【ネタバレあり】『未来のミライ』解説・考察:細田監督が目をつけたのは子供の成長の神秘だった?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『未来のミライ』についてお話していこうと思います。

極力自分がお話したい部分以外のネタバレに触れないようにし、最低限度の情報開示で自分が伝えたいことを書いていこうとは思うのですが、どうしてもネタバレになってしまう部分がいくつかありますのでお気をつけくださいますよう、よろしくお願いいたします。核心のネタバレはしないように注意します。

公開日を迎えたので、6の章の考察では少し終盤の内容に踏み込んでいます。お気をつけください。

事前評価で酷評が並んでいるので、この映画は物語的に確かに欠陥はありますが、それでも描こうとしたものは面白いんだということを何とかお伝えして、本編を見ずして、映画から距離を取ってしまわないでください・・・とは思うんですけどね。

ネタバレが含まれないのは、目次で言うと2と5と7になります。3に関しては本編中盤くらいまでの展開に一部言及しています。6に関しては本編終盤までの内容に言及しています。

良かったら最後までお付き合いください。

アイキャッチ画像:(C)2018 スタジオ地図 『未来のミライ』予告編より引用

あらすじ・概要

「バケモノの子」「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督が手がけるオリジナルの長編劇場用アニメーション。甘えん坊の4歳の男児くんちゃんと、未来からやってきた成長した妹ミライの2人が繰り広げる不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描く。

とある都会の片隅。小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんは、生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしていた。そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。彼女は、未来からやってきた妹ミライだった。

ミライに導かれ、時を越えた冒険に出たくんちゃんは、かつて王子だったという謎の男や幼い頃の母、青年時代の曽祖父など、不思議な出会いを果たしていく。

これがアニメ声優初挑戦の上白石萌歌がくんちゃん、細田作品は3度目となる黒木華がミライの声を担当。両親役に星野源、麻生久美子、祖父母役に宮崎美子、役所広司。

映画com.より引用)

解説:細田監督らしい家族映画とファンタジーの融合

細田監督と言えば『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』と基本的に家族を主題に据えた映画作品を撮ってきた監督です。

『サマーウォーズ』や『バケモノの子』はどちらかと言うとエンタメ性と勢いで突っ走ったという印象の映画なんですが、『おおかみこどもの雨と雪』なんかは、すごく家族というものを冷静な視点で捉えていた印象が強いです。

今年の春に日本でも公開された映画『リメンバーミー』のように家族はいつでも一緒にいなければならないもので、大切なものだというメキシコの伝統的な価値観が強く反映された映画だったんですが、細田監督はそういったステレオタイプ的な家族観を映画には持ち込んでいないように思います。

それは『おおかみこどもの雨と雪』でもそうでしたし『バケモノの子』もそうでしたし、侘助の描写なんかを見ていると『サマーウォーズ』もそうなのかなと思います。基本的には「家族」を中心に据えてはいるんですが、その家族の実情を精緻に描くというよりも、一歩引いた距離に視点を置いてその在り方を観察しているという非常にドライな撮り方をするのが私の細田監督作品の家族のイメージです。

そして本作『未来のミライ』は、細田監督自身が「家一軒と庭一つの物語」と仰っている通りの映画で、とある家族の歴史と生活を過度に踏み込もうとはせず、極めて客観的な視点で切り取った映画になっています。だからこそファンタジー要素も混ざるのですが、どこか写実的な印象が強く、それがために物語としては起伏が少なめになっています。

細田監督のそのドライな視点がかなり強く出ている作品なので、1本の映画としてのエンタメ性という観点で見ると、正直彼のフィルモグラフィーの中で最も低いと思います。ただその写実性がすごくうまく機能していて、例えばリビングに何が置かれているのかですとか、キッチンやダイニングの様子、両親の会話や関係性といった日常の機微を淡々と切り取ることで「とある家族」の家族像を映像でもってきちんと受け手に伝えているんですよ。

