には手が届かないことを突きつけられて、自分が大人になるためにはその理想を「置いて」いかなくちゃいけないんだなって痛感させられました。
慎之介があのお堂に置いていった赤いギターもまさしく彼の理想であり、同時に彼は手放すことでしか大人になれなかったんですよね。
でも、それって家の本棚の片隅で埃をかぶったまま捨てることもできないでいる学生の頃に書いた卒業文集と同じようなもので、理想というものは置いて来たはいいものの、それを取りに行く勇気もなければ、捨てる勇気も出せないものです。
思い切って捨て去ってしまって、今の自分は「やりたいこと」を全力でやれてるんだと前を向ける人はきっと強い人です。
私はそんなに強い人間ではないので、心の片隅に閉じ込めて、でも見てしまったら苦しくなってしまうので、必死に見ないようしています。
そんな消極的な願望を抱きながら、下を向いて地に足をつけて、毎日を何とか生き抜いています。
『空の青さを知る人よ』という映画は、まさに純粋に「なりたいもの」になれると信じ、それを胸を張って卒業文集に書いていた「あの頃」の自分にぶん殴られるような映画でした。
ぶん殴られて、下を向いていた私はふと空を見上げていました。
見上げた空はどこまでも「くそ青くて」、まだあの「青」に手を伸ばしても良いんだ・・・とそう思わされました。
「青」という色は「手の届かない理想」や「若さ」を象徴する色であると言われています。
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る。」
純粋だったあの頃の自分にぶん殴られて、前に進むことを、まだ理想を諦めずにいることを決意できた慎之介。
私たちは大人になると世の中のことを知りつくしたかのように錯覚しますが、きっとまだまだ知らないことばかりで、可能性に満ちているんだと思います。
秩父の山に囲まれた町で、陰惨とした学生時代を過ごし、将来に絶望していたという過去を持つ岡田磨里さんだからこそ描ける「優しい」メッセージに思わず涙がこぼれました。
きっと私たちはいつまでもいつまでも「くそ青い」ままなんだ。
『true tears』の影を払拭した岡田磨里脚本
さて、もう感極まりすぎてポエティックな感想を書いてしまいましたが、ここからはいつも通りのテイストで書いていきますよ。
当ブログ管理人は、これまで岡田磨里脚本の作品を数多く見てきました。
ただやっぱりその中で頭3つくらい抜けて素晴らしいのは、『true tears』というテレビアニメだと思います。
「真実の涙」をテーマにしたほろ苦い青春ラブストーリーなのですが、岡田磨里さんはこの作品の影をずっと追い続けていたような印象を受けてしまいました。
というのも『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』もそうですし、『心が叫びたがってるんだ』にいたってはモロすぎでしょ・・・というくらいに『true tears』感のある失恋描写を盛り込み、作品の軸に据えています。
『心が叫びたがってるんだ』を私がどうしても好きになれなかったのは、『true tears』を題材を変えてやり直そうとした感があるからでもありますし、それでいて劣化版になってしまっているからでした。
そんな彼女が自身で監督も務めた『さよならの朝に約束の花を飾ろう』という作品は、ある種の彼女のこれまでの作品に対する1つのアンサーでもあり、『true tears』へのアンサーにも思えました。
「愛して良かった。」という心からの肯定の言葉で、『true tears』のヒロイン乃絵のほろ苦い失恋が優しく昇華していくような、そんな感慨深さがありました。
そして、今作『空の青さを知る人よ』を見て、率直に感じたのは、岡田磨里さんはついに「突き抜けた」という印象です。
まず、これまでの岡田磨里さんの失恋譚って、基本的に女性ヒロインが失恋を経験するというのが常なんですが、あくまでもその主導権が男性主人公側にあることが多かったんですよね。
ここまでに挙げてきた作品も、基本的には男性キャラクター側に主導権があって、その人物が他の女性のことが好きだという選択をしたがために失恋せざるを得なくなるという状況です。
確かに表層的な部分を見ると、『空の青さを知る人よ』もしんのはあかねに好意を抱いていますし、彼が自分を選択することはないから失恋せざるを得なかったとも言えます。
しかし、今作に関してはあおいが自らの意志で失恋の道を選び取るという「積極的失恋」を描いています。
とりわけ以下の2つの観点で見た時に非常に作劇が巧かったと思いました。
- あおいの失恋は「あかねへの好き」を優先させたものであったこと
- あおいが前に進むために必要だったこと
まず、本作は彼女の失恋をしんのへの思いを諦めるという形ではなく、これまで自分を支えてくれたあかねへの好意を優先するという形で描いています。
かつて自分のあかねに対する好意で彼女を束縛したからこそ、今度は彼女に対する好意で彼女を解放したわけですね。
岡田磨里さんの失恋譚の多くは、「自分が選ばれない」という悲しみを背負うことが多いのですが、今作に関しては彼女があかねへの好意を優先して、しんのを振るという「強がり」として「失恋」を描いています。

