映画『夜明けのすべて』感想と考察:遠景で捉えれば、今の闇はいつかの光。

本記事は一部、作品のネタバレになるような内容を含みますので、鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。

作品情報

夜明けのすべて
  • 監督:三宅唱
  • 原作:瀬尾まいこ
  • 脚本:和田清人&三宅唱
  • 撮影:月永雄太
  • 照明:秋山恵二郎
  • 編集:大川景子
  • 音楽:Hi’Spec

『夜明けのすべて』をめぐる7つの視点と考察

①男女の関係を超えた「同志」という存在
②照明と空間で表現される心情
③自転車をめぐる小さな改変
④映像で劇伴音楽を「味つけ」するという試み
⑤完璧じゃないから出会えた人、もの、世界
⑥「街が主役」の映画なワケ
⑦子どもたちの撮るドキュメンタリー映像が意味したもの

①男女の関係を超えた「同志」という存在

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

瀬尾まいこさん著の『夜明けのすべて』の原作を読んだときに、主人公の2人(山添と藤沢)の描写について、素直に思ったことがある。

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恋愛フラグを立てておいて、それを著者が1つ1つバキバキにへし折っているような描き方だなと、そう思ったのだ。

原作におけるこのセリフが映画でどのように変更されているかを比較するのが、端的でわかりやすいだろうか。

「それは大丈夫です。ぼく、PMSに興味あるだけで、藤沢さんには興味がないですから」
(瀬尾まいこ『夜明けのすべて』より)

映画版にも同様のセリフがあるのだが、「藤沢さんには興味がないですから」の部分はカットされていた。

原作では、登場人物が男女であるということに対してより自覚的で、その上で、自分たちが恋愛関係になることはないと自分たちの口で明言させるような形をとっている。

他にも、原作では主人公たちの勤め先の同僚たちが2人の関係についてお節介なセリフを口にするシーンが何度もあり、その度に2人が否定するのだが、映画版では、そのやり取りの一切がカットされていた。

閑話休題。先日来、話題に挙がっている『セクシー田中さん』のドラマ版の脚本、それに関連して再度注目が集まった『ミステリと言う勿れ』の脚本について、改めて考えていて、感じたことがある。

それは、男女の関係を恋愛という視点でしか描こうとしない脚本家、そして、それを求めている視聴者が依然として一定数以上、存在していることだ。

『夜明けのすべて』の原作は、そうした男女の関係を恋愛という型にはめようとする外部の視点を作品の中に内包し、それを自ら壊すという作りになっている。

一方で、映画版は2人の間に恋愛関係や男女の関係が存在しないことを当たり前のように描いており、それらを匂わせる描写が徹底して排除されていることに驚かされた。

いや、これは正確ではないかもしれない。

女性が男性の家にお守りを持っていく描写なんて、見方によっては立派な恋愛フラグだ。

しかし、映画版の『夜明けのすべて』の主人公2人が恋愛関係に発展することや男女の関係になることはどうも想像がつかない。

これは単純に主人公を演じた松村北斗上白石萌音がすごいのだと思う。

2人は、原作でわざわざ下世話なやり取りを持ち出すことでしか否定できなかった男女の関係を、全く匂わせない。

されど2人が「同志」のような関係で緩く結ばれていることは伺える。

この絶妙な匙加減はそう簡単にできるものではないし、今作における山添と藤沢の関係はそれができる2人にしか作れないものだったと思わされた。

②照明と空間で表現される心情

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

三宅唱監督の作品は照明がいい。

これは『きみの鳥はうたえる』を鑑賞したときにも感じたことだが、2作品ともに照明は秋山恵二郎が担当している。

何がいいって、照明とそれが浮かび上がらせる空間が登場人物の心そのものになっているように見えることだ。

例えば、本作の冒頭に山添が電車に乗ることを試みるシーンがあったが、原作では、このシーンは昼間の描写なのである。

しかし、映画版では、わざわざそれを夜のシーンに改変している。

それは暗い駅のホームと明るい電車の車内という空間の明暗の対比で主人公の心情を表現しようとしたからではないか。

あの電車に乗れたら以前と同じ満たされた日常に戻れる、それが分かっていてもできない、暗い駅のホームに留まることしかできない。

状況だけで、主人公が置かれている状況や彼が今何を感じているのか、そして何を手に入れたいと切望しているかが明確に伝わってくる。

また、本作のとりわけ前半部分においては、強い光源を主人公たち(山添や藤沢)のいる空間の外に置いたライティングが印象的だった。

部屋の中はその強い光によって生み出された影に包まれていて、主人公たちは外の世界から差し込む強い光に手を伸ばすことを恐れ、それに触れることを諦めている。

そんな閉塞感を打ち破るような山添が自転車で街を走っていくシーンは、徹底した自然光の下で撮影され、また、そのシークエンスの中で藤沢は暗い部屋から陽光に包まれたベランダへと飛び出す。

