【ネタバレ解説・考察】アニメ「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」:33年の時を経て描き出したものとは・・・?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね、公開から少し間は開いたのですが、アニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の考察を書いていきたいと思います。

本記事は作品を見た方向けになっております。ネタバレは前提条件です。そのため、作品を未鑑賞の方は自己責任で読み進めていただきますようよろしくお願いいたします。

また、作品を見た方向けですので、作品のあらすじや概要は省略して、いきなり考察から始めていきたいと思います。

本作を語る前に・・・。

さて、ここからは少し「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」からは話が逸れるのですが、本作を解説していく上で絶対に欠かせないとあるアニメ映画を紹介しておきたいと思います。

それは「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という作品です。

 

 



「うる星やつら」という作品はそもそも、主人公あたるとヒロインのラムのラブコメディ作品です。本作をすごく簡単に説明するなれば、このあたるとラムの2人が両思いであるということを確認するために実に全366話を要した物語なんですね。

そして、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」はその第2作目の映画版になります。

概要

 昨年2月に公開された「うる星やつら オンリー・ユー」に続く第二作。ひょんなことから、夢邪気の作った夢の世界へ放り込まれた友引町の人々の姿を描く。週刊少年サンデーに連載中の高橋留美子の同名漫画の映画化で、監督は前作「うる星やつら オンリー・ユー」の押井守で、脚本も手がけている。(映画com.より引用)

あらすじ(ネタバレ注意)

友引高校は、学園祭を明日に控えて大騒動。夜食調達のために、深夜の友引町に出かけたあたると面堂は、異様な雰囲気のチンドン屋とデカ帽子の少女を目撃した。翌日、生徒たちは再び学園祭の準備をしている。時間が進まず、毎日が学園祭の前日なのだ。

この事態に気づいた温泉マーク先生とサクラは、友引高校自体に原因ありと生徒たちを追い出し、その解明に乗り出した。しかし、温泉マークもいつの間にか消え、サクラは錯乱坊に相談しようとするが、錆ついた鍋を残したまま錯乱坊も消えていた。あたるたちは久々に帰宅。

しかし、無事に帰れたのはラムとあたるだけ、メガネたちはバスに乗っても、電車でも町中をグルグル回るだけで、友引高校の正門前に戻ってくるのだった。面堂のハリアーに乗って空から偵察に出かけた一同は、友引町全体が巨大な亀の背に乗って、宙に浮かんでいるのを見た。あたるたちのサバイバル生活が始まった。

生き残っているのはハリアーに乗っていたものと諸星家の人だけ。人々を失った友引町はだんだん廃墟と化してゆく。ラムはこの無期限に続くサバイバル楽園に上機嫌だったが、この楽しみもつかの間だった。例のデカ帽子の少女が現われる度に、竜之介がしのぶがと一人一人消えて行く。サクラと面堂はあたるを囮に使ってこの事態の張本人を追いつめる。

その姿は、人類始まって以来、夢を作り、人々に邪気を吹き込み続けていた夢邪気だった。あたるたちのいる世界は夢邪鬼の作ったラムの夢の世界なのだ。あたると夢邪鬼の一騎討ちが始まった。夢邪鬼の魔法のトランペットを手に入れたあたるが、それを吹き鳴らすと夢を喰う伝説の獣・バクが現われた。バクはあたるのいる夢の世界を食べ始める。

理想の夢の世界を破壊された夢邪鬼は復讐のため、あたるに次々と悪夢を見せる。その悪夢の循環から解き放たれる方法を謎の幼女から教わったあたるはそれを実行する。

再び学園祭前日の友引高校で目覚めたあたる。果たしてそこは現実かはたまた夢の世界か…。

映画com.より引用)

解説

本作を製作する際に監督の押井守さんは以下のようなコメントを残されたそうです。

「『うる星やつら』は好きではない。これって、誰が見ても相思相愛な2人が互いを好きだと認めないゲームをして遊んでるだけの漫画じゃないか。」

その言葉を体現するかのようにして作られたのが、この「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という作品なんですね。

本作はヒロインであるラムの夢の中で物語が進行していきます。

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©1984 東宝 高橋留美子/小学館 映画「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」より引用

「うちの夢はね。ダーリンとお母さまやお父さまやてんちゃんや終太郎やめがねさんたちとずっと楽しく暮らしていたいっちゃ。それがうちの夢だっちゃ。」

これは劇中のラムのセリフですが、こんなラムの思いが本作の夢の世界に反映されているんですね。そしてラムはこの自分の夢の世界を維持するために、この世界に異議を唱える存在や自分の恋敵を次々に夢の世界から抹消していきます。

自分の望む世界を、文化祭の前日を何度も繰り返すんですね。

しかし、終盤についに主人公のあたるが、現実世界へと戻ることを決断した時点で物語が終了します。そして、彼のセリフに非常に重要なポイントが隠されています。

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©1984 東宝 高橋留美子/小学館 映画「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」より引用

