【ネタバレあり】『Diner ダイナー』感想・解説:こんなのどうやって映画化するんだ?

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね『Diner ダイナー』についてお話していこうと思います。

ナガ
とりあえず原作を読んだんですけどね・・・。

いや、こんなのどうやって映画化するんだ・・・って内容の原作なんですよ(笑)

とにかく登場人物が多くて、どちらかというとオムニバスを繋いでいくかのようなタッチの作品なので正直1本の映画には纏めづらいだろうと思われます。

そして何よりめちゃくちゃグロテスクです。

当ブログ管理人は晩ごはんを食べながら、この小説を読んでいて吐きそうになったんですが、本当に生々しいというより痛々しすぎて、それが自分のみに降りかかる様を想像して気持ち悪くなってしまいました。

ナガ
いわゆる拷問系のグロなんだよね・・・。

ですので、どんな映画になるんだろうと思い、映倫のサイトを覗きに行ってみました。

区分:G(全年齢対象)

オオバカナコはほんの出来心で怪しいバイトに手を出し、元殺し屋が店主のダイナーにウェイトレスとして売られてしまう。ドラマ。

映画倫理機構より引用)

ナガ
まさかの全年齢対象!?

原作読む限りでは最低でもR18+指定だろうという印象だったんですが、それが映画化されると全年齢対象になるという・・・。

もはやどんな映画になっているのか想像がつかないですね・・・。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。

ナガ
映画版の講評は鑑賞後に追記予定です!

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『Diner ダイナー』

あらすじ

オオバカナコは突然南国へと旅をしたいと考えたが、自身の薄給ではそれも難しく求人誌を眺めていた。

その中に日給30万円の怪しいアルバイトを見つけ、半信半疑ながらお金が必要だった彼女は応募する。

そこでディーディーとカウボーイに出会い、バイトの内容は彼らを車に乗せて駅へと送り届けるというものだった。

しかし、その途中で殺し屋の集団に急襲され、彼らは囚われの身となる。

どうやらディーディーらは組織から金銭を盗み出そうとしていたようで、それが発覚し囚われてしまったようだ。

その後、3人は激しい拷問を受けることとなる。

カウボーイは皮を剥がれて惨殺され、ディーディーも爪を剥がれて瀕死の状態に追い込まれる。

カナコも拷問され、生き埋めにされそうになるが、咄嗟に「私は役に立つ、料理ができる。」と猛アピールし、奇跡的に救われる。

というのも彼女の身柄を会員制のダイナーの店主ボンベロが購入したのだった。

かくしてカナコは彼の下で働くこととなったのだが、そこは命の危険と隣り合わせの殺し屋専用のダイナーだった。

 

スタッフ・キャスト

スタッフ
  • 監督:蜷川実花
  • 原作:平山夢明
  • 脚本:後藤ひろひと杉山嘉一蜷川実花
  • 撮影:相馬大輔
  • 照明:佐藤浩太
  • 編集:森下博昭
  • 音楽:大沢伸一
ナガ
蜷川監督の映画って好き嫌いがはっきり分かれるよね・・・。

まず本作の原作は平山夢明さんの同名の小説です。

原作は文庫本でも500ページ越えの大作で、1本の映画として集約するには、いささかボリュームが大きすぎるとは思います。

一応作品の骨格にはカナコとボンベロの物語があるんですが、それ以外にも様々なキャラクターが登場しては、彼らの物語がクロスオーバーしていくという群像劇とオムニバス形式の中間のような構成です。

正直中盤は間延びしている感があって、あんまり面白くなかったんですが、終盤の畳みかけるような怒涛の展開は見応えがありました。

ナガ
あの怒涛のラストバトルをどれだけ映像に落とし込めるかが映画版の評価の分かれ目になりそうだね・・・。

そして監督を務めるのが蜷川実花さんです。

『さくらん』『ヘルタースケルター』などで話題になったフォトグラファー畑出身の映画監督です。

彼女の写真や世界観が好きという人には良いと思うんです。

ただ、そうでない人にとって彼女が撮る映画作品が比較的渋い評価になるのは当然だと思います。

原色をふんだんにあしらった画作りをしているのが彼女の作品の特徴ですが、静止画レベルでは見栄えが良くとも、映画としての見せ方はイマイチで映像として見ると、全然質が伴っていなかったりします。

