映画『君たちはどう生きるか』感想と考察:自己問答の果てに手をかけた「美しさ」(ネタバレ注意)

物語の展開にはできる限り具体的に言及しないようにしていますが、作品鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。

宮崎駿監督の映画作品を見てきて、今もずっと忘れられずにいるのが、映画『風立ちぬ』のクライマックスの「零戦の墓場」の光景だ。

これまで、自身の創造的行為によって、世界中の人を魅了するイメージを作り出してきた彼の、創造の果てに広がっていた光景が、こんなにも破滅的で、残酷なものだったのかと衝撃を受けた。

何かを生み出し、何かを手に入れてきた一方で、何かを壊し、何かを手放してきたこと。

老いた巨匠が、創造的行為の繰り返しの果てに辿り着いた、「創る」ことと「壊す」ことは表裏一体であると言わんばかりの境地に圧倒された。

彼は、『風立ちぬ』を最後にアニメ監督からの引退を表明していたわけだが、それにふさわしい作品だったと今でも思っている。

そして、2023年。「引退」という言葉を破って、再び創造的行為に手を伸ばした齢82歳の巨匠は、何を描きたかったのだろうか。

宮崎駿監督は、今作の初号試写会の後に読み上げられたコメントの中で、次のように述べていたという。

おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました。

(好書好日「『君たちはどう生きるか』宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと」

今作に散りばめられたさまざまな記号的要素たちについては、既に多くの解釈が述べられているが、この発言から察するに、監督自身も「こうである」というのは明確にしていないのだろう。

だからこそ、この記事の中で、私が綴っていく内容も、あくまでも「わたしはこう考えた」に過ぎないものとなる。それを承知の上で、少しだけお付き合いいただきたい。

私は『君たちはどう生きるか』という作品のキーワードは「悪意」だったのではないかと思う。

ドイツの思想家、フリードリヒ・ニーチェはこう述べた。

悪意というものは、他人の苦痛自体を目的とするものにあらずして、われわれ自身の享楽を目的とする。

今作の中で、印象に残ったシーンの1つが、主人公の眞人が、父の工場から屋敷に運ばれてくる戦闘機のキャノピーを見つめるシーンだ。

眞人は精巧に作られたキャノピーを見つめて、それをただ純粋に「美しい」と評した。

しかし、キャノピーというのは、言わば徴兵された兵士たちにとっての「棺桶の蓋」のようなものであり、それは「美しい」などという言葉とは裏腹に無意識の「悪意」を内包したアイテムである。

『風立ちぬ』でも描かれたように、戦闘機もある種の創造の産物であり、そこには創作者の美学と享楽が入り混じっている。

ただ、ニーチェの言葉を借りるのであれば、その享楽にこそ真の「悪意」が潜んでいると言えるのかもしれない。

宮崎駿監督が『風立ちぬ』の中で、主人公の妻である菜穂子を「美しいところだけを好きな人に見てもらったのね」と評し、神格化したのは、そうした「悪意」とは切り離された極めて純粋な「善なるもの」を渇望していたからなのかもしれない。

『君たちはどう生きるか』でも、まさしくそうした価値観は見え隠れしている。

「悪意」を排除した美しい世界の創造を強く望む宮崎駿監督自身の分身のようなキャラクターが登場することからもそれは明らかだ。

先ほども引用したニーチェ『道徳の系譜』の中で面白い考察をしている。

奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う。つまりこの否定こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転—自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向—こそが、まさにルサンチマン特有のものである。

(フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜』より)

ニーチェは同書の中で「貴族道徳」と「奴隷道徳」という概念を対置し、「奴隷道徳」が「善い」と「悪い」の価値基準を転覆させてきた背景について述べている。

先ほども述べた監督自身の分身のようなキャラクターは自分の作り出した世界が「美しい」とただ純粋に信じている。その一方で、彼が作り出したのではない、外の世界を悪意に満ちた世界であると評している。

つまり、ニーチェの言うように、彼の創造的行為は「否定」から始まっているのであり、その点で、「悪意」から逃れ得ないのだ。

映画を作るということは、確固たる自分の世界を作ることなのだが、それは強い自己肯定と強い他者否定の両面によって支えられているのかもしれない。

そして「美しさ」の背後に無意識のうちに忍び込んだ作り手の「悪意」は、時に観客を巻き込んで、特定の思想に誘導してしまう危険性を孕んでいる。

「美しいところだけを見せる」ことを美徳とし続けた人生の果てに辿り着いたのは、「悪意」を拒み排除しようと試みるのではなく、「悪意」を認め受け入れるべきだという境地なのだろう。

そんな「悪意」を認め受け入れるべきだという思想は観客に届く前に、主人公の眞人が受け止め、そして彼の「悪意の告白」につながる。

この主人公の眞人もまた、監督自身の生い立ちと重なる部分がある分身的キャラクターであるがゆえに、『君たちはどう生きるか』は監督自身の自己問答のようにも見えてくる。

『君たちはどう生きるか』というタイトルがゆえに、劇場を後にする私たちは監督から何かを問われ、求められているような気分になる。この映画から何かを受け取り、まさしく「どう生きるか」を考えなければならないのではないかと思わされる。

しかし、監督自身も述べているように、この映画は結局のところ「訳が分からない」のだ。

そして、この作品は、前述のとおり監督自身の自己問答的側面が強く、作り手と受け手が劇中世界に同居し、さらには劇中現実と劇中虚構が併存するという形で世界が閉じている。

つまり、『君たちはどう生きるか』というタイトルでありながら、言ってしまえば『僕はこう生きた』であり、『僕はこう生きる』でしかない。そこに観客の割って入る余地など感じさせない。

本作が観客を呼び込むためのいわゆる「宣伝」をほとんどしていないという商業的な側面も、ここにリンクしているような気すらしてくる。

映画の終盤に、アオサギは主人公の眞人に「あの世界の出来事はそのうち忘れてしまう。でも、それでいい。」と告げている。何だか観客を映画から遠ざけようとするようにすら感じられるメタ的なセリフだったが、今作の作りを考えると腑に落ちるものがある。

作品性の観点から『風立ちぬ』がこの上なく引退にふさわしい作品であるという私自身の見解は今作を見た今も変わらない。老いた巨匠が「地球儀」を回しながら、自身の人生を顧みるような映画だからだ。

一方で、『君たちはどう生きるか』は、「地球儀」を回す老いた巨匠が、「高く遠く晴れ渡った空」を見つめる、生まれた日の僕に回帰して作ったような作品である。

それゆえに、今作は引退にはふさわしくない。そして、遺言だとも思えない。

むしろ、ここから再び歩み始めるのだという強い「決意表明」なのではないか。

観客を遠ざけ、自己問答を繰り返しながら、自分の世界の内側へと深く深く潜っていく。

その先に広がる、宮崎駿監督の心の中の原風景。それを可能な限り可視化したのがこの作品だと私は思う。

だからこそ、そこには「外」や「他」がなく、ひたすらに「自己」しか存在しない。

そんな作品を作る過程で、図らずも彼は人生を通して追求してきた「美しさ」に手をかけることができたのかもしれない。