こういうリアリスティックな映像はいつもながら上手いなぁと思うんですが、今作に関してはファンタジー要素があまりにも酷いのです。日常と非日常の邂逅というこの上なく盛り上がるシチュエーションのはずなのに、如何せんその設定に難が多いのと、タイムリープ設定が破綻しまくっていることで一体何がしたかったんだ?という疑問が拭いきれないんです。

総評としましては細田監督らしい良さもありながら、脚本はいつもに増してグダグダで、さらにエンタメ性が非常に低い内容なので、彼の作品の中では申し訳ないですが、個人的にワーストに近い作品となりました。

解説:この映画のファンタジー要素は何を意味したのか?

(C)2018 スタジオ地図 『未来のミライ』予告編より引用

『未来のミライ』という作品は極めて冷静な視点から家族を客観的に捉えた映画であるわけです。さてそんな家族の子育て奮闘記の中で1つだけ謎があるとすれば、子供って親の見えないところで不思議な力に導かれたかのように成長していくという事実です。

私は自分が誰かの親になったことがはない人間ですが、よく両親は「子供って知らない間にできるようになったたりしていて驚かされる」という話をしてくれました。これっておそらく子供を育てたことがある人にとってのある種の神秘なんだと思うんですよ。

親の力が届かないところで、子供に何らかの不思議な力が働いているんじゃないか?というその「謎」を子供の視点で可視化したのが『未来のミライ』のファンタジー描写なのではないかと私は思っています。ファンタジー世界にくんちゃんの知っている事物(電車など)や読んでいる絵本の内容が反映されているのがその根拠の1つと言えるでしょうか。

だからこそ大人の視点で見ると、謎だらけでとても受け入れがたい世界観ではあるんですが、それが子供の成長に繋がっているということを考えると、やはりこれは大人には見えない子供の成長の神秘の正体の具現化だと思うんですよね。

それを踏まえて考えると終盤に登場する夫婦のやり取りが凄く腑に落ちます。

「こんなでも前より父親らしくなったのかな?」

「まあそこそこ」

「そこそこかー」

「わたしはどう?母親らしくなった?」

「まあまあ。でも最高じゃないな。」

「そこそこで充分。最悪じゃなきゃいいよ。」

(角川文庫『未来のミライ』細田守:257ページ参照)

親って結局子供の成長の全てを担っているわけではないんです。自分たちの力だけで子供を完璧に育てようとしてもそんなことは不可能だと思いますし、そうなる必要だってないんです。なぜなら子供は勝手に成長していく生き物だからです。

だからこそ親は「そこそこで充分」なんです。決して最高になる必要はないわけです。さらに言うと、この終盤のやり取りは両親自身の成長をも仄めかす内容になっています。

つまり細田監督がこの『未来のミライ』で描こうとしたのは、まずはファンタジー要素を基調とした子供の成長の神秘の可視化であり、そしてそんな子供の成長の在り方を見守る親の在り方でもあったと思うんですね。

何気なく日常を一緒に過ごして、笑ったり、泣いたり、喧嘩したり。そういう日々の連続の中で、少しずつ無意識的に子どももそして親も成長していく。そんな光景が見られたならば、その集団を「家族」と呼んでも良いのではないだろうかという細田監督の冷静な分析眼が伺えます。

だからこそ『未来のミライ』という作品が孕んでいる家族観って全然押しつけがましいものではないと思うんですよ。むしろすごく広い意味で家族を捉えているような気がしますし、決して限定的でもありません。

理想的な父親も、母親も、お兄ちゃんも登場しないこの作品では、先ほどのセリフにもある通りで「そこそこで充分」という考え方が通底しています。最高の家族なんてものはないけれども、一緒に時間を共有し、少しずつ「家族」になっていけたら良いなという細田監督らしい少しの諦念と、大きな優しさのようなものすら感じられますよね。

