【ネタバレあり】『愛しのアイリーン』解説・考察:あのラストシーンを希望とみるか、絶望とみるか。

アイキャッチ画像:(C)2018「愛しのアイリーン」フィルムパートナーズ

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『愛しのアイリーン』についてお話していきたいと思います。

記事の都合上作品のネタバレになるような内容を含む解説と考察になります。その点をご了承いただき、作品を未鑑賞の方はお気をつけくださいますよう、よろしくお願いいたします。

良かったら最後までお付き合いください。

『愛しのアイリーン』

あらすじ

宍戸家の一人息子である岩男は、田舎のパチンコ店に勤務しています。しかし、その内気な性格も相まって、女性には億手で、40代になっても独身のままです。

職場でシングルマザーの(夫が服役中のため)愛子に好意を寄せていたり、職場のおばちゃん良江に好意を寄せられていたりするのですが、特に進展があるわけでもありません。

そんな結婚できない一人息子を見て、両親は心配し、何とか良い縁談はないものかと悪戦苦闘しています。しかし、その「おせっかい」が祟って、ある日両親と岩男は大喧嘩をしてしまいます。

ナガ
じいちゃんが、岩男が夜な夜なセンズリをこいているのを見たのが発端なんだけど、そりゃ怒るでしょ(笑)

そして自宅を飛び出した岩男はフィリピンへと渡り、そこでアイリーンという女性に出会います。岩男はアイリーンと彼女の家族に大金を支払い、彼女と国際結婚にすることとなりました。

岩男がアイリーンを連れて、実家に帰宅すると、父の葬儀が行われていました。さらに母のツルは岩男が連れ帰ったアイリーンには宍戸家の敷居を跨がせるわけにはいかないと憤慨し、2人を追い返してしまいます。

ここから物語がどんどんとこじれてとんでもない方向へと転がってい苦こととなります・・・。

その後のあらすじはこんな感じです。

ナガ
お〇んこ~!!お〇んぽ~!!〇ナニー!!〇ックス!!

いや冗談抜きでこんな映画ですよ(笑)

端的に説明してしまうと『愛しのアイリーン』は、車に轢かれた安田顕が頭から血を流しながら「お〇んこ~~!!」と叫ぶ映画です。

スタッフ・キャスト

今作の監督・脚本を務めるのは、『さんかく』『ヒメアノ~ル』『犬猿』などで高い評価を獲得してきた吉田恵輔さんですね。特に『ヒメアノ~ル』は映画ファンの間でも大きな話題となり、彼の名前は一躍有名となりました。

バイオレンス描写に果敢に取り組む一方で、扱う作品のテーマには「愛」が据えられていることが多い印象です。オリジナル企画だった前作の『犬猿』でも兄弟の間に内在する微妙な愛憎を見事に映像に落とし込んでいました。

キャストに関してですが、本作の主演を務めるのが安田顕さんです。今作『愛しのアイリーン』で演じた岩男は安田顕史上最もぶっ飛んだ役であることは間違いないですね。もう下ネタを叫びまくって、〇ックスばかりしているキャラクターですからね(笑)ただこのキャラクターを見事に演じ切ったところに彼の役者としての懐の深さを感じます。

また岩男のことを大切に思う母ツルの役を木野花が演じています。何としてでも息子に幸せになって欲しいという執念が彼女をとんでもない行動に走らせるのですが、そのメラメラと燃え上がる狂気を完璧に表現して見せました。

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解説:決して交わることないメデューサ的な愛と不条理劇

『愛しのアイリーン』という作品はどこまでも不条理劇であるように思えます。それはメデューサの交わらない視点の如く、絶対に愛が交わることのない不条理に満ち、ストーリーに論理性の欠片も無いという不可解さが作品を支配しているからです。

つまり本作のテーマには、吉田恵輔監督が『さんかく』や『犬猿』でも問うていた愛の不合理性や不条理性が据えられているということです。

メデューサの眼で見つめられると、石になってしまうという逸話を聞いたことがある方は多いと思いますが、哲学者のサルトルはそれを一般化して、「他人のまなざしは、わたしをモノに変えてしまう』」と述べました。これは他人のまなざしというものが自分に注がれることによって、その瞬間に他人にとって自分は何者か「である」ことを止められなくなってしまうという宿命を表しています。

