映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』ネタバレ感想・解説:ジェラシーを掻き立てる演出の方程式

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』についてお話していこうと思います。

ナガ
最近、もっぱら杉咲花さんに目移りしてました。申し訳ございませんでした。

当ブログ管理人は以前より黒木華さん推しを公言しておりましたが、最近森七菜さんや杉咲花さんに惹かれてしまい、「好き」の気持ちが揺らいでおりました。

そんな自分を戒めるような本作は、目移りしてしまったことを後悔させ、また黒木華さんに夢中になるには十分な作品だったと思います。

後ほど詳しくお話しますが、この作品は、彼女の魅力をストレートに観客に向けて発信することはないんです。

ただ、それが演出として機能し、観客に異常なまでのジェラシーと黒木華さんへの止まらない愛を湧き上がらせます。

ナガ
映画を見ていて、金子大地さん演じる歩に対する嫉妬心で頭がおかしくなりそうでしたし、その感情がまさしく主人公の柄本佑さん演じる俊夫に重なるので、すごく物語に没入感がありました。

また、本作は全編にわたって現実とマンガ(虚構)が入り混じりながら物語を展開することによって、何が本当で、自分がいま何を見せられているのか分からなくなるというカオスに放り込まれます。

そんな少し不思議な映画体験ができる作品であることも個人的には鑑賞を勧めたい1つのポイントです。

では、ここからはそんな映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』について個人的に感じたことや考えたことをお話していこうと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』感想・解説(ネタバレあり)

黒木華さんの魅力は観客に向けられていない

ナガ
さて、皆さんは映画の中の俳優、女優さんの魅力に憑りつかれ、その虜になってしまったという経験はないでしょうか?

映画はとりわけ「映画」と「わたし」というクローズドな環境でやり取りがなされるメディアであるため、そうしたキャストの魅力が自分にダイレクトに届けられているように感じるものです。

これに似た現象としては、何万人もの観客がいるアイドルやミュージシャンのライブに行ったときに、自分の推しと目が合ったように錯覚する「あれ」でしょうか。

主人公とヒロインが結ばれる王道のラブストーリーであっても、私なんかは、主人公に自分を重ねてヒロインと結ばれる追体験をしちゃったりなんかしているわけですが、これは言わば映画の醍醐味なわけですよ。

このように映画を見ていると、スクリーンの向こう側にいるなんだかとても美しい生き物の放つ魅力はどうやら私に向けられているらしいと錯覚してしまうのです。

しかし、映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』はそうした「映画」と「わたし」の関係を逆手に取ることで、観客に主人公の俊夫が感じているジェラシーをこの上なくリアルに追体験させることに成功していました。

というのも、今作において佐和子を演じる黒木華さんの魅力は、俊夫に向けられることはなく、観客である私たちに向けられるでもなく、一貫して歩の方に向けられているのです。

まず、今作において佐和子が笑顔になったり、女性らしい魅力を振りまいているのは基本的に歩が同乗している教習車の中でした。

この教習車というのが、2人のある種のパーソナルスペースのように機能しており、俊夫はもちろん観客である私たちが入り込む余地がないのです。

加えて、今作のカメラワークが面白いのは、佐和子と歩を捉えるときに、肩越しや一人称視点のようなショットをを極めて意図的に避け、観客と歩が重なる瞬間が極力生まれないように配慮していました。

そのため、2人を捉えたショットは遠景から捉えたショットや第3者視点のショットが多いのです。

ナガ
象徴的なのは、車内でのキスシーンでしょうか!