先日公開された『ホットギミック』山戸監督は、あえて映画の文法の逆を行く演出を駆使してとんでもない作品に仕上げてきていました。

ただ蜷川監督の作品は、個人的には単純に「映画」を撮る技量が不足しているようにしか見えないです。

すごくビジュアル部分にこだわっていることは伝わってくるんですが、映画としての中身が伴っていません。

そういう意味でも当ブログ管理人としては個人的に相性が悪いと感じている映画監督です。

撮影・照明には『ヘルタースケルター』にも参加しており、近年の『人魚の眠る家』『チワワちゃん』など独特の映像作品を撮り続けている相馬大輔さんと佐藤浩太さんが加わりました。

キャスト
  • 藤原竜也:ボンベロ
  • 玉城ティナ:オオバカナコ
  • 窪田正孝:スキン
  • 本郷奏多:キッド
  • 武田真治:ブロ
  • 斎藤工:カウボーイ
  • 佐藤江梨子:ディーディー
ナガ
イメージ通りなキャストとそうでないキャストがくっきり分かれてる・・・。

まず本作の主人公とも言えるオオバカナコを演じているのが玉城ティナさんです。

原作のイメージという観点から言うと、一番違うのは間違いなく彼女でしょうね。

オオバカナコとしては単純に若すぎて、何というか経験が浅く無知なだけの間抜けな人間という印象が強くなってしまっているような気がします。

彼女は20代後半で、「大莫迦な子」という印象も与えつつも、どこかに生き残るための狡猾さも持ち合わせている人物なんですよね。そこが魅力でもあります。

そういう人間としての深さが予告編を見る限りでは玉城ティナさんから感じ取れなかったのは、少し残念に思えました。

逆に窪田正孝さんのスキンなんかは適役すぎますね。

常にその表情のどこかに陰を含ませていて、それでいて狂気を漂わせています。

スキンという狂気性を押し殺しており、そしてトリガーが作動すると突然狂気を爆発させるキャラクターを演じる役者としては最適の人選とも言えます。

もう1人本郷奏多さんのキッドも完璧と言わざるを得ないですね。

彼って言い方が悪くなってしまいますが、先日公開された『キングダム』でもそうだったように「クソガキ感」のある役が最高に巧いです。

その点で、キッドという見た目が子供の殺し屋を彼に演じさせるというキャスティングは間違いなくハマります。

より詳しい情報を知りたいという方は映画公式サイトへどうぞ!!

ナガ
ぜひぜひ劇場でご覧ください!!



『Diner ダイナー』感想・解説(ネタバレあり)

極限状態で描かれる純愛

(C)2019 映画「Diner ダイナー」製作委員会

『Diner ダイナー』という作品は拷問系のグロテスクなシーンやアクション描写が目立つ作品ではあるんですが、本筋に関係のないエピソードを1つ1つ取り除いていくと最後に残るのは、純愛なんだと思います。

カナコは危ないバイトに手を出したことで身売りされてしまい、結局ボンベロのところで買われ、殺し屋相手の給仕として働くこととなります。

当初のボンベロの彼女に対する接し方は、奴隷でも扱うかのようなものであり、2人の間にあったのは完全なる主従関係でした。

しかし、いずれはボンベロが自分を殺すだろうと踏んだカナコは自らの保身のために、店に置かれていた「ディーヴァ(歌姫)」と呼ばれる伝説の酒を隠します。

それにより彼はカナコを殺してしまうと、その酒の隠し場所が分からなくなってしまい、とんでもない目に遭ってしまうということです。

こうして彼女が抵抗の意志を見せたことで、2人の主従関係は少しずつ変化していきます。

これまで殺し屋たちに提供してきた料理を、カナコは心の底から美味しいと言ってくれ、彼もまたその評価に満更でもない様子でした。

後に酒の在りかは判明するのですが、それでも彼はカナコを殺そうとはしませんよね。

出来る限り生かしておきたいと考えているし、むしろ自分と共に生きて欲しいと考えているようにすら見えました。

個人的には中盤までのボンベロカナコの関係性は「ロミオとジュリエット」的でもあると思いました。

2人は人身売買における「買った人間」と「買われた人間」であり、決定的に身分が違います。

しかし、物語が進行していくにつれて、ボンベロの過去が明かされていき、彼自身も薄汚れたギャングであり、ボロボロになったところをボスに買われ、仕える身になった人間であることが判明します。