谷川 渥が自身の著書『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』の中で、この「視線」について以下のように語っています。

サルトルによれば、眼差しの交差は、相手を対象と化す相互メドゥーサ的な営為にほかならない。目合(まぐわ)いは、サルトルにあっては、永遠に実現不可能な愛の合体のメタファーとなる。

谷川 渥『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』より引用

『愛しのアイリーン』という作品はある種「愛の視線」を描いた作品です。人が誰かに愛を注ぐ。その誰かが自分に愛を注ぐ。その瞬間に2人は均質なようで、極めて異質な愛を相手に向けることとなります。

自分が相手に感じているものと全く同じ愛を相手が自分にも感じているということは、まずありえないのです。だからこそお互いに「愛の視線」を目合(まぐわ)せようとすることで、その瞬間に2人が同質な愛を共有するということは不可能になってしまいます。

そんな決して交わることのない愛の不条理がこの『愛しのアイリーン』という作品には満ちてるではないですか。誰もが誰かのことを思い、愛しているのに、それが実を結ぶことは決してあり得ないという不合理さにもどかしい思いを感じつつも、それが現実かも知れないと思わせてくれます。

岩男、ツル、アイリーンを巡る関係は実にユージン・オニールの『夜への長い航路』やトルコ映画の『雪の轍』を思わせるような家族不条理劇の様相を呈しています。

岩男は、職場の愛子に思いを寄せますが、その関係が進展しそうになった頃には彼女が店長と関係を持っていたことを知ってしまいます。そして性欲を抑えきれなくなった勢いでフィリピンに向かい、お金でアイリーンを買い、結婚することとなります。この時、岩男とアイリーンの間に愛情なんてものは一切存在していません。

一方で、ツルは一人息子の岩男を溺愛していますが、岩男の方はというとそれを疎ましく感じているように思えます。ツルは息子のためを思い、アイリーンを裕次郎に売り飛ばそうとしたり、お見合い相手を引き合わせたりするわけですが、その頃には岩男はアイリーンに愛情を感じるようになっており、それもまた空回りしています。

そうした決して交わらない愛の不条理劇が、終盤には雪の世界に閉じ込められ、もはやそこからは逃げ出すことができないような深い絶望感と閉塞感を演出しています。

解説:本作に登場するパチンコの意味とは?

さて映画『愛しのアイリーン』に登場するパチンコというモチーフですが、これを単純に「搾取の象徴」だと読み解くことは大いに可能なのですが、個人的にはそこが本質ではないと考えています。

ミン・ジン・リーという方が『pachinko』というタイトルの小説を書いていて、これが今年に入ってからアメリカで注目を集めたのは記憶に新しい話です。

内容としては在日韓国人が日本で暮らしていくことの苦悩や差別を描いているのですが、その中でパチンコというモチーフについて「パチンコ屋はある種の癒しの空間であり、現実から逃避するための場所」であるという趣旨の言及が成されています。

私はこの「パチンコ」の捉え方に非常に共感できました。確かにパチンコ屋は搾取の場所とも言えますが、見方を変えると人々はパチンコ屋に「安らぎ」を求めていて、それを享受するためにお金を支払っているとも考えられるわけです。

しかし、「安らぎ」を求めてやって来た筈のパチンコ店で自分の持っていたお金を失ってしまうと、心穏やかではなくなりますよね。自分が損をしている横で、誰かが得をしている状況に直面すればイライラしますよね。

そう考えていくと、パチンコというモチーフも「愛」に繋がってくるんです。それも本作では岩男の「愛」の物語に強くリンクしているでしょうか。

40歳を過ぎ独身で、行き詰ってしまった彼にとって「愛」とは「性行為」とはお金を払ってでも欲しい「癒し」であり人生の「安らぎ」なんです。しかし、いざそれを手に入れてしまうと今度はパチンコの当たりとハズレのように、幸福と不幸が舞い込んできます。