2人の心情の変化が光と影だけで表現できていると言っても過言ではなく、手放しで絶賛したいライティングであった。

③自転車をめぐる小さな改変

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

和田清人三宅唱のコンビは実にうまく原作を脚色しているが、その中でも個人的にすごく気に入っているのが、自転車をめぐる小さな改変である。

原作では、山添が藤沢の入院している病院へ向かうために自ら自転車を購入する。

一方の映画版では、藤沢が山添に自転車を譲るという形に変更されている。

小さな改変だが、すごく大きな意味があると思う。

なぜなら、移動手段は、この作品において重要なアイテムだからだ。

山添は電車をはじめとした公共交通機関に乗れないし、車にも乗れないから、移動の大半が徒歩によるものとなっている。

ゆえに彼の日常は、家と会社とコンビニという極めて小さな世界で展開されており、非常に狭いものとなっている。

自転車はそうした状況を劇的に変えてくれる特効薬ではないが、彼の世界を少しだけ明るくし、少しだけ広げてくれる。

前職の頃の山添はきっと朝から晩まで働き詰めで、日中にゆっくりと自転車に乗って、外に出るなんて考えたこともなかっただろう。

しかし、今の職場に移って、慣れない自転車にまたがって、初めて太陽の光を浴び、そのぬくもりと優しさに触れ、そして日中(まだ仕事をしているであろう時間帯)の街の様子を目にする。

そんな自転車を与えてくれたのが、藤沢であるという事実が、山添にとって藤沢がどんな存在であるかを端的に表現していると言える。

そして、彼が自転車に乗ったことを契機とし、それに呼応するかのように藤沢が暗い部屋の中から陽光に包まれたベランダへと出てくるというアンサーもグッとくる。

④映像で劇伴音楽を「味つけ」するという試み

本作の劇伴音楽は『きみの鳥はうたえる』に続いて、Hi’Specが担当している。

最も驚かされたのは、劇伴音楽のバリエーションの少なさだろうか。

冒頭から終盤に至るまで、劇伴音楽が使われないシーンの方が圧倒的に多く、さらに使われたほとんどのシーンで同一(あるいは似た)メロディが何度も使われている。

これは非常に面白い試みだったと思う。

『スペース☆ダンディ』『Sonny Boy』などのアニメ作品で知られる夏目真悟監督が、インタビューで劇伴音楽について次のように語っていた。

「本来の劇伴(BGM)の使い方は、感情を誘導するためのものなんです。こういうふうに見てくださいと誘導したり、たまにミスリードしたりもする。ともすればノイズにもなりえる。」
MANTAN Webより引用)

本来、劇伴音楽は、映像に「味つけ」をする役割を担っていて、とりわけそれは観客の感情に対して作用する。

劇伴音楽を聴くと、映画の中のシーンが頭の中に浮かんで、涙が出てくるなんてことがあるが、それは劇伴音楽のこうした役割に裏打ちされた現象と言えるだろう。

一方で、今作の劇伴音楽は、映像に一切の「味つけ」をしようとしていない、それどころか類似のメロディを繰り返すことによって、むしろ映像が劇伴音楽に「味つけ」をしているような印象すら受けた。

物語の序盤には、何だが寂しさや落ち込んだ気分を表現しているメロディに聞こえていたのに、物語の後半に差し掛かると、弾むようなあるいは希望に向かって歩を進めていくようなメロディに聞こえてくる。

1つの劇伴音楽がさまざまな表情を持っていることを教えてくれた。

⑤完璧じゃないから出会えた人、もの、風景

僕らの日々は
暗闇がなくちゃ 星が見えなくて
完璧じゃないから 君に出会えた
完璧じゃないから

(TOMOO『夜明けの君へ』)