自分の子育て経験からこの作品の着想を得たということですから、こういう家族になっていけたらいいなという極めて私小説的な家族観への言及の仕方なんだろうなと思います。夏の娯楽大作でこんなにミニマルでかつ私的な物語を投入してくるとは細田監督はチャレンジャーですね。

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考察:この映画のファンタジー設定を何度も考えてみた

この映画の1つの肝が時を超えるタイムリープファンタジー要素なんですが、如何せんこの部分の意味がよく分からないんですよね。

確かに細田監督って『サマーウォーズ』のOZの世界、『おおかみこどもの雨と雪』の動物の世界、『バケモノの子』のバケモノの世界といった異世界ファンタジーと家族劇を掛け合わせたアニメ映画を多く世に送り出してきたわけですが、今回ばかりは腑に落ちない点が多すぎました。

ということで今回はこの映画の設定についていろいろと考えてみました。

くんちゃんが犬に変身?

まず最初のくんちゃんに降りかかる不思議な体験というのが、犬のゆっこが擬人化するというものなんですが、どうしてもこのパートが必要だったのかという疑問が拭えないんですよね。

というのもこの後何度もくんちゃんは過去や未来へのタイムリープを経験することになるんですが、この犬に変身するパートだけが時間の移動がないんですよ。それでいて、かなり不可解なシークエンスになっています。

そもそもくんちゃんがゆっこから尻尾を引き抜いて、犬に変化するくだりは必要だったんですかね。これ完全に細田監督の個人的な趣味ですよね(笑)。お父さんのいるダイニングをかけ廻るのはいいんですが、その時にお父さんがくんちゃんのことを「ゆっこ」だと表現しているんです。

このお父さんのセリフを入れたのが個人的には謎でして、ここはあくまでも、くんちゃんの想像の世界の話に留めておけばよかったんじゃないかと思うんです。ここでお父さんにくんちゃんが「ゆっこ」として見えているのであれば、くんちゃんが見ているファンタジー世界は現実世界に物理的に干渉できることになってしまうからです。

さらに次のミライちゃん初登場パートは全くもって腑に落ちません。

ミライちゃんが4歳くんちゃんの時間軸に初登場

(C)2018 スタジオ地図 『未来のミライ』予告編より引用

ここが個人的にこの映画で一番疑問が残るパートなんですよ。というのも基本的にタイムリープもの、タイムトラベルものって「過去」を改変することにはかなり慎重であるべきだと思うんです。というのも「過去」を変えるということは、そのまま未来を変えることに他ならないからです。

しかもですよ後々明かされるんですが、この映画の根幹をなすテーマの1つとして「ほんの些細なことがいくつも積み重なって『今』の私たちを形作っている」という言葉が登場します。これが重要なキーワードであり、本作で描かれる家族像の根幹をなす以上、「ほんの些細なこと」をもっと尊重する必要性はあると思うんです。

ただですよ。未来のミライちゃんはあろうことか「雛人形を片付ける」という私欲のために、未来から現在へとやって来て、そして過去の「ほんの些細なこと」を改変しようとしているんです。これってもはや自分で自分の作品のテーマを否定しているようなものではないですか?

ただ、未来のミライちゃんがやって来たことは4歳のくんちゃんの想像上の世界ないし夢だったで終わらせてしまえればよかったんです。しかし、この映画はご丁寧にその夢オチ説が立証出来ないようにしてくれちゃっているんです。下の図を見てください。

個人的にこの1度目のミライちゃんのタイムリープの事実関係を整理してみたんですが、注目したいのは、4歳くんちゃんの時間軸の世界に物理的な干渉が生じているということです。

物理的な干渉や影響が生じていなければ、くんちゃんの想像上の世界の話だったで済ませられたのに、「雛人形が片づけられていた」という事実が存在するためにそれは立証不可能なんですよ。つまり、このシーンでは間違いなく過去の「ほんの些細なこと」が書き換えられたことになります。

くんちゃんがお父さんに気がつかれずに1人で片づけたという線も可能性としては残されていますが、くんちゃんの背丈や身体能力を鑑みても、お父さんに気がつかれずに1人で片づけてしまうというのはさずがに状況から判断して難がありすぎますね。

それをやり遂げてしまったのがくんちゃんの成長なんだよ。というのであれば、整合性をとれないことはないんですが、あの描写でその可能性を想定しろと・・・?

