映画『カモンカモン』感想:分かり合えない私たちが形作る世界の美しさを描く

当ブログのサブコンセプト「生活と物語、居場所について。
何処にでもあるようで、ここにしかない。わたしの、あなたのそんな「居場所」になってくれるような物語を届けていく。

作品情報

カモン カモン
<スタッフ>

  • 監督・脚本:マイク・ミルズ
  • 撮影:ロビー・ライアン
  • 編集:ジェニファー・ベッキアレッロ
  • 音楽:ブライス・デスナー/アーロン・デスナー

<キャスト>

  • ジョニー:ホアキン・フェニックス
  • ジェシー:ウッディ・ノーマン
  • ヴィヴ:ギャビー・ホフマン

映画『カモン カモン』感想

①大人にとっての「美しい物語」を壊して
②「分かり合えなさ」との邂逅、対話という歩み寄り
③都市と人、大きな世界と小さな私たちのつながり

①大人にとっての「美しい物語」を壊して

©2021 Be Funny When You Can LLC. All Rights Reserved.

大人と子どもの関わりに焦点を当てた物語は、これまでに数え切れないほどの数作られてきただろうと思う。

私が敬愛するドイツ人映画監督のヴィム・ヴェンダースも自身のキャリア初期に『都会のアリス』という名作を世に送り出した。(『カモン カモン』の監督であるマイク・ミルズは、同作に影響を受けたとも語っている。)

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ソフィア・コッポラが監督を務めた『SOMEWHERE』もそうした系譜にある映画の代表作の1つだろう。

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日本でも、近年話題となっている『SPY×FAMILY』というマンガがあるが、この作品もその物語の軸に子どもとの関わりの中で、大人に生じる変化が据えられていた。

こうした作品たちは子どもという存在を実に魅力的に描いている。子どもの純真さや無邪気さを瞬間的に切り取り、真空パックに閉じ込めるがごとく、フレームの中に収めている。その点で言うまでもなく優れている。

しかし、そうした子どもの純真さや無邪気さが大人を変えていくというプロットが、大人にとって都合のいい物語に、もっと言うなれば大人にとっての「美しい物語」になってはいないかという懸念が付きまとう。

『都会のアリス』『SOMEWHERE』を見た人に、劇中に登場する子どもを自分の子どもしたいかと問われると、多くの人が肯定的な返答をするのではないだろうか。

一方で、『カモン カモン』を見た人に、同様の質問をした場合、同じような結果にはならないことは想像に難くない。そこに、大人にとって都合のよい子どもは描かれていないからだ。

『カモン カモン』という作品は、突然子どもを預かることになった独身男性という、これまでにも何度も描かれてきた題材とシチュエーションを踏襲しながらも、そうした大人にとっての「美しい物語」とは一線を画している。

それは、監督であるマイク・ミルズ自身の育児の経験が映画に投影されているからなのだろう。

ホアキン・フェニックスを主演に迎えたマイク・ミルズ監督の最新作『カモン カモン』は、父親として今年10歳になる子供を育てている監督自身の経験を起点に生まれた映画だ。
GQJAPAN「映画『カモン カモン』マイク・ミルズ監督インタビュー【前篇】」)

子どもという存在に幻想を見るのではなく、自身の生活の、日常の一部の中に子どもとの関わりがあるからこそ、その関わりにおける「分かり合えなさ」にスポットが当てられている。

しかし、そんな「分かり合えなさ」との邂逅を描いたことにこそ、本作の価値がある。

②「分かり合えなさ」との邂逅、対話という歩み寄り

©2021 Be Funny When You Can LLC. All Rights Reserved.

大人は誰もが子ども時代を経験している。私も、そしてあなたも。

劇中で印象的な引用がある。クレア・A・ニヴォラ著の『星の子供』からの引用だ。

多くを学ぶだろう。多くを感じるだろう。快楽や恐れ、歓びや失望、悲しみや驚き。混乱と喜びの中で自分が来た場所を忘れる。大人になり、旅をし、仕事をする。もしかして子どもや孫を持つだろう。長年理解しようとする。幸せで、悲しく、豊かで、空っぽな変わり続ける人生の意味を。そして、星に還る日が来たら、不思議な美しい世界との別れがつらくなるだろう…。

生命が星々から地球へとやって来て、その生の営みを終え、また星へと還っていくまでを描いたこの本は、本作における大人と子どもの「分かり合えなさ」の一端を表現してくれているような気がする。

大人は誰もが子どもを経験しているのに、大人になると子どもの世界の言語や文法、マナーといったものを忘れてしまうのだ。

劇中でジョニーがジェシーにこう告げる。

「皆すべてを忘れる。君は今回のことを思い出せなくなる。旅の記憶がぼんやり残るくらいで。」

大人が子どもの頃のことをすべて鮮明に覚えていられるように、人間の脳が作られていたら、こんなにも大人の世界と子どもの世界が相反することはなかったのではないかと思う。

