【ネタバレ考察】「デスノート Light Up the NEW World」凡才が紡ぎだすデスノートの可能性とは?

アイキャッチ画像:©大場つぐみ・小畑健/集英社・2016 DEATH NOTE FILM PARTNERS 「デスノート Light up the new world」より引用

イントロ

本日、10月29日から公開のデスノートシリーズ待望の新作となる「デスノート Light Up the NEW world」。本作は全2部作の一連のキラ事件の終結から10年が経過した世界を描く完全オリジナル作品となる。それに伴いメインキャラクターのキャストも一新された。主要3人のキャストは若手人気俳優の東出昌大、池松壮亮、菅田将暉の3人が務めることとなった。

本日公開の本作品だが、初日からかなり大入りの模様であり、すでに各レビューサイトにも数多くのレビューが投稿されている。それを見る限りではこの作品の評価の大半は酷評である。デスノートの原作ファンや藤原竜也主演の全2部作のファンを満足させる出来とはいかなかったようだ。

しかし、私は個人的には非常に満足できる作品であった。デスノートの続編をわざわざ作った意義をちゃんと感じられたことに安堵した。

近年、国内外で人気シリーズの長期間のブランクを開けてのキャラクターを一新しての新作が多く公開されている。ハリウッド映画にしても近年では、マッドマックスFRやジュラシックワールド、スターウォーズTFAなど大人気シリーズの新シリーズが公開された。

しかし、キャラクターやその他設定等を一新して、わざわざ一度完結した人気シリーズを掘り起こすのは興行的なメリットはあるものの、その映画の栄光に泥を塗る可能性すらある。

そしてそんな人気シリーズの完全新作に対して私が求めるのは、わざわざ今になって完結したシリーズをわざわざ掘り起こして新作を作る意義である。

昨年公開された作品だと、マッドマックスFRやジュラシックワールドはそのお手本になるような作品であった。作品の世界観やコアの部分を維持しながらも、新たなテーマや問題、スペクタクルを盛り込み、過去シリーズとは一線を画する魅力を表現して見せた。

一方で大失敗していたのがスターウォーズTFAだ。展開やマシン、もう映画の何から何まで過去作の模倣。何の目新しさもなく、何の感動もない。技術は進化したのに、過去シリーズの劣化版に過ぎない粗悪な映画作品に仕上がっていた。ファンを喜ばせるオマージュと言えば聞こえはいいが、そんなオマージュに塗り固められた劣化版を見るくらいならオリジナル版を見ればいいだけの話だ。

このように人気シリーズの完全新作を作るのであれば、その続編を今更作る意義を見せてほしいし、過去作にはない全く新しいものを見せてほしいのである。

その点で『デスノート Light Up the NEW World』は合格点の作品だったと言える。

凡才VS凡才

話をデスノートの方に戻す。デスノートの原作、そして映画の全2部作における一番の見どころはやはりキラとLという2人の「天才」による超高度な頭脳戦だろう。

次々に観客の、読者の裏をかいていく2人の策略と罠の仕掛けあいに手に汗握る。確かにデスノートという作品の魅力はその頭脳戦にあるのだろう。そのことに疑いの余地はないし、私も認めるところである。

それゆえに今回の新作「デスノート Light Up the NEW World」において、あまり頭脳戦的な描写が見られないことで、デスノートの醍醐味を感じられず憤りを覚える人が多いのであろう。

そういう声も理解できる。しかしだ。

Q:この作品がなぜ、再び「天才」たちによる頭脳戦の様相を呈さなかったのか?

A:それは、もう「天才」による頭脳戦を今更やったところでキラとLの戦いに及ぶものができないことは明白だからである。

スターウォーズTFAはEP4とEP6の良いとこ取りのような映画を作った結果、そのオリジナルを超えることはなかった。結局完全新作において、過去のシリーズと同じことをやっても、ファンは喜ぶかもしれないが、それはお茶を濁しているにすぎないのだ。デスノートにおいてもあれほどまでに緻密に計算された、高度でかつ魅力的な頭脳戦をキャストを変更して模倣しても、もうキラとLのそれに及ぶことはないのである。

だからこそこのデスノートの新作は非常に勇気ある決断をした。それは「天才」同士の戦いといういわばデスノート作品の醍醐味ともいえる展開を放棄したのである。

そしてそれに代わって、描かれたのは「凡才」同士の戦いという構図である。

まずこの決断をしたことを大いに評価したい。デスノートというブランドに決してあぐらをかくことなく、観客にオリジナル版とは異なる全く新しいデスノートをお見せしたいという製作陣の熱が伝わってきた。批判も覚悟の路線変更だったと思う。だが、この変更によって、デスノートLNWを製作した意義が生まれた。