幼少期の母・父の面影を残した青年との出会い

いたずらにネタバレになるような内容をお話するわけにもいかないと思うので、このパートに関しては深くは語らないものとします。くんちゃんが過去に行って、幼少期の母や父の面影を残した青年と出会いひと時の交流をするエピソードが中盤に登場します。

これに関してはくんちゃんが過去にいって、出会うはずの無い人と出会うことで過去の「ほんの些細なこと」に改変が生じてしまうのではないかという懸念はあるのですが、あくまでもくんちゃんの夢の中の世界だったということで済ませてしまうことはできます。

この2つのパートでは物理的な干渉は起こっておらず、あくまでもくんちゃんの意識の中に影響が生じたにとどまっているからです。

この2つのファンタジーパートは個人的に非常に良かったと思いますし、涙腺が刺激されました。ただこのシーンに関しても先ほどの事実のせいでこの映画の中では「改変」が認められてしまうという土台が出来てしまっていますから、どうしても入ってこないところがありました。

この作品は作品内ルールを守れていないのでは?

この作品のタイムループ設定と言いますか、ルール設定みたいなものが冒頭に犬のゆっこの口から明かされるんですよ。それは同じ『今』に同じ人物が2人存在できないということです。

これも問題の最初のミライちゃんワープ事件の話でして、このシーンで未来のミライちゃんが現れた時に、赤ちゃんのミライちゃんが一瞬消失しているんです。この時にゆっこが「未来のミライちゃんと赤ちゃんのミライちゃん、同時には存在しないってことですかねぇ」とある種のルール設定みたいなものを仄めかすシーンがありました。

私はてっきりこのルール設定がある種の伏線みたいなもので、後々何らかの効力を発揮してくるものだとばかり思っていました。

しかし映画『未来のミライ』は何と自分でそのルールをぶち壊してしまっているではないですか!駅の待合室のシーンですよ。同じ『今』に同一人物が2人は存在できないというルールは一体どうなったというんですか!!

あれは同一人物では無かった説というのも模索してはみましたが、終盤のあれがあるので手詰まりです。ここの設定の齟齬に関してどうしても謎が埋まりません。

ここに関してどなたかこの映画の矛盾を排除できる説が思いついた方がいらっしゃいましたら、そっと教えていただけると嬉しいです。

このシーンもあくまでも想像の世界の範疇の話だからということにすると、この時点では同一人物であるということが判明していなかったからという理屈はこねられるんですけどね。

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考察:ここまでの謎や矛盾に整合性を与えてみる

ナガ
未来のミライちゃんのアザの安易さに注目したいところ!

さてここまでこの『未来のミライ』という作品についてお話してきましたが、どちらかと言うと物語上の欠陥があるのではないかという視点でお話しました。

ただ、ここまでお話してきた謎や矛盾は本作のファンタジー要素があくまでも「くんちゃんの想像」だったと考えると整合性が取れなくもないんですよ。

しかし、くんちゃんは4歳ですからね・・・。そんな4歳のくんちゃんがこんなに複雑な時間の概念を理解して、想像して、具現化するというのは少し難しいんじゃないかな?とも思ってしまうのが正直なところではあります。

例えば、最初の未来のミライちゃんが雛人形を片付けにやって来たところもあくまでも雛人形を片付けたのはくんちゃんだったと考えれば、矛盾は生じません。無理はありますけどね。

また本作の未来のミライちゃんって手にアザがありますよね。このアザに関して、お母さんは将来消えるかもしれないし、残ったままになるかもしれないと仄めかしています。つまり未来のミライちゃんの手にアザが残っているかどうかというのは、現在ベースで考えるとあくまでも不確定要素なんです。