(C)2021「先生、私の隣に座っていただけませんか?」製作委員会

前の座席で2人がキスをしており、カメラは後部座席の位置から2人を第三者視点でとらえているのですが、この光景において観客である私たちはただ「傍観者」であることしか許されていません。

こうした観客を「第三者」「傍観者」の立場に徹底的に置く演出によって、徐々に私たちは佐和子を演じる黒木華さんの魅力を独り占めする歩にジェラシーを隠しきれなくなっていきます。

このように映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』は独特なカメラワークによって、俊夫が妻に対するジェラシーを抑えきれなくなっていくプロセスに観客を巻き込むことに成功しているのです。

特に私のような黒木華さん推しの人は映画館であまりの嫉妬に気が狂いそうになる可能性がありますのでご注意くださいませ。



現実とフィクション(虚構)のカオス

(C)2021「先生、私の隣に座っていただけませんか?」製作委員会

映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』の物語の大きな特徴は、やはり現実とフィクションが入り混じり、今自分が見ているのがどちらなのかが分からなくなる構成でしょう。

2021年は、類似の作品として『キャラクター』が公開されており、こちらも現実とフィクションが交錯し、現実がフィクションを、そしてフィクションが現実を侵食していく不思議なサスペンス映画でした。

この映画の主人公は佐和子なのですが、物語は一貫してその夫である俊夫の視点で展開されていきます。

そのため、俊夫が彼自身の目で見ているものは確実に「真実」だと言えるわけですが、彼の目で実際に見ていないもの、つまり佐和子の描いたマンガを通じて知りえた情報は「真実」かどうか分からないという状況になるわけですね。

そして、佐和子は自分の描いているマンガについて、あくまでも「フィクション」であるという姿勢を崩しません。

つまり、彼女は自分が「信頼できない語り手」であることを明らかにしています。

このように本作は「真実」と「真実?」をパッチワークのようにつなぎ合わせることで、物語の全体像を構築しており、それ故の「危うさ」が俊夫ないし観客である私たちを不安にさせるのです。

きっと私たちは全てが「真実」だと信じられる世界にいれば、何も疑問を抱くことなく生きていけるでしょうし、逆に全てが虚構のニヒリズム的世界にいれば「何も信じられるものはない」と割り切って生きられることでしょう。

ナガ
しかし、問題なのは「真実」と「真実?」が混ぜられている場合です。

この「危うさ」が、私たちを不安にさせ、そして「真実?」を「真実」に変えたいという欲求を掻き立て、それがそのまま俊夫というキャラクターの行動の原動力になっていきます。

彼は半ば暴走気味に妻である佐和子の描くマンガの真相を暴こうと試みますが、彼は物語に動かされているのではなく、観客の「真実」を知りたいという欲求に突き動かされているわけです。

ここでも、本作は観客と俊夫がシンクロするような作りを意識しており、巧さを感じさせてくれますね。

そうして物語が進行していき、徐々に彼女の描いたマンガのタイトルでもある『先生、私の隣に座っていただけませんか?』の意味に焦点が当たっていきます。

ここで、本作がメタフィクションでなくてはならなかった意味が明かされ、物語の「IF」性が強調されることとなりました。

 

フィクションとIF性

この映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』という作品が、劇中マンガを使って物語を展開したことの最大の意義は、フィクション中のキャラクターの存在の「揺れ」を物語に還元できることです。

佐和子が描いているマンガの中に登場する「主人公の不倫相手」は、彼女によるとフィクションであり、現実から切り離されたものとして描かれています。

(C)2021「先生、私の隣に座っていただけませんか?」製作委員会

つまり、そのモデルが曖昧なままで物語が展開されるのであり、それ故に「不倫相手」は俊夫に基づいているかもしれないし、はたまた歩をモデルにしているのかもしれないというIF性を帯びるわけです。

当初、俊夫は「主人公の不倫相手」が教習所の教員である歩であろうと確信しており、もし「主人公の不倫相手=歩」ならばというIFの想像を膨らませていました。

ただ物語の終盤に、佐和子が「先生」と呼んでいたのは夫である俊夫の方であったことが明らかになります。

佐和子は俊夫のアシスタントとしてマンガの世界に入り、彼の横でずっと働いてきました。

そして彼がマンガを描かなくなってからは自分が「先生」となり、逆に俊夫がアシスタントの立場になりましたね。

彼女が車を運転できるようになることを恐れていたのは、自分が俊夫に捨てられるからというよりは、「先生」とアシスタントという2人のこれまでの関係性が壊れてしまうからではないでしょうか。