そして「凡才」たちによるデスノートの物語はデスノートの新たな可能性を紡ぎだしたのである。

デスノートを所有することとなる6人の「凡才」たち

今回デスノートを所有することとなるのは次の6人となる。

一人目の所有者は、ロシアに住む町医者である。この人物は自分の患者の検診のために患者の家を訪れたときに、偶然デスノートを拾った。そして殺してくれと懇願する患者に対して冗談半分で、その名前をノートに書き込む。するとその患者は安らかに息を引き取る。


それを見たこの町医者はノートを使って自身の末期医療患者を安楽死させることを考える。

このデスノートの使い方は思いつきそうで意外と思いつかなかった。この描写に関してはかなり高い評価をしたい。

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©大場つぐみ・小畑健/集英社・2016 DEATH NOTE FILM PARTNERS 「デスノート Light up the new world」より引用

2人目の所有者は青井さくらという日本人である。この人物はいたって普通である。しかしデスノートの力を手に入れたことで、自分の内なる好奇心を抑えきれなくなり、デスノートを使った通り魔的な大量殺戮を行う。

3人目の所有者はアメリカに在住の投資家である。この人物もいたって普通である。彼は手に入れた力を自分の所持する株価の値段を上げるために用いる。

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©大場つぐみ・小畑健/集英社・2016 DEATH NOTE FILM PARTNERS 「デスノート Light up the new world」より引用

4人目の所有者は最高裁判所の判事である御厨賢一である。彼もいたって普通の人間だが、キラ、そしてキラの信者に敵対心を抱いており、キラの信者と思われる人物を次々と殺害していく。

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©大場つぐみ・小畑健/集英社・2016 DEATH NOTE FILM PARTNERS 「デスノート Light up the new world」より引用

5人目の所有者はサイバーテロリストである紫苑優輝である。彼は自分の信奉するキラのためにその力を使い、6冊のノートすべてを自分の手に集めようとする。

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©大場つぐみ・小畑健/集英社・2016 DEATH NOTE FILM PARTNERS 「デスノート Light up the new world」より引用

6人目の所有者はLの後継者であり、担当の竜崎である。彼は自分がLを超えるために、デスノートを一切使わないという決意をしている。

ここまで簡単にではあるが6人の所有者とその説明をさせてもらった。ここでこの6人とキラとの決定的なデスノートの使い方における差異を説明する。

キラは世界や社会のためにその能力を使うことを最初に考えつく。のちに自分の理想世界の実現へと傾いていくが、その発端は世界の社会のために力を使うという意志だ。

一方で、今作の所有者たちというのは、完全に自分の欲望を満たすことや、不満や不安を取り除くことのために能力を使う決断をする。自分の仕事のため、自分の金銭的利益のため、自分の不満の解消のため、自分の好奇心を満たすため、自分の目標を達成するため。全員がそれぞれの自分のためにデスノートを使う。

この差異こそが「天才」と「凡才」を隔てる大きな差異なのである。

つまり今作のコンセプトというのは、「天才」の消えた世界に再びデスノートが現れたとき、デスノートを手にした「凡才」たちはどう行動するのかというところにあるのだと思う。

「天才」というデスノートの醍醐味をばっさりと切り捨ててしまったわけだが、その大胆さが物語に新たな魅力と可能性を付与したのである。

正義と悪という対立構図ではなく、様々な利己的思惑の衝突という構図に物語を変換したのだ。

それゆえに高度な頭脳戦は本作には見られないが、その分よりリアリティのある、泥臭く、人間らしいデスノートバトルが展開される。

それをどう捉えるかで今回賛否両論となっているわけだが、個人的には新たなデスノートを見れたということで、その革新性に非常に満足している。

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「凡才」弥海砂の物語

この作品はキラもLももう存在しない10年後の世界を描く物語である。

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©大場つぐみ・小畑健/集英社・2016 DEATH NOTE FILM PARTNERS 「デスノート Light up the new world」より引用

しかし今回の物語において、唯一10年前のキラ事件を当事者として経験したのが弥海砂である。彼女はキラの熱狂的な信者で、夜神月を心の底から愛していた。そして、事件のあと、デスノートの所有権を手放し、女優としてのキャリアを積み上げていた。

そんな彼女はサイバーテロリストの紫苑からリュークのデスノートを渡され、夜神月は生きていると告げられる。彼女は当初関心を示さないが、紫苑と竜崎の直接対決の日にノートと死神の目を持って現れ、紫苑をサポートする。そして夜神月がすでに死んでいることを死神の目によって悟り、約束の地で夜神月に会うことを紫苑に託す。

そして彼女はノートに

弥海砂 夜神月の腕の中に抱かれて死亡 

と書き記し、そっと息を引き取る。私もこのシーンには、思わず涙がこぼれてしまった。

このデスノートLNWにおける弥海砂の存在感というものは計り知れない。彼女は10年という時の経過を象徴する人物であり、唯一「天才」たちの戦いをその目に目撃した人物である。彼女の少し大人びた風貌と立ち振る舞い、デスノートに対する反応などすべてにおいて彼女は観客にあれから10年が経過したんだという事実を突きつける存在なのである。