(C)2019 SORAAO PROJECT
まさしくその通りで、この「泣いてないしっ!」というセリフは、自分が彼を「選ばなかった」だけなのに、なんで私が失恋したみたいになってるんだよ・・・という言わばあおいの強がりなんですよ。
この描き方にまず岡田磨里さんの失恋の描き方への進化を感じましたよね。
そしてもう1点の、「あおいが前に進むために必要だったこと」という点についてですが、13年前からやって来たしんのというのは、時間的にも場所的にも1点に縛られた存在です。
つまり、彼女がしんのを選に共に過ごすというのは、自分の夢を捨て、その場所に留まり、前に進むことを諦めるということを意味します。
だからこそ、彼女がしんのに「失恋」することには物語的な必然性があり、彼女は自ら「失恋」を選ぶことで、前に進むことができるというわけです。
当ブログ管理人が大好きな山戸結希監督が映画『ホットギミック』の公開に際してこんなことをツイートしていました。
自分自身の主体性を奪われる恋ではなくて、自分自身の主体性を知るための恋が、もしもこの世にあるのなら、そのようなものをこそ今、新しく生まれる青春映画に映し出してみたいという念願がありました。
(山戸結希監督のTwitterより引用)
岡田磨里さんはまさしくこれを「失恋」でやってのけたんだと思います。
つまり、自分自身が主体性を獲得するための「失恋」を今作で描いたというわけです。
この点が彼女のこれまでの作品とは大きく異なる点だと思いますし、『true tears』の焼き直し的な失恋譚になっていない理由でもあると思います。

青い空の色と、少女の後ろ姿、失恋、そして涙。完全に同じ材料で作ったラストシーンですよ。
しかし、そのラスト1秒で、完全に『true tears』の影を振り払って見せました。
「あー……空、くっそ青い」

いや本当に度肝を抜かれましたし、全身に鳥肌が立ちました。
しかもそこでバサッと切って、映画を終わらせるという、まさに「ここで終わって欲しいと思ったところで映画が終わる」感触を味わうことができました。
これまで自身がシリーズ構成や脚本を担当してきた作品で、『true tears』の亡霊を追いかけるような失恋描写を盛り込んできた印象ですが、ようやく吹っ切れて勢いよく突き抜けてくれたように思います。
『空の青さを知る人よ』を見終わってから、あれだけ大好きだった『true tears』のラストシーンが頭から吹き飛ばされてしまったのは衝撃的でした。
音楽演出の丁寧さに感動
今作はやはり音楽を題材に扱った映画ということで、作中でも演奏シーンがしばしば描かれますが、これが非常に丁寧な演出で感動しました。
まず、作中で描かれる演奏シーンはシチュエーションがバラバラなんですが、演奏する場所や状況によって音響を微妙に変えてあるんですよ。
一番印象的なのが、冒頭のあおいのベース演奏シーンではないでしょうか?
(C)2019 SORAAO PROJECT
彼女はベースにヘッドフォンアンプを差し込んで、野外で演奏しているんですが、密閉型のイヤフォン特有のノイズキャンセル感や籠った音が見事に再現されていて、いきなり驚かされました。
そして、彼女がイヤフォンを外した瞬間に一気に周囲の雑音がなだれ込んでくる感じも非常にリアルでした。
その他にも古いお堂での演奏や小さめのホールでの演奏、楽器の練習室での演奏、野外での演奏(歌唱)など、作中で音楽を演奏(歌唱)するシーンは多くありましたが、どれも音響に微妙に差異をつけてあります。

当ブログ管理人、今となっては全然弾けないんですが、学生時代にギターを齧っていたことがありまして、それもあって、自宅の庭でエレキギターにアンプをつけずに弾いていたこともあります。
エレキギターってアコースティックギターと違ってどうしてもアンプなしだと響かないので、音に面白みもなければ、外で弾くとすぐに音が消えていってしまうんです。
今作の中で慎之介がホールの裏の階段で1人で演奏しているところにあかねがやって来て、彼女のリクエストで『空の青さを知る人よ』を演奏するシーンがありました。
(C)2019 SORAAO PROJECT
ここで、野外でエレキギターを演奏するというシチュエーションがドンピシャで使われているんですが、これがまさしく慎之介の心情とリンクしていて辛いんですよ。
必死に音を奏でても、音は響かず掻き消されていくばかりで、それでも隣にいるあかねはじっと彼の演奏を聞いていてくれるんです。
世界に自分の演奏や歌声を届けることはまだまだ出来ていないわけですが、それでも隣にいる「大好きなたった1人」には確かにその音が届いているんだという確かな実感を感じさせてくれます。