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本作は路面のコンクリートの「欠け」のショットで始まる。

「欠け」というのは、「満ちて」いた時間があったことの証左でもある。

私たちは一たび「欠け」に気づくと、それがあったころのイメージから離れられなくなってしまうものだ。

映画の中で、大切な人を亡くした人たちのグループセラピーのシーンがあったが、これは原作にはなく、追加されたものだ。

大切な人を失うというのも、元々は存在していたものを失っているわけだから、「欠け」であると言える。

山添も以前は友人や恋人に囲まれ、仕事でも順風満帆なキャリアを歩んでいた時間があり、それを失ってしまった。藤沢も学生時代には、PMSに悩まされていない時間があった。

「欠け」が苦しいのは、「満ちて」いた時間があったからなのだ。

しかし、「欠け」てしまったからこそ、その「欠け」をこれまでとは違う何かで埋めることができる可能性がある。

元には戻らない。されど愛おしい。

完璧じゃないから出会えた人、もの、景色が確かにあるということを、『夜明けのすべて』は教えてくれているような気がする。

⑥「街が主役」の映画なワケ

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

主人公の山添を演じた松村北斗が本作を「街が主役の映画だ」と評していたのは印象的だ。

それは、本作が「遠景で捉える」ことに主眼を置いた映画であったからか。

眠れぬ夜を過ごす山添と藤沢。確かにこの物語は2人を中心に動いていくが、映画では何度も何度も彼らが暮らす街の夜景のショットがインサートされる。

これにより、2人の物語がこの街のたくさんの光の中の2つであるという構図が明確にされ、同時にこの街には同じような苦しみや葛藤を抱えて生きている人がいるのだという広がりが生まれている。

さらに、三宅監督はそんな夜の街の風景を、夜の星空に重ねている。

プラネタリウムは、夜空の星たちの1つ1つを取り上げ、それぞれの光が内包する物語を語り直す場であると言える。

そして、『夜明けのすべて』という作品もまた、街の中に灯るたくさんの光の中のたった2つを取り上げて、語った物語であると言える。

つまり、夜空について語ることは街について語ることであり、輝く星について語ることは、山添や藤沢あるいは私やあなたについて語ることなのである。

この重なりに、本作が原作にはないプラネタリウムという舞台装置を持ち出した意義がある。

そして、私たちの日々の葛藤や苦しみが、遠景でとらえると輝く星の一粒になるという構造が、最後にお話しする、子どもたちの撮るドキュメンタリー映像の意義にも重なる。

⑦子どもたちの撮るドキュメンタリー映像が意味したもの

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

作中で、2人の学生が、主人公たちの務める会社のドキュメンタリー映像を撮影する描写がある。これは原作にはない描写である。

まず、言えるのは、本作が「人が人を知りたいと思える」という希望を描いた作品であるということか。

無関心や不寛容が蔓延した社会に生きる私たちにとって、その希望は少し眩しくも、優しい。

ドキュメンタリー映像を撮る彼らがカメラを向けるのは、「人を知りたい」と思うからであり、そういう意味で、カメラはアレゴリー化された人のまなざしなのだろう。

ただ、このドキュメンタリー映像を撮るという描写がもつ意味は、映画の終盤に、完成した映像を見る山添の笑顔に託されていたような気がする。

本作の中で一貫していたのは、先ほども述べた通りで、「遠景で捉える」という視点だ。

チャップリンの有名な言葉に「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」というものがあるが、この感覚に近いものがあるだろうか。

本作で、2人の学生がドキュメンタリーを撮影していた時間のことを思い出して見て欲しい。その中には、藤沢と山添が炭酸水をめぐって喧嘩をしていた瞬間も含まれるだろう。

当然、PMSやパニック障害で2人が苦しい状況に置かれていた瞬間の数々も含まれるだろう。

しかし、それをドキュメンタリーとして撮影し、映像という名の光と闇の点滅に変換してみたらどうだろうか。

映画のラストで、2人が撮影したドキュメンタリー映像を見ている山添は笑っていた。

苦しい瞬間も、どうしようもなく落ち込んでしまった瞬間も、イライラして誰かに当たってしまった瞬間も。その瞬間、瞬間は耐えがたいものかもしれない。

それでも、いつかのあなたが遠くからその瞬間たちを振り返ったとき、あなたはきっと笑顔なんだよという優しいメッセージが内包されているように思える。

はるか遠くの星の死が光になって私たちの目に届くように、眠れない夜の光が美しい夜景を形作るように。

私が今経験しているこの「闇」は、いつかの私にとっての「光」なのだと思えたら、今日を生き抜けるような気がする。

『夜明けのすべて』は今を生きるすべての人にとっての処方箋のような映画なのだ。