「お兄ちゃんはね。好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。」

つまり、ラムの夢の中で繰り返されていた楽しいみんなでの生活は、「モラトリアム」そのものだったんですね。あたるはそんな世界を拒絶して現実の世界へと戻って行きます。

そして、あたるが現実世界に戻るきっかけとなったのが、ラムへの好意の自認であったわけです。そしてその好意が発展していくことで、この作品における事件のすべてが収束していきます。

結局のところ、何が言いたいのかといいますと、押井守は2人が大人になるためのイニシエーションとして、「恋愛」を描いたのではないか?ということです。

「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という作品では、ラムの「夢」の世界が描かれて2人がお互いの好意を認識した時点で、「夢」というモラトリアムから現実へと戻ってくるように設計されているのです。

しかしですよ、この「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という作品には、実は致命的な弱点があるんですね。

それはあたるは現実世界に戻ったように見えて、実は現実世界になど戻れていないという点なんですね。というのも、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という映画作品自体がフィクションという虚構でしかないからなのです。フィクション内でいくら現実世界を描こうとしても、それはフィクションに過ぎません。

つまり、あたるはラムの生み出した「夢」の世界から、恋愛感情の自覚というイニシエーションを経て、脱出したわけなんですが、抜け出した先にあるのも結局のところ「虚構=フィクション」の世界でしか無かったんですね。

まとめますと、恋愛感情の自覚が「夢=虚構=モラトリアム」からの脱出に必要なイニシエーションであり、それがそのまま大人になるためのイニシエーションであるということを押井守監督はこの「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」の中で描こうとしたのです。しかし、フィクションの中で、いくら「現実世界」を描こうとしても、それがフィクションの中にある以上、それは「虚構=フィクション」の域を出る事ができないというジレンマを抱えていたんですね。

33年の時を経て・・・。

さて、ここから映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の考察に移っていきたいと思います。

本作が作られた最大の意義は何かと考えた時に、それは33年の時を経て「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」を完成させたことだと考えています。

本作の世界構造

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さて、まずは本作「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の世界構造について説明を進めていきます。上に手書きではありますが、簡単に世界構造を図解した画像を掲載しました。

まず、一番外にあるのは、この映画そのもの、つまりフィクションの世界ですね。これがそもそもの大前提になります。フィクションの世界というのは、我々、つまり「現実世界」の人間が作り出した「虚構世界」なんですね。

このフィクションの段階では、水泳対決で祐介が典道に勝利して、なずなは祐介を祭りに誘います。祐介は典道との約束をすっぽかしてしまい、結果的になずなは母親に家に連れ戻されてしまいます。

すると、典道はガラス玉を使って、このフィクションの世界に働きかけます。そして自分だけの世界を作り出していきます。

そうして作られるのが、典道の世界①ですね。典道は祐介に水泳対決で勝利し、なずなは典道を祭りに誘います。しかし、駅でなずなの両親に捕まってしまい、なずなは連れ戻されてしまいます。

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©2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会 「打上花火」MVより引用

そして、典道はさらにガラス玉を使って働きかけていきます。そして自分が作り出した世界を自ら改変していきます。

そうして典道の世界②が作り出されます。典道は両親の手からなずなを救い出し、一緒に電車に乗り込みます。そして灯台で2人で花火を見るのですが、追いかけてきた祐介に押されて灯台から転落してしまいます。

さらに、典道はガラス玉を使って働きかけていきます。自ら自分の世界に改変を加えていきます。

そして典道の世界③を作り出します。典道となずなを乗せた電車は海の方角へと向かっていきます。2人は海に向かい、2人の時間を過ごします。そこで2人はお互いの好意を確かめるのでした。

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©2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会 「打上花火」MVより引用

まとめますと、本作の世界構造というのは、初めに映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という作品そのもののフィクションの世界があって、その中に典道がどんどんと自分の世界を作り出していくというものになっているのです。

イニシエーションとしての恋愛

先ほども述べたように、押井守監督は「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」において、子供から大人になるためのイニシエーションとしての恋愛を描き出しました。

一方で岩井俊二が手掛けたオリジナル版の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」のテーマも実は同じで、イニシエーションとしての恋愛なんですよね。

ドラマ版につきましては、個別の記事を書いておりますので、良かったらご覧ください。

参考:【感想・ネタバレ】ドラマ「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」:伝説のドラマたる所以を解説

こちらの記事でも述べていますが、典道は花火を下から、祐介達は花火を横から見るように演出することで、恋愛というイニシエーションを経て、少し大人になった典道を印象付けました。

アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」はストーリーや設定こそ大きく変更されましたが、実はそのテーマ性は変化していないんですね。

アニメ版はいわば、ドラマ版と「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」の要素を併せ持った作品に仕上がっているわけです。

典道はガラス玉を使って夏の1日を何度も繰り返します。それはいわばモラトリアムの延長なんですね。なずなと典道はいわば早い段階で両想いなんですよね。しかし、お互いに気づかないふりをしているわけです。これは「うる星やつら」におけるラムとあたるの関係性に似ています。

そして、典道はなずなに思いを告げようとはしませんが、ただ、なずなと一緒に居たいという思いから何度もその1日のモラトリアムを繰り返すのです。

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©2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会 「打上花火」MVより引用

