本や映画、ドラマなどを鑑賞していると、1つの行動、1つの表情、そして1つの言葉にハッとさせられることが時折ある。
平庫ワカさん著の『マイブロークンマリコ』にも、そういう言葉があった。
あんたの周りの奴らがこぞってあんたに自分の弱さを押し付けたんだ…。
(平庫ワカ『マイブロークンマリコ』128ページより引用)
主人公のシイノトモヨ(以下、シイノ)が、親友の遺骨に向かってかけた言葉だが、触れただけで心が血まみれになるような鋭利さを持っているように思う。
人間の社会というものは、人と人が相互に「弱さ」を補完することによって成立していると言っても過言ではない。
例えば、あなたに人の病気を治療するスキルがないとしても、誰かが医師になることで社会全体で見ると、病気を治療できる体制が整えられる。一方で、あなたはプログラミングの技術を持っていて、それによって誰かの「弱さ」を補完しているかもしれない。
このように自分の「弱さ」を誰かが背負い、誰かの「弱さ」を自分が背負うという相補性によって私たちの社会は成り立っているわけだ。
これは人間関係というもっとミニマムな単位で捉えたとしても変わらない。
しかし、ときに「弱さ」を他人に押しつけるだけの人間と、他人の「弱さ」を押しつけられるがままに受け入れてしまう人間という歪な関係が生まれてしまうことがある。
『マイブロークンマリコ』のタイトルにも、その名前があしらわれているマリコという女性は、まさしく後者のような人間であった。
彼女は言わば他人の「弱さの受け皿」なのだ。
本作は、マリコの遺骨を連れて旅に出るシイノが親友の死を受け入れるまでを描いた物語ではあるが、その背後には「弱さの受け皿」として生きて、そして壊れたマリコの解放というもう1つの主題があるように思う。
今回の記事では、そうした観点から『マイブロークンマリコ』の物語を紐解いていく。
『マイブロークンマリコ』解説と考察(ネタバレあり)
写真立て、骨壺、封筒:マリコを閉じ込めるもの
『マイブロークンマリコ』という作品を鑑賞して、まず衝撃を受けたのは、マリコ自身が生きている姿が徹頭徹尾描かれないことだ。
今作の物語が始まった時点で彼女は既に命を失っている。そのため、写真立てに飾られた写真、骨壺の中の遺骨、封筒の中の手紙、そしてシイノの記憶だけがマリコの輪郭を形作る手がかりとなる。
とりわけ、写真立てに飾られた写真、骨壺の中の遺骨、封筒の中の手紙という3つの要素は、本作が「弱さの受け皿」のマリコを描く上で重要なモチーフとして機能していた。
まず、写真立てが印象的に描かれるのは、冒頭のシイノがマリコの遺骨の入った骨壺を持って逃亡するシーンである。
シイノが逃亡してしまった部屋で、呆然とするマリコの父親は娘の遺影が収められた写真立てを見ながらポロポロと涙をこぼす。
涙が弱さを象徴するモチーフなのだとすると、それを受け止めるのが、マリコの写真が収められた写真立てであるという描写は、彼女が「弱さの受け皿」であることを象徴しているようにも見える。
次に、遺骨の入った骨壺だが、これも先ほどのシーンで初めて登場するモチーフだ。
オーストリアの詩人リルケの詩の『涙の壺』というものがある。
ほかの壺なら酒を入れる 油を入れる
その周壁がえがくうつろの腹のなかに
けれども私 もっと小型で 一ばん華奢な私は
ちがった需要のための あふれ落ちる涙のための壺なのだ酒ならば 壺のなかで 豊醇にもなろう 油ならば澄みもしよう
けれども涙はどのようになる? 涙は私を重くした
涙は私を盲目にして 曲がった腹のあたりを光らせた
ついに私を脆くして ついに私を空にした(涙の壺『リルケ詩集』より引用(富士川英郎訳))
マリコという存在は、まさしくこの詩で言及された「涙の壺」のような役割を果たしていたように思う。
他人の弱さを押し付けられ、それがどんどんと蓄積されていき、痛みを奪われて、無感覚になり、最後には自分自身が壊れてしまった。
そして、死して遺骨になってもなお、骨壺という小さな入れ物に閉じ込められ、誰かの「弱さの受け皿」としての宿命を背負わされ続けている。
シイノはそんなマリコの遺骨を携えて旅に出るわけだが、彼女もまた自身の言葉にならない喪失感の受け皿として、マリコを利用している側面があるのではないだろうか。
1人ではもう立っていられないような状況で、シイノはマリコの骨壺を抱えることで、何とか前に歩を進めている、自分を強く保とうと試みている。