そうしてそんな日々に嫌気がさして、再び彼はアイリーン以外の女性にお金を払って「安らぎ」を求めるようになります。

つまり『愛しのアイリーン』におけるパチンコないしパチンコ店というモチーフは、まさに本作で描かれた「愛」の姿を端的に表象したものなのだと考えられると思います。

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考察:愛は自慰行為であり、壊れたロッキングチェアである

愛というものは、一般に双方向性によって成立するものであると言われますが、『愛しのアイリーン』という作品は必ずしもそうではないといこうとを描こうとしているように思えます。

いわばこの作品が印象的に描いた「自慰行為」と「愛」には本質的な違いがないのかもしれません。

なぜなら先ほども述べた通りで、2人の人間がお互いに「愛の視線」を向けたところで、それが全く均質で、同質なものとして交わることは不可能だからです。そう考えた時にいわゆる「make love」な性行為は、結局のところ自分の愛を相手に押し付け合っているに過ぎず、双方向性を獲得することが不可能に近いという点で、「自慰行為」的ですらあるわけです。

この『愛しのアイリーン』という作品に唯一、希望が垣間見える岩男とアイリーンが身体を重ね、愛し合うシーンがありますが、このシーンだって2人は分かりあえていないし、冒頭で岩男が部屋でモニターの向こうの虚像に精液を放つことや、お見合い相手の女性と自慰行為の交換をすることと何ら変わりないことのように思えます。

それが端的に表現されていたのが、冒頭の源造がツルのために作っていたロッキングチェアーだったのかもしれません。源造はこれを作り上げれば、ツルはきっと喜んでくれると「愛」を込めて、作っていたわけですが、彼女はそれに気がつきませんし、ボケた老人の行動だと突き放していました。

しかし、ロッキングチェアーが完成するとツルはそれが新婚旅行で鎌倉を訪れた時のものだと気づくわけです。そうして彼女は源造に「愛」を目合(まぐわ)せようとするのですが、彼はそのまま息を引き取ってしまいます。

つまり源造の「自慰行為」が「愛」に変わろうとした時には、彼はもう息を引き取ってしまい、残されたツルの視線も彼女の「自慰行為」でしかなくなってしまうというジレンマが描かれているんだと考えています。

結局、愛とは「自慰行為」と本質的に変わらないもので、だからこそ愛することはできても、愛し合うことはできないという不合理さこの『愛しのアイリーン』では描かれているように思いました。

考察:ナイフという岩男の愛情表現

マキャベリはかつてこんな発言をしたと言われています。

たほう人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。

マキャベリ『君主論』より引用

この言葉は彼の『君主論』の中で書かれたもので、本来の意味は君主が人民を統治していくに当たっては、愛情を注ぐのではなく恐怖で支配すべきだという意図が込められていました。

人は誰しも愛情を欲するものです。自分がそれを手に入れられていないと感じると、どこまでもそれを求めてしまう。『愛しのアイリーン』における岩男だって愛情が欲しくて、フィリピンを訪れ、お金で愛情を買いました。しかし、岩男はそんなお金から始まった結婚に真の愛情を見出しつつありました。

そして裕次郎の一件があり、ようやく岩男とアイリーンはお互いに愛情めいた感情を感じるようになります。しかし、不思議なもので人間という生き物は、あれだけ欲していたのに、手に入れてしまうと急に疎ましく感じてしまったり、突き放したくなってしまうのです。岩男もまた少しずつアイリーンを疎ましく思うようになり、彼女を突き放そうとしてしまいます。

その結果として夫婦の営みは「買春・売春」の次元へと堕落し、岩男は周囲の女性たちと関係を持つようになってしまいます。その一方で、岩男は山の上の寺の境内の木々に「アイリーン」とナイフで刻印するようになります。