しかし、ミライちゃんの手には確かにアザがあります。これは現在のくんちゃんが赤ん坊のミライちゃんを見て、その将来の姿を想像したからなのではないかなんて考えてみました。

他にも同一人物が2人同じ「今」には存在できないという矛盾に関してですが、これもくんちゃんがあの高校生が将来のくんちゃんだと理解していなかったとすれば、整合性は取れなくはないです。

ただ、やはりストーリーや設定上の欠陥は明らかでしょうね。こればっかりは擁護しきれない部分はあります。

公開日を迎えたのでラストまでのネタバレ解放で考察!

さて、ここまでいろいろと『未来のミライ』について考察してきたわけですが、まだまだ私は諦めきれないのです。どうしてもこの謎めいた映画に1つの道筋を見出したいんです。このモヤモヤを抱えたまま『未来のミライ』という作品を「よくわからない映画」として片づけたくないんです。

先ほどの章でこの作品は「子供の成長の神秘」を描いた作品ではないかということで細田監督の視点を読み解いてみました。そしてその視点と、この映画にあまりにも多すぎる矛盾点と謎、これらを繋ぎ合わせて見た時に、自分の中で一筋のの光が見えてきました。

ナガ
もしかして辻褄があわないのはくんちゃんが成長しているからか?

この大前提に立ち返って見た時に、この映画の多くの要素が自分の中で腑に落ちたように感じました。その考察の内容をここから詳しくお話していくのですが、どうしても作品の終盤までのネタバレに触れざるを得ません。ここからは作品を鑑賞してから読んでいただけると幸いです。

冒頭のくんちゃん

まずは冒頭のいくつかのシーンについて触れていきます。

1つ目はくんちゃんが出産を終えたお母さんが病院から帰ってくるのを待ちわびているシーンです。すごく何気ないシーンなんですが、今考えるとすごく大切なシーンだと気がつきました。くんちゃんは窓の外を見ながらしきりに「まだかなぁ・・・。」とため息をついています。

この行動の真意を探ってみて欲しいんです。そう考えた時に、時間の概念というキーワードが自ずと浮上してきます。つまりこの時のくんちゃんには「未来」という概念そのものが備わっていないんですよ。「まだかなぁ・・・」としきりにため息を吐くのは、自分の待ちわびている事柄が「今」でないからなんですよ。冒頭のくんちゃんには「今」しかないんです。

だからこそこのシーンに付随して見られる、お母さんが帰ってくるまでに片づけをしておいてというタスクをくんちゃんがこなせないのはそのためです。くんちゃんには「未来」を想像して、そのために片づけをするという意味が理解できていないんですね。

2つ目にくんちゃんが「お母さん」からの愛情に飢えて、わがままを言うシーンですよね。これもまたくんちゃんに「未来」の考え方が備わっていないのが理由といえます。彼にとって大切なのはあくまでも「今」でしかなくて、そして「今」愛情を注がれるかどうか、そこにしか焦点が当たっていないんです。

彼が電車のおもちゃで赤ちゃんのミライを叩くのもそうです。彼にとっては自分の「今」だけが重要なのであり、他人の「今」ないし「未来」は眼中にないわけです。だからこそくんちゃんはそういう行動をとってしまうんです。

不可解なタイムリープの本当の意味

先ほどまでもこの作品のタイムリープはあまりにも矛盾が多すぎるという話を繰り返ししてきました。しかしですよ、ここまで矛盾を引き起こしまくっていることに製作側が気付いていないはずがないと思うんです。そう考えた時に、この矛盾すらも意図したものではないかという逆転の発想に至るわけです。

まずくんちゃんが最初に経験したのはゆっことの不思議な体験でしたよね。注目したいのは、この事象だけ時間軸が「今」なんですよ。これは極めて重要で、「未来」という概念がまだ存在していないくんちゃんに最初に降りかかる超現実的世界はやはり「今」のことであるべきと言えるでしょう。そしてこの出来事を通じてくんちゃんは何を学んだのかというと、それは他人の気持ちを推し量ることなんですね。