そして、何と言っても私はこの映画があいみょんの挿入歌を使うタイミングに惚れたんですよね。
これについては次の章の内容に絡んでくる内容でもあるので、持ち越しますね。
張り詰めた閉塞感を打ち破る映像的ダイナミズム
そして、何と言ってもアニメーションと言えば映像について語らないわけにはいかないんですが、今作の映像の特徴は「緊張と解放」にあったと思います。
本作は序盤から閉塞感と諦念に囚われ、そこから抜け出せずにいるキャラクターたちの物語が展開されます。
これは脚本を担当した岡田磨里さん自身の学生時代の経験を反映させているからとも言えます。
彼女も秩父の武甲山という山に囲まれた町で育ったようですが、中学生の頃にこんな作文を書いていたようです。
「武甲山がなくなってしまえば、盆地を形成する山が一つ消えるので風通しがよくなる。この閉鎖的な秩父という町も変わるかもしれないし、個人的には山を見上げて憂鬱な気分になることもなくなる。よって武甲山が速やかに消滅することを望む」
(『学校に行けなかった私が「あのはな」「ここさけ」を書くまで』より引用)

岡田磨里さんは自分自身が過去に苦しめられていた、山に囲まれた田舎町での閉塞感と絶望感を見事に作品に落とし込んでいます。
そしてそういったネガティブな感情を溜めて溜めて溜めて、そして終盤のしんのがギターの弦が弾けると共に、閉じ込められていたお堂から飛び出すシーンで一気に解放されるんですよ。
この張り詰めた緊張感を、一気に解放してくれる映像的な快感が素晴らしいんですよね。
さらに、ここで先ほど先延ばしにした「音楽」の話も絡んできます。
とりわけ、『空の青さを知る人よ』における演奏シーン、とりわけあおいの演奏シーンは屋内でのものが圧倒的に多いんですよ。
冒頭の演奏シーンは、屋外ではありましたが、イヤフォンで外界からのノイズを断ち切って自分の中に音を閉じ込めていました。
その他のシーンは、ホールや練習室での演奏であったり、お堂での演奏だったりと基本的に屋内でした。
つまり、本作は音楽というものの演出にも閉塞感を孕ませていて、基本的に音楽を「閉じ込めて」いるんです。
そして、先ほどのしんのががお堂から飛び出していくシーンであいみょんの挿入歌を流して、一気にその音楽的な閉塞感を解放していくんですね。