最後に封筒だが、今作に登場するシイノからマリコへの手紙はどれもが律儀に封筒に入れられている。学校で手渡しなのだから便箋だけでも問題ないと思うのだが、なぜか手紙は封筒に入っているのだ。
封筒というアイテムは、言わば便箋や手紙の「受け皿」である。
例えば、マリコがシイノへ宛てた手紙には、父親が夜中に酒を買いに行かせたことについての愚痴が書かれていたが、その内容は彼女が決して口にはしないものだろう。彼女はそんな父親の「弱さ」の押し付けを受け止めている。
しかし、彼女は他人から「弱さ」を押し付けられるばかりで、自分の「弱さ」の捌け口がない。そうなってくれそうな母親も家から出て行ってしまった。
だからこそ、彼女は自分の「弱さ」を手紙に綴り、封筒という「受け皿」に託す。
そして、マリコはその封筒を受け取るわけだが、封筒には受け取った側に開けるか開けないかの選択が委ねられている。受け取った側が開けるという選択をしない限り、封入された便箋や手紙の内容が開示されることはないわけだ。
マリコは封筒を迷うことなく開封し、便箋(手紙)を読み、シイノの弱さに触れる。
ここまで、写真立てや骨壺、封筒といったマリコ(あるいは彼女の思い)を閉じ込めるもの、あるいは彼女の「弱さの受け皿」としての役割を象徴するモチーフの存在に言及してきた。
だが、そんな中でマリコを解放する存在が1人だけいる。
それこそが、彼女の「弱さ」が閉じ込められた封筒を開封するシイノなのだ。
写真立て、骨壺、封筒、そしてシイノ:マリコを解放するもの
シイノは、生前のマリコにしばしば彼女の「弱さ」を押し付けられていると感じていた節があったように思う。
あたしッ 何度も
あのコのこと
めんどくせー女って…!
思ったのにさあ……っ(平庫ワカ『マイブロークンマリコ』99ページより引用)
先ほど言及した手紙の件もそうだが、社会人になってからもシイノは、しばしばマリコの対応に追われている。虐待彼氏を彼女の自宅から押し出した一件もそうだろう。
こうした積み重ねからシイノはマリコとの関係を、自分ばかりが「弱さ」を押し付けられている歪なものと捉えていたところがあったのかもしれない。
だからこそ、シイノはマリコのことを何度も「めんどくせー女」だと思ったわけだ。
しかし、マリコはシイノを失って初めて気づく。自分もまたマリコに「弱さ」を委ね、自分を強く保ってきたことにだ。
マリコを失ったシイノは平気ではいられない。強い自分を保つことができない。その状態こそが、彼女もまたシイノに「弱さ」を肩代わりしてもらっていたことの何よりの証左でもある。
『マイブロークンマリコ』のハイライトとも言えるシーンがあるとすれば、それはやはりシイノが骨壺でひったくり犯(痴漢)を殴打したことに伴い、骨壺が破損し、マリコの遺骨が空を舞うシーンだろう。
このシーンはシイノにとっても、そしてマリコにとっても重要なものだ。
シイノは、痴漢(ひったくり犯)に襲われそうになっている見ず知らずの少女に、自分に「弱さ」を委ね、助けを求めてきたマリコの姿を重ねる。
そして、その「弱さ」を受け止め切れなかったことへの贖罪と、無意識に押し付けていた自分の「弱さ」を受け止めていてくれたことへの感謝を込めて、少女を救う。
一方で、シイノが痴漢(ひったくり犯)を遺骨の入った壺で殴打したことにより、彼女を死してもなお「弱さの受け皿」としての役割に縛りつけていた骨壺というモチーフは破壊される。
遺骨という形ではあるが、ここで『マイブロークンマリコ』において初めてマリコの実体が描かれたわけだ。
写真という形でその像を写真立てに閉じ込められていたマリコ。骨壺にその遺骨を閉じ込められていたマリコ。そして、死してもなお、それらのモチーフを介して「弱さの受け皿」としての役割を強いられていたマリコ。
遺骨となったマリコはキラキラと輝きながら、そうした閉塞感と役割から美しく解放される。彼女を閉じ込め、縛りつけるものはもうない。
『マイブロークンマリコ』の物語は、シイノがマリコからの手紙を「開封して」幕を閉じる。
彼女はマリコの「弱さ」をもう「めんどくせー」と突き放したりはしない。彼女のせいだと断罪したりもしない。それをただ愛おしいもののように抱きしめる。
For when I am weak, then am I strong.
なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(コリントの信徒への手紙2 12章10節)
「弱さ」を認め合って、受け入れ合って、そうして2人の魂のつながりは死ですらも分てないほどに強いものになった。