身分違いに思えていた2人は、境遇こそ違えど、似たような過去を抱え、そしてこのダイナーへと辿り着いた「ルーザー」だったんですね。

カナコ自身はどうかと言うと、彼女もまたボンベロに好意的な感情を抱いていて、将来別の場所で2人でダイナーを切り盛りする様子を妄想していたりします。

そして物語は終盤へと向かって行き、2人は最大のピンチに直面し、ダイナーで組織の殺し屋たちと戦う必要性に駆られます。

その時、ついにボンベロの本音が漏れるシーンがあるんですが、ここが本当にグッときます。

「無駄死にするな。何のために俺が・・・」

「わたしにそんな・・・人を犠牲にして生きる価値なんかないよ!」

「負け犬のお前がどうして生き残れたのかを知りたい。」

(『Diner ダイナー』より引用)

作中にはもう1つ彼のセリフで、「莫迦!生きるのに価値なんかあるか!ただ俺が勝手に生かしておきたいだけだ!」というものがありました。

これらのセリフがなぜ愛の告白なのかと言うと、元殺し屋でいつだって人を殺してきた彼が、他人を思い、そして生きて欲しいと思えた相手がカナコだったからです。

この作品には冒頭にも書きましたが、拷問で人を弄ぶように殺すシーンが出てきたり、殺し屋が簡単に人を殺してしまったりと人間の命をすごく軽く映画いている印象を受けます。

だからこそこのボンベロの彼女にだけは生きていて欲しいと願う純愛の感情の重みが引き立ちますよね。

ラストで彼女は彼の言いつけを守って、自らのダイナーを切り盛りするようになりました。

店の名前はかつて彼が解毒薬だとして飲ませてくれた「Chimp piss」でした。

どん底に堕ち、ただ殺されるのを待つだけだった彼女の人生を変えてくれた、生きる価値があると言ってくれた。

そんな彼女の人生を「解毒」してくれたボンベロに愛をこめて、この店名をつけたのではないかと思います。

ボンベロが命を落としてしまったのかどうかは分かりません。

しかし、ジュブナイル仕立ての別れのシーンは、いつか2人が再会し、そしてカナコが妄想していた「2人でダイナーを切り盛りするビジョン」を現実のものにしてくれるのではないかと淡い期待を抱かせます。

極限状態で出会った2人の純粋な愛の物語として見ても、今作『Diner ダイナー』はすごく味わい深い逸品だと思います。



生きるとは?死ぬとは?

この作品は大半のキャラクターが殺し屋で、そしてカナコは殺される運命にありながら、ボンベロに買われたおかげで一命をとりとめた存在です。

彼女は冒頭、殺し屋たちにこんなことを言われていました。

「やっぱり、あんたは勘違いしてる。あんたはもうしんでいるんだよ。今俺たちがやっているのは生きる権利のないブツを埋めているだけのこと。あんたはもう死んでいる。それは事実だ。」

(『Diner ダイナー』より引用)

つまり、彼女はこの状況に置きこまれた時点で自分の人生を生きる権利を喪失したのであり、仮に延命することができたとしても、他人に買われ、その他人の人生に従属する存在になるしかないのです。

そんな彼女がボンベロに買われ、ダイナーの奴隷として働くようになるのですが、そこで早速彼に抵抗する意志を見せましたよね。

ボンベロ曰く彼女がダイナーにやって来てから反抗するまでの時間の最短記録を更新したようですが、彼女はまだ自分には自分の人生があると、そう考えていたことがここで分かります。