「もっとおいしいドックフードが食べたいよ~」というゆっこの気持ちをまがいなりにも想像できるようになった点が、自分中心の世界観しか備わっていなかったくんちゃんの最初の成長なんです。

くんちゃんがゆっこに変身する意味:これは深読みすぎるかもしれませんが、幼児ってまだ「人間らしさ」と言いますか、人間特有の知能みたいなものが未発達な状態じゃないですか。つまりこれって動物に近いってことなんですよ。そこから人間は徐々に成長して「動物的な本能」みたいなものを抑え、「人間らしい」生き方を身につけることとなります。そう考えると、くんちゃんがゆっこに変身したことというのは、まだ彼が未熟で動物的に生きていることを示していて、本作はそこからの成長物語だったのではないかと考えてみると、あの細田監督特有のケモナー描写にも意味が見出せるかもしれません。くんちゃんが「動物」から「人間」へと成長する物語だったのかもしれませんね。

そして次に未来のミライちゃんがやって来ます。この時に先ほど指摘した同じ時間軸に同一の存在は1人まで問題が発生しましたよね。ただこれも実はくんちゃんの成長なのだと考えると腑に落ちてしまうんです。

アザに隠された意味:「今」という概念しか持ち合わせていないくんちゃんが、高校生の少女を「未来」のミライちゃんだとかろうじて認識できたのがあの「アザ」という設定だったのがこれまた面白いです。これはあくまで「今」のミライちゃんにも備わっているものですし、それがあるからこそ謎の高校生少女とミライちゃんが繋がったんですよね。つまりあの「アザ」がくんちゃんの「今」から「未来」への1つの橋渡しになっていたんですよ。

最初にミライちゃんと出会った時のくんちゃんは何度も述べているように「今」という概念しか持ち合わせていません。つまり「今」は1つしかないものであり、それゆえに自分の「今」に同じ人が2人いるなんてことは想像できませんし、未来のミライちゃんと赤ちゃんのミライちゃんが同時に存在するという世界観がそもそも難解すぎるんです。だからこそこの時点では、同じ時間軸に同一人物は存在できなかったんだと思います。

その後くんちゃんは過去や未来を行き来しながら、成長していきますよね。

例えば、終盤の駅のシーンです。このシーンでくんちゃんに求められたのは「くんちゃん」以外の自分になることです。これがつまりどういうことかと言いますと、今までの彼は自分が中心の世界に生きていたために、自分はあくまでも自分でしかなかったんです。

そんなくんちゃんが自分の世界の中に他人が存在することを認識して、そしてその関係性の中で自分を定義するという概念的な成長をしているのが、まさにあの駅のシーンなのです。

他にも、ラストのファミリーツリーのシーンですよね。このシーンでくんちゃんは「未来」(ないしは「過去」)という概念を自分の「今」とは違う「今」という考えた方で認識しているんです。つまり自分が生きている「今」以外にも、時間が存在しているんだというまだぼんやりとした認識ではありますが、確かに未来と過去を認識し始めたんですよ。

すると終盤のシーンで、彼は自分というくんちゃんの存在を認識しながら、同時に目の前に存在している未来のくんちゃんを現前させられるようになったわけです。つまり本作の「同一時間軸に同一人物が存在できないルールの矛盾」というのは、極めて意図的なもので、その矛盾こそがくんちゃんの成長なのではないかと思い至ったわけです。

くんちゃんが4歳でなければならなかった理由

幼児教育の世界でしばしば囁かれているのが「4歳の壁」という言葉です。これは個人差はありつつも4歳の頃に子供の認知能力が大幅に発達することから使われるようになった言葉です。