最近、新海誠監督の影響で、いわゆるMV的な挿入歌を使うアニメーション作品が増えてきました。
大ヒットした『君の名は。』はやっぱり音楽と映像のダイナミズムがしっかりとマッチしていて、挿入歌はどれも演出として完璧に機能していました。
ただ今年公開された『天気の子』は意外と挿入歌を適当に使ったなという感じすら覚えるほどで、『グランドエスケープ』は文句なしですが、その他については、とりあえず使いました敵な印象すら受けました。
そしてこのMV的な挿入歌の演出を真似した作品は、ほとんど漏れなく挿入歌がただの盛り上げ要員のBGMと化していて、演出として全く機能させることができていません。
というのも挿入歌というのは、劇中歌とは決定的に性質が異なります。
なぜなら劇中歌は作品の物語の中にある曲であり、挿入歌は物語の外にある曲だからです。
ミュージカル映画なんかは挿入歌を物語の中に取り込むという構造にはなっていますが、大半の映画において挿入歌は「劇伴」扱いです。
この点を意識した上で、挿入歌の演出を考えないと、結局はただ流れているだけのBGMの域を出ず、映像や物語に関与させることができません。
その点で『空の青さを知る人よ』は、あいみょんの挿入歌の使い方が完璧なんです。
なぜなら、本作はこの挿入歌が使われるシーンまで徹底的に音楽を「閉じ込めて」来たからです。
このタイミングで挿入歌を流すというのは、ある種の音楽を使ったメタ的な演出なんですよ。
これまで作中で徹底的に閉じ込められてきた音楽を、一気に解放して、そして物語の枠からも音楽が解放されていき、それが「挿入歌」という形で物語の檻の外に結実しているということを表現しているわけです。
本作は挿入歌をメタ的な「解放感」の演出に利用して見せたのです。
それに伴い、映像面では、一気にスピード感を増し、現実離れした空中浮遊のシーンが描かれます。
このシーンは田中将賀さんらしいダイナミズム溢れる映像ですし、これまで「動」のアニメーションを徹底的に我慢してきたからこそ、ここで一気に解放され、視覚的な快感が溢れ出します。
映像とそして音楽がこの一瞬に見事にマッチし、そして作品に立ち込めていた「閉塞感」をぶち破っていく様に、心が躍りました。
ぜひ読んで欲しい小説版
『空の青さを知る人よ』について小説版が発売されているのですが、映画を見た方も是非読んで欲しい内容です。
映画版は偶像劇ということもあり、基本的には3人(しんのを含めて4人)の視点で物語が語られていきます。
しかし、このノベライズ版はあおいと31歳の慎之介の内面を深く掘り下げる形で2人の視点で物語を展開していきます。
そのため映画版で描かれたシーンであっても。「視点」が変更されたことで綴られる心情描写も変化しており、映画版とはまた違った味わいがあります。
例えば、冒頭に酔った慎之介をあかねがホテルまで送っていくシーンがありました。
このシーンは映画版ではどちらかと言うと、あかね視点で描かれていましたが、小説版ではこれを慎之介視点で描いています。
他にも印象的なのが、あおいが正道と共に『ガンダーラ』を演奏するシーンですよね。
映画版では、この曲を聴きながら不機嫌になる慎之介の様子が描かれていました。
小説版では、このシーンの視点をあおいと慎之介の視点に絞ったことで、彼女が『ガンダーラ』を演奏した理由、そして彼が『ガンダーラ』という曲を聴きたくなかった理由も明らかになります。

また、これはノベライズを担当した額賀澪さんがあとがきにも書いているのですが、2人の視点に絞った物語にするにあたって、映画版にはないシーンや設定を描いています。
あとがきの中でも筆者も書いていますが、慎之介が東京に引っ越した最初の日の描写は特に印象的です。
一人っきりで東京へ行った。夢を叶えたら、あかねを迎えに行く。自分にそう誓いを立てた。家賃四万円の小さなアパートに引っ越した初日、カーテンもない空っぽの部屋で。
そうだ、あのアパートは西武池袋線に面していた。窓の外を、秩父行きのレッドアロー号が走り抜けていった。グレーの車体に走る真っ赤なラインを睨みつけて、慎之介は誓ったのだ。
(小説版『空の青さを知る人よ』より引用)

彼は、上京した日にレッドアロー号に乗って秩父へと向かい、そしてあかねを迎えに行くんだと誓いました。
しかし、結局彼が秩父に戻ることになったのは、演歌歌手の新渡戸のツアートラックでした。
この設定があることで、彼がこんな形で秩父に戻って来ざるを得なかったことに対して感じている強い失望感が引き立ちますよね。
他にもあおいと慎之介の視点に物語をコンバートするにあたって、映画版では描かれていない設定が付与されていたりもします。
ぜひ映画版を楽しめた人は、作品をより深く味わうためにもノベライズ版を読んでみてください。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『空の青さを知る人よ』についてお話してきました。
最後になるんですが、今作の中で私が一番好きなシーンについてお話させてください。
私は、終盤のしんのが車の後部座席で静かに消えていくシーンが大好きなんですよ。
その直前のシーンでしんのはあおいと共に空を飛んで、あかねを救出に向かいますよね。
この時、慎之介はタクシーとダッシュで何とか追いかけていきますが、当然彼女の元に先に辿り着いたのはしんのでした。

このシーンもまさしくそうで、「理想=しんの」というものはどこまでも自分の先を行ってしまうんです。
しかし、それでも慎之介は必死に諦めずに追いかけることを選びました。
終盤のシーンで、しんのが車の後部座席でそっと消えていくを見ると、その前に座っている慎之介が自分の理想を追い越した、というよりは彼が自分の理想を真っすぐに語っていた「あの頃」をちゃんと自分の「過去」にできたんだなという感慨深さがあります。
だからこそあのシーンは「後部座席」というシチュエーションが重要だったと私は思っていますし、だからこそ大好きなシーンです。
岡田磨里さんの作品は大好きで、数多く見てきましたが、どうしても『true tears』が自分の中で断トツ過ぎて、それを上回ってこないという感触ばかりを味わってきたんですが、とうとうその影を払拭してくれたんじゃないでしょうか。
理想を諦めきれない大人のための青春映画『空の青さを知る人よ』、最高でした。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。