当然、彼の意志に背いたということで、処刑は逃れられないのですが、ここで一計を案じ彼女は自らの生きる余地を見出しました。

この作品が面白いのは、ダイナーで「王」として君臨するボンベロもまた組織に使える奴隷のような存在で「一度は死んだ身」であるという点です。

つまりカナコボンベロの2人というのは、まさに自分の人生を生きる主体性を喪失してしまった人間ということになるでしょう。

物語の中盤に、カナコが隠していた「ディーヴァ(歌姫)」の隠し場所を明らかにし、ボンベロに自分のことを殺してほしいと懇願するシーンがあります。

このシーンが印象的なのは、彼女が自ら望んだ人に殺害してもらおうと選択したという事実です。

きっとカナコはこの先ダイナーにいたとしても、殺し屋の客に弄ばれて、偶発的でかつ無残な殺され方をしてしまうことでしょう。

「尊厳死」という言葉がありますが、まさしくここで彼女は自らの意志と尊厳を持って殺されることを望んだのです。

つまりこれは逆説的なカナコの生の証明でもあるんですよ。

自らの意志で死を選ぶことができるというのは、自分自身の人生と尊厳を取り戻したという意味でもあります。

だからこそボンベロは、そんな彼女を殺すということをしませんでした。

そして敵の毒に侵され、自らに命の危険が迫った時もカナコを救い、そしてラストバトルの最中でも彼女の命を救おうとボンベロは選択してきました。

思えば、彼はカナコの命を救うという一点においては、悉く組織に反抗する姿勢を取ってきました。

つまり彼もまた、カナコという存在に触発されて、再び「自らの意志で生きる」ことができるようになっていたんですね。

この小説の最後にはこんな言葉が綴られています。

人は自分に合った靴を履くべきだと思う。

押しつけられた靴ではなく、自分で探して納得した靴を。

そうすれば驚くほど遠くまで歩くことができる。

(『Diner ダイナー』より引用)

ナガ
この作品のアンサーとして完璧な言葉だね・・・。

生きるとは?死ぬとは?その境界にあるのは、心臓が動いているからとかそういう機能的なものではないのかもしれません。

もっと言うと、人間はその生命維持装置を動かしたまま「死」を経験することだってあるはずです。

つまり、自分の意思という名の靴で歩くことができなくなった人間は、もはや自分の人生を生きていないのと同じなのです。

『Diner ダイナー』とは、一度は自分の人生を奪われ、誰かに従属して生きる身となったカナコボンベロが出会い、関わり合う中で再び自分の「靴」を取り戻していく物語なのです。

そう考えると、ラストバトルはまさに2人が自分の「靴」を取り戻すために必要な最終ステップです。

だからこそボンベロは生きているはずです。

彼は自分の意志で生きようと、そう思えたのですから。

 

キャストの魅力で持ちこたえた映画版

早速映画版の方も鑑賞してきました。

原色を中心にした画作りは、食べ物の存在感を際立たせていて良かったと思います。

そういった蜷川実花さんらしい良さは確かに随所に感じられる内容になっていました。

特にタイトルロールが出るまでのシークエンスは非常に演出や編集も冴えてましたね。

舞台演出的なアプローチではあったと思いますが、主人公の独白を独特の演出で表現しており、高速カット&編集で観客の好奇心を煽るなど非常にトリッキーな作りでした。

とりわけ原色の食べ物たちが映し出された静止画を高速で切り替えていき、そのままタイトルロールを表示させるあのシークエンスはクールでキマっていました。

ただその後のカメラワーク、演出、アクション描写はどれもあまり巧くなくて、特にアクションシーンなんかはスローモーションの使い方もど下手で、失笑してしまいそうなレベルでした。