彼が運転席に座り、自分は助手席に座っている。この関係性にどこか佐和子は安らぎのようなものを見出していたのかもしれません。

しかし、ずっと自分にとっての運転手だった「先生」は、佐和子が「先生」になろうとしていると、他の女性の所に行ってしまいます。

この映画において、佐和子が運転する車の助手席に俊夫が座る描写が一度もなかったのが象徴的で、彼らはその「先生」とアシスタントという立場を入れ替えることができないのです。

一方で、歩は本来教習所の「先生」であるわけですが、彼は自らの言葉で佐和子の運転する車の助手席に座ることを明言しています。

こうして誰でもない佐和子の劇中マンガの「主人公の不倫相手」は、俊夫かもしれないし、歩かもしれないというIF性を帯びるわけですね。

そして、映画の終盤に俊夫が佐和子の隣に座り、一緒にマンガを描く一幕がありました。

(C)2021「先生、私の隣に座っていただけませんか?」製作委員会

ここで観客は「先生=俊夫」だったと納得し、その光景を受け入れようとするのですが、これもまたIFの世界でしかありません。

物語のラストでは、「先生=歩」であったことが明かされ、彼女の運転する車の隣には歩が座ることとなります。

IFの世界の中で、佐和子は俊夫に対して「もう遅すぎるよ。」といった発言をしていました。

この発言には、俊夫が早々に自分の過ちを認めて、マンガ家として活躍する自分の隣に座ってくれるIFを佐和子は希望として抱いていたことが仄めかされています。

しかし、現実には俊夫はなかなか不倫を認めることなく、嘘で取り繕い、結果的にそのIFが現実になることはありませんでした。

つまり、物語の途中の時点では、俊夫には佐和子が描くIFを現実にできる可能性があったわけで、劇中マンガの「主人公の不倫相手」の立場に自分がなるチャンスがあったのです。

俊夫がもっと早くに妻への思いに気がつくことができていたならば、きっと彼女の人生の、マンガ家としてのキャリアの助手席に座っているのは、俊夫だったのと思います。

ただ、彼はそのチャンスを自らの言動で手放してしまい、IFはIFのままで終わってしまいます。

このように、映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』は、佐和子の描く劇中マンガを現実から切り離されたIFとして描くことで、俊夫にとっての可能性と選択の物語として確立されていました。

劇中マンガの「主人公の不倫相手」は「あなた」だったかもしれないし、「わたし」だったかもしれない。歩だったけれど、俊夫だったかもしれない。

ナガ
ただ、思えば「恋愛」というものは、そうしたIFの積み重ねの産物のように思えます。

もしあの日…もしあの夜…もし…。あなたが今いる大切な人の隣というポジションは、そうした途方もない数のIFの中からあなたが選択をし続けてきた結果、確保されているものなのかもしれません。

だからこそ、あなたが思いを寄せる人の隣に他の人がいるのもまた自分が選び続けてきたIFの結果なのだと逆説的に言えそうです。

本作は、物語の中で俊夫が佐和子の「パートナー」ポジションと「傍観者」ポジションを行き来する中で、最終的には自分の言動が原因で後者に落ち着いてしまうという様を描きました。

数々の「あなた」が隣にいないIFの世界線があったかもしれない中で、今「あなた」の隣にいるREALをかみしめることの大切さを強く思い出させてくれる作品であったと、そう思います。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』についてお話してきました。

ナガ
黒木華さん好きには、本当に危険な映画かもしれませんね…。

後部座席からのアングルで、彼女とどこの馬の骨かもわからない俳優のキスシーンを見せられた時は、嫉妬で気が狂うかと思いましたよ。(金子大地さん『サマーフィルムにのって』の演技素晴らしかったです、ごめんなさい。)

主演2人の演技も良かったですし、劇中マンガを通じて恋愛とIF性の物語に持っていく演出はすごくグッときましたね。

不倫を題材にした映画ですし、言わば失恋映画のような趣もあるのですが、見終わった後には今以上に自分の大切な人を大切に思えるようになる内容だと思います。

ナガ
ぜひ、多くの人に届いてほしい1本です!

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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