「この世界で俺はお前と居たい!」

これが典道の一番の思いであるわけです。これも「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」のラムの思いに通じるものがありますよね。恋愛関係を発展させるのではなく、ただお互いの思いは秘めたままで一緒にいる、その夏の1日を永遠に繰り返していたい、これが典道が何度も自分の世界を書き換え続ける理由なのです。

しかし、典道の世界③において、典道となずなはキスをしますよね。そして典道はなずなに自分の好意を打ち明けようとします。その刹那、ガラス玉が花火師のおじさんによって打ち上げられて、空で弾けます。つまり、典道が恋愛というイニシエーション達成したことで、典道の作り出した世界が崩壊へと向かっていくことになるんですね。

そして砕けたガラス玉の破片には、典道の世界で実現される可能性のあった「IF」のモラトリアムたちが映し出されました。

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考察:なぜ「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」を超えたのか?

ここからは、アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が33年の時を経て、なぜ「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」を超えたのか?について考えていきたいと思います。

みなさんは本作のラストシーンを覚えていますでしょうか?教室で担任の先生が点呼する中で、生徒が返事していきますが、そこに典道となずなの姿はありませんよね。

この点はいろいろな考察ができると思います。

しかし、私はこのラストシーンにこそ、アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が作られた最大の意義が隠されていると考えています。

なずなは典道の世界③で最後にこう言っていましたよね。

「今度はどの世界で会えるかな?」

典道となずなは、映画そのもののフィクションの世界で出会い、そして何度も改変される典道の世界でも繰り返し会ってきました。つまり、この二人は恋愛というイニシエーションを経て、また新たな世界へと旅立とうとしているのです。それは元からいた映画の中の「現実世界=フィクション」でも典道が作り出した世界の中でもないのです。

ではどの世界なのでしょうか?それは、「映画=フィクション=虚構」の世界の外、つまり我々が生きている現実世界なのです。つまりラストシーンである「映画=フィクション=虚構」の世界の中に典道となずなの姿が無かったのは、2人が恋愛というイニシエーションを経て、「夢=虚構」から、つまり映画そのものという虚構から真に解き放たれたのであるということを示しているのです。

つまり本作「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の世界構造というのは、我々の生きる現実世界をも巻き込んだ壮大なメタ構造の様相を呈しているわけです。

これは押井守監督が、映画「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」でも表現しきることができなかったことです。

33年の時を経て、ラムとあたるはようやく長いモラトリアムを脱し、現実世界へと帰還することができたのではないでしょうか?

キャラクターをフィクションから解き放つという大胆なメタ構造を用いて、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」が33年前に描き切れなかった主題を「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は描き切って見せたのです。

なぜ恋愛=イニシエーションなのか?

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©2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会 「打上花火」MVより引用

ここまで、恋愛というものが「夢=虚構」のモラトリアムから脱出するイニシエーションであるということをたびたび述べてきました。

ではなぜ、恋愛がここまで重要視されるのかということを考えてみたいと思います。

おそらく多くの人が小学生から中学生の時期に初恋を経験すると思います。この時期には、自己認識だけがどんどんと発達してきた一方で、ゆっくりと発達してくる他者認識というものがようやく顕在化してくる時期に当たるんですね。

つまり、自分が全て、自分が大好き、自分が何事にも優先されるという自己認識しか持たない人間は未熟なんですね。

しかし、徐々に人間は社会性や他者認識を身につけていきます。そして、自分と同等の存在=絶対的他者に対して好意を持つ、という他者認識の最たる例が恋愛なのです。

しかし、人間は他者認識を身に着けずに、自己認識だけを保持し続けて、「子供としてのモラトリアム」を延長し続けることができます。

これが、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」においてラムが作り出した世界であり、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」において典道が作り出した世界なんですね。

これらはまさに自分のための世界であるわけです。ラムも典道もそれぞれ自分の思惑があって、このモラトリアムを形成しているのです。

しかし、2人はそれぞれあたる、なずなへの好意に気づき、相手を絶対的他者として受け入れることで、他者認識を身に着け、大人への一歩を踏み出すわけです。

他者認識の最たる例こそが「恋愛」であり、それ故に「子供のモラトリアム」からの脱却において、「恋愛」はイニシエーション的役割を果たすのです。

おわりに

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©2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会 「打上花火」MVより引用

本当にいろいろな考察ができる作品だと思います。

ただドラマ版の大ファンとして言わせていただくなれば、中盤までのドラマ版のストーリーをなぞっている部分の出来は酷すぎます。こればっかりは擁護のしようがありません。ドラマ版の大ファンである大根仁が脚本に携わっておきながら、なぜこんなことになったんでしょうか?

またアニメーションのレベルも正直劇場版クオリティに達していません。キャラクターの顔の作画の統一感がありませんし、出来の悪いCGが随所に見られました。製作期間が短かったなんて話もありましたが、それにしても酷いです。

しかし、中盤以降の出来は本当に素晴らしかったと思います。

考察はいろいろと出来ますが、今回は「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」との比較をしながら、作品の素晴らしさを考えてみました。

皆さんもぜひ、いろいろと解釈してみてはいかがでしょうか?

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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