そして何より脚本が酷すぎるんですが、それは後程お話します。

それでも今作『Diner ダイナー』がギリギリ映画として持ちこたえたのは、やはりキャスト陣の熱演があったからと言えます。

個人的なMVPは窪田正孝さんですね。

(C)2019 映画「Diner ダイナー」製作委員会

原作のスキンをそのまま3次元に落とし込んだような存在感も素晴らしかったんですが、何より彼は内にトラウマと闇を抱えている人間を演じるのが絶妙に巧いですよね。

そして1つのトリガーで、一気に狂気を爆発させるシーンも、まさにギャップで魅せるという感じで素晴らしかったです。

他に存在感を放っていたのは、メインキャラクターというわけではないのですが、本郷奏多さんでしょうか。

(C)2019 映画「Diner ダイナー」製作委員会

冒頭にも書きましたが、「クソガキ」感のある役をやらせたら日本で右に出る者がいない俳優だと思います。

毒っ気を隠しきれていない雰囲気と、無邪気を必死に演じようとする仕草のミスマッチが完璧なバランスで配合されていて、これぞキッド!という仕上がりでした。

もちろん本作のヴィランとなった真矢みきさんもクールなガンマンを演じていて、すごく雰囲気を持っている女優だなと感じさせられました。

あとはもう玉城ティナさんのいわゆる「絶対領域」を終始目が追いかけてしまい、それが何とか自分を映画に繋ぎ止めてくれていたような気もしています。

映画としては脚本的にも演出的にもかなりチグハグな内容だったんですが、何とか空中分解せずに映画としての形を留めることができたのはキャスト陣の熱演のおかげですね。



ラストがあまりにも酷すぎる

本作は原作と映画版で微妙にというか全くラストが異なります。

ナガ
端的に言うとこうなるんじゃないかな?
  • 原作のラスト→『秒速5センチメートル』
  • 映画版のラスト→『君の名は』

要は原作のラストではカナコボンベロの再会を描くことはないんですが、映画版では明確に2人の再会を描いています。

この改変は本当に酷いと思っています。

というのも『Diner ダイナー』という作品が先ほども触れたようにラブストーリーとして、純愛の物語として素晴らしいと感じたのは、2人がお互いに好意を寄せていることを視覚的に仄めかす描写がなかったことです。

明確に2人が好意(恋愛感情)を寄せあっているような様を原作は決して描きません。

ただ、全体を通して読みながら、2人の心情にフォーカスしてみると彼らの間にある「純愛」がほんのりと浮かび上がってくるからこそ素晴らしいんです。

その辺りの妙をこの映画版は全くと言っていいほどに理解できていません。

まずカナコボンベロのキスシーンの時点で、もう憂鬱な気分になりました。

ナガ
このシーンを見た瞬間に、この映画版が原作へのリスペクトに欠けていることを痛感させられたね・・・。

その割には、原作の2人の関係性に関わる重要なシーンやセリフは平気でカットしてあるので怒りを覚えます。

そういった原作にあった小さな2人の関係性のステップアップの描写をまるっきり無視して、キスシーンを入れておけば見ている人にも2人の「恋愛感情」が伝わるでしょ?という安直さを選んだ映画版は正直最悪です。

そしてラストシーンで、ジュブナイル感もありつつの2人が再会できることを予見させる余韻を孕ませた原作のラストはものの見事に破壊されてしまいました。

なんで2人の再会を描く必要があったのでしょうか・・・?

映画版『Diner ダイナー』は映像という視覚的な部分にこだわりすぎたのか、「見えないもの」を軽視しすぎていたと思います。

それは小説の1つ1つの言葉に込められた繊細な人物の感情であり、ある人物の不在性が高めていた物語の強度です。

原作にはあったそれらの不可視のものたちを全て映像として可視化したことによって何の魅力もない平凡なラブストーリーに仕上げてしまったことにただただがっかりしました。

 

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は『Diner ダイナー』についてお話してきました。

グロテスクな描写が苦手な方には、少しおすすめしづらい内容ではあるんですが、極限状態での純愛や生きようともがくものの姿にはすごく胸を撃たれる重厚な人間ドラマという側面もあります。

ナガ
その点で映画はそのエッセンスを抽出して、全年齢対象に分類される内容に落とし込んだということかもしれないね

とりわけ原作は中盤が中だるみしていて、退屈な印象を与えるので、映画版ではそこをブラッシュアップして、脚本をスマートにして欲しいです。

また、おそらく映画版は原作を大幅にカットすることになると思いますので、原作の方も併せてチェックしてみてください。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

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