これはペニスとナイフの対比的な関係を描き出す大切な演出だと私は考えています。岩男はもう自分のペニスでもって女性を愛するということができなくなっていたんだと思います。アイリーンと「make love」な性的な関係を結んでしまうと、そこには愛情ではなく、殺人を犯したことからくる恐怖感と自分の性的欲求のみが介在して、純粋に彼女を愛することがもはや叶わなくなったと感じたのでしょう。

本作中である種、岩男の鏡のような存在として登場する愛子。彼女は家庭を顧みる「母親」としてではなく、「女」として生き続けています。そして、愛を注ぐことを恐れて、手当たり次第に性行為を繰り返し自分を満たしています。ただ岩男も同じことをしていて、彼女が夫にビンタされ岩男に「諦念」に満ちた視線を向けた時、彼はようやく自分がしていることが愛子と何ら変わりないことに気がついてしまうんです。

岩男は冒頭で一度、斎藤と愛子が関係を持っていることを聞いて、彼女を突き放しているんです。彼女を嫌悪しているんです。そんな彼女と自分が同等の存在でしかなかったことを突きつけられてしまったのがあのシーンではないでしょうか。

だからこそ彼は自分が傷つかないために、愛のない性交渉に逃避し、本当の愛情をペニスではなく、ナイフに託しました。愛情があるからこそ彼はアイリーンの名前を木々に刻み込み、彼女を「傷つける」ことで彼女を愛したのです。彼はナイフで刻み付けているこの行為こそが「愛」なんだと信じたかったのかもしれません。

おわりに:本当の愛と幸せを求め続けるアイリーンとラストシーンについて

今作で描かれているような、発展途上国と呼ばれる国の女性を先進国の男性がお金で買って、結婚するという現状は、現に我々の社会に存在している問題です。それは多くの人が知るところでしょう。

そのため、そういう結婚に対して我々は「お金のための結婚だ」と嘲笑したくなるのは当然ですし、そんな経緯で日本にやってきた外国人女性に差別的、蔑視的な視線を向けてしまうのも当然の真理と言えるでしょう。(それが道徳的、倫理的に正しいかどうかはさておき)

『愛しのアイリーン』に登場するフィリピン人女性たちも、基本的に日本で結婚し、働くことでフィリピンに住む家族を幸せにしてあげたいという思いが先行していて、結婚相手など金づるにしか見ていません。これがいわゆる我々が抱くステレオタイプ的なイメージです。

ただこの作品に登場する日本人キャストの愛情は同等かそれ以上に歪んでいます。岩男も愛子も、斉藤も誰もが性行為への欲求ばかりを抱いていますし、ツルの岩男への愛情もただの押しつけでしかありません。そんな中でアイリーンだけが真実の愛を求めている点がこの上なくアイロニーとして機能しているではありませんか。

「お金で始まった愛は汚らわしい」という風潮は、現に日本に蔓延っていますが、それが「真実の愛」と結びつかないと決めつけることが果たして正統と言えるのでしょうか。アイリーンという女性は「心は金では売らない」と公言していました。その発言の真偽は不明ですが、彼女がお金だけではなく「愛」を求めていたのもまた事実でしょう。

結局、愛なんてものはお金が絡んでいるかどうかに関係なく、どこか歪んでいるものです。それでも人は自分の愛だけは歪んでいないと信じていたいし、逆に自分だけは歪みのない愛を手に入れたいと願います。

本作のラストシーンは非常に印象的です。雪の中をひたすらに歩くアイリーンの姿は、冒頭の岩男の「春近しだ。」というセリフに呼応しています。岩男にとっての「春」とは愛を獲得することです。そう考えると、アイリーンはいつか自分のところに訪れるであろう真の愛情の存在を信じ、それが到来する「春」を求めて歩いているように思えます。

それをいつか彼女が手に入れられるであろうという「希望」と見るか、永遠に雪の中に閉ざされもはや手に入れることは叶わないだろうという「絶望」と見るかはこの映画を見るあなたに委ねられています。

吉田恵輔監督が我々に投げかけた深い問いとラストシーンの余韻に身震いが止まらなくなります。

ぜひぜひ皆様自身でこの映画についていろいろと考えてみて欲しいと思います。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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