その認知能力の発達に際して、子供は「壁」に直面して、今までの「今」志向、自分中心の世界の変化と拡張に戸惑って精神的に不安定になるのです。

映画『未来のミライ』で主人公のくんちゃんが4歳なのは、間違いなく偶然ではありません。子供はちょうどこの4歳の頃に未来や過去(明日や昨日)という想像ができるようになったり、他人の気持ちを想像し始めたり、他人が存在する世界の中で他人との関係の中で自分を定義するようになるんです。まだぼんやりとではあるんですが、こういった世界観の広がりが生じ始めるのがちょうど4歳だといわれています。

くんちゃんが自転車に乗れるようになり、友達ができる描写もそうですし、彼がたくさんの「今」があるというぼんやりとした時間の概念を認識し始めるのもそうです。全ては4歳のくんちゃんの概念的な世界の広がりへと繋がっているんです。

そう考えた時に、この映画はもはや矛盾点すらも意味があるように思えてきましたし、この映画の評価がひっくり返ったようにすら感じられます。

おわりに:作品を総括して

さて作品を総括した評価をしていくわけですが、細田監督が描こうとしたものは非常に面白い試みだったと思います。正直そこに目をつけるんだという非常に面白い着眼点でしたし、驚かされました。

ただそれを表現するためのファンタジー要素やタイムリープ設定の中にどうも設定の粗が見られるんですよね。「ほんの些細なこと」の連続が家族を形成しているんだというセリフをこの作品のキーワードにしたかったのであれば、時空を超えた物理干渉が出来てしまうという描写は見たくなかったなぁと思いました。

ファンタジー要素の取り入れ方や取り入れた意図自体は大変興味深いものだったので、あとはその設定のディテールをもう少し詰めて欲しかったという思いはありますね。粗探しがしたいわけではないんですが、どうしても目についてしまいました。

評価としては細田監督作品の中では下から2番目といったところでしょうか?一番下は『バケモノの子』になってしまいます。

参考:前半だけは最高なのに後半で怒涛の崩壊を見せる『バケモノの子』

ただ好きか嫌いかで言えば、私は細田監督作品の中では一番苦手な作品です。それはもはや単純にエンタメ性が低いからとしか言いようがありません。

ファンタジー要素のディテールがしっかりしていて、それでいてもう少し映画としての山場みたいなところがあれば、細田監督の最高傑作にも十分なり得た題材だと思いました。

参考:『未来のミライ』興行収入情報はこちらから!!

次は新海誠監督のターンがやって来ることとは思いますが、また4年後の細田監督作品を楽しみに待ちたいと思います。やはり細田監督作品は「家族」のテーマの重箱の隅をつつくのが上手いので、発想にはいつもあっと言わされています。だからこそあとはそれを見せるためのストーリーの質をもう一段階グレードアップしてくれたら・・・という感じです。

公開日を迎え、終盤までのネタバレあり考察を追記しましたが、これにより自分の中での評価が変わり始めました。大幅上方修正かもしれません。

最後になりますが、山下達郎さんのOP主題歌がめちゃくちゃ良かったです。というよりもOPの映像が素晴らしかったです。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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2 件のコメント

  • 以前心理実験で、子供に今、おかしをもどって来るまで、食べなかったら、更におかしを更に上げるよと言って、実験する大人は、部屋を出て行きます。利益が解って未来を創造できる段階に達している子供は、おかしを食べるのを我慢するが、今しか認識出来ない子供は、食べてしまう。
    その実験のことを思い出しました。
    それは、それとして、未来の痣の意味、同時に何か別のシナリオが平行して進行していて後で小説か、漫画で出るんじゃないかとふと思いました。都市伝説の異世界への行き方のマニュアル化が目的だとしたらなんてことは、ないか、、、。
    アカシックレコードへのアクセスとしては、健全かなとw。

    • 青木様、コメントありがとうございます!
      マシュマロ実験ですね!
      今作はあくまでもくんちゃん視点の映画でしたが、同時進行的時間軸でのミライちゃん視点の物語があっても面白いかもしれませんね!!

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