しかし、人間の脳は不合理にもそうはできていない。ジェシーは忘れるはずがないと断言し、ジョニーの脳の容量が小さいだけだと冗談を言うが、ジョニーはいずれジェシーもそうなることを予見している。

異なる世界で、異なる言語、文法、あるいはマナーに基づいて生きる大人と子どもはどうすれば分かり合えるのだろうか、歩み寄れるのだろうか。

ニューヨークの片隅にあるダイナーのトイレに閉じこもるジェシーと扉の前で立ち尽くすジョニー。本作を象徴的する光景だ。扉で隔てられた2人はどうすればいいのだろうか。

『カモン カモン』という作品の主眼はまさしくここに置かれている。

そして、その一つの回答として提示されているのが、「対話」だ。

「対話」というのは、単に音声言語を交わすだけの「会話」とは一線を画する。

マイク・ミルズはインタビューの中で「大人と違って、子どもたちは自分を守ろうとしない。」と指摘している。

CINRA「マイク・ミルズが語る、「わかりやすさ」への抵抗。他者との「わかりあえなさ」とのつき合い方」

自分を守ろうとしないというのは、嘘をついたり、自分の弱さから目を背けたり、あるいは秘密を画したりしないということである。

そして、「対話」においては、まさしくこの自分を守らないという姿勢が重要になってくる。

劇中で、母親のヴィヴは息子のジェシーのことを思って、さまざまなことを隠している。その最たるものは、父親の精神疾患のことだが、それ以外にもさまざまな事情を息子には打ち明けていない。

一方のジェシーは敏感で、ヴィヴがそうやってさまざまなことを隠していると分かっている。隠れてステーキを食べていることも。そういう姿勢から母親が自分と真に向き合ってくれていないことを感じ取っている。

だからこそ、ジェシーもまた自分を守るために、架空の人格を演じるというアプローチをとっている。自分ではない人間の人格を身に纏い、自分として他人に向き合うことを避けるのだ。

『カモン カモン』は、「自分を守らない」という選択と決断を通じて、ジョニーとジェシーの世界の接点を演出する。

「大丈夫じゃなくてもいいんだよ」という言葉を皮切りに、2人は自分のうちに渦巻く感情を爆発させる。それはもはや言葉ですらない、叫びにも似た感情の爆発である。

しかし、その感情のやり取りは、間違いなく「対話」だ。

大人と子ども、わたしとあなた。それぞれが自分の独立した世界を持っている。

ただ、それらの世界を隔てているのは、壁ではない。扉だ。

そして、その扉を開けるカギの一つは、嘘をつかず、弱さを認め、自分の内面をさらけ出した状態で向き合い、「対話」をすることなのだと思う。

『カモン カモン』というタイトルには、分かり合えない他人同士が、それでも「対話」を介して、少しずつ歩み寄って欲しいという切なる願いが込められているのではないか。

③都市と人、大きな世界と小さな私たちのつながり

©2021 Be Funny When You Can LLC. All Rights Reserved.

本作のクライマックスで描かれたオークランドでのパレードのシーン。

率直に良い画だなとそう思った。

この作品では、たくさんの子どもたちのインタビュー映像が使われている。

しかし、それらは別々の映像であり、インタビューに登場する子どもたちはみな独立した別々の世界に暮らしているかのような印象を与える。

そんな中でニューオーリンズの少女の一人が次のように答えているのが印象的だった。

「宿泊施設ばかり建てたら、いつかこの街らしさがなくなる。でも、よく考えてみると、この街に住む私たちこそ『ニューオーリンズ』よ。」

この言葉は、この世界に生きる私たちの「居場所」を優しく肯定してくれているような気がする。

都市があって、そこに私たちの「居場所」が用意されているのだとすると、私たちは都市という空間に迎合しなければ、「居場所」を得られないということになる。

一方で、都市という空間を私たちという存在そのものが形作っているのだとすると、私たちは私たち自身が自分の「居場所」になることができるのだ。

パレードには、さまざまな仮装をした人たちが参加している。そしてさまざまな出自、性別、宗教、心情、人種の人が一堂に会している。

そんなある種の「ちぐはぐさ」を内包しつつ、パレードは成立している。言わば、このパレードは都市の縮図だ。

つまり、都市とは、私たちの独立した世界がときにぶつかり、ときに接し、ときに交わりながら、併存している空間と評することができるのではないだろうか。

マイク・ミルズは、極めて意図的にジョニーとジェシーの物語、あるいは子どもへのインタビューといったパーソナルな映像と都市の風景の無機質なインサートを交錯させて編集している。

そして、このパレードのシーンで、前者と後者が交わり、私たちが都市という空間を形作っている様が可視化される。

私たちがそうした都市というものを形作る主体なのだと思えると、昨日よりも少しだけ「私はここにいてもいいんだ。」と思えるような気がする。

マイク・ミルズの作る映画はいつもやさしい。

それは、見る人を「普通」という言葉に絡めとろうとしないからだと思う。

変なものも壊れているものも、きっとそのままでいいんだと。

そんなやさしさが沁みて、私たちは安堵の涙が止まらなくなるのだ。

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