そして彼女は変わっているようで、変わっていないのである。それは夜神月に対する愛ゆえである。彼女はいまだに夜神月を思い続けている。

海砂が死神の目を再び契約するのは、彼女の月に対する愛ゆえ。表向きは月はもういないと告げながらも、捨てきれない彼への愛なのだ。

死神の目を契約したことで彼女は夜神月がすでに死んでいることを確信し、約束の場所には向かわない。そして自分の死に際して夜神月に看取られることを望む。彼女はいまでも妄信的に彼を愛しているのだ。

しかし同時に彼がもうこの世にはいないことも分かっている。

だからこそ彼女はデスノートに自分の名前を書く。デスノートを使った者は無になる。その前に、最期に、自分が知っている姿の、自分が愛した、愛している月に抱かれて死ぬことを望むのである。

弥海砂も自分のためにデスノートを使う「凡才」の一人に過ぎないかもしれない。だが、そんな「凡才」の決断だからこそ、無性に儚く愛おしい。一人の男を愛した女の悲劇的な最期であった。

このデスノートLNWはまさに弥海砂の救済の物語でもあるのだ。

原作ではキラ事件の1年後のヴァレンタインの日に死んだとされている。そんなのあまりにも救いがないではないか?

夜神月を愛し、利用されているとわかっていながらも、自分の寿命を削りながらも彼に尽くしたにもかかわらず、その最愛の人を失った弥海砂という深い悲しみを背負った一人の女性、弥海砂にこんな形で救いを与えてくれた本作品にはただただ感謝である。

月(ライト) UP the NEW world

この作品の全体的な構図は、すでに死んでいる「天才」夜神月の掌の上で「凡才」たちが踊らされているという構図である。

夜神月の思惑通りに物事が動いていった結果、デスノートが再び世にはびこり、デスノートが抑止力として存在する「新世界」が誕生してしまう。

そしてそんな混沌に包まれた世界の中へ、竜崎の名を受け継いだ三島は一人向かっていく。

月(ライト)が立ち上げた新世界に挑む、Lの名を受け継ぐもの

この作品のラストシーンにして再び 夜神月VSL という構図が出来上がるのである。

しかしその構図は10年前のものとは少し異なる。というのもこれは「天才」同士の戦いではない。

「天才」VS「凡才」なのである。

「天才」だったLは果敢にもキラに挑み、キラを倒すことに成功したかに見えたが、彼の意志とその計画までは絶つことはできなかった。そんな「天才」夜神月の意志と計画に今度は「凡才」Lが立ち向かう。

似て非なる構図が展開されているのである。しかし今回の作品でデスノートを手にした「凡才」たちは大きな可能性を見せた。「天才」を倒すのは案外「凡才」なのかもしれない。

デスノートを司どる「天才」キラに自身の研究成果を詰め込んだノートを携えた「凡才」三島が挑んでいく。

続編を匂わせるラストだったのかもしれないが、個人的にはこれで完結にしたほうがいいと思う。この対立構図を再び完成させたことこそがこの映画のすばらしさであり、意義だったように思うからである。

今回は「凡才」というキーワードからこの映画の3つの魅力について解説した。

駄作駄作と言われているが、正直非常に見ごたえのあるエンターテイメント作品だった。

そして完全新作として、デスノートブランドにあぐらをかくことのない非常に意欲的かつ、挑戦的な作品であった。

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おわりに

映画ご覧になった方、ぜひ教えていただきたい部分があるのですが…。私は1回見ただけでは少しわからなくて、もう1回見に行く予定なのですが…。

三島がデスノートの記憶をまだ保持している時に、なぜ竜崎の本名をノートに書いたのでしょうかね…?しかもわざわざ微妙な日時指定をつけて。

本編を見ていて唯一意味がわかりませんでした。映画見た方でこの部分を解説していただける方がいればぜひコメントください!!

また当ブログでは映画本編の前日譚の時系列をまとめた記事も書いております。良かったら読んで見てください。

参考:『デスノートLNW』の前日譚、時系列を徹底解説!!

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

6件のコメント

すぐ殺しても良かったが6冊のデスノートを手に入れる為に竜崎の力が必要だったから、と思いました。(リュークと契約した時点で6冊持ち込まれた情報は得ていたと思われる。)6冊手に入れるには竜崎が必要だったが自身が契約したことが発覚するのを恐れ最終的には死を望んだ?……まあよく分かりませんが……三島がデスノートを手に入れたあと、紫苑へ譲渡するとかその辺りちゃんと時系列的な整合性が合ってるのか?とかあそこは考えれば考えるほど分かりませんwコレはオリジナルドラマの方観ると本編で不明なとこがあるかもしれんですけど

タイマさんありがとうございます!なるほど、警察を利用してやると言っていた竜崎は、実は逆に三島に利用されていたわけですか!!確かに殺さなかった理由はそのような気はしますが、やっぱり展開や時系列的に考えてもいろいろ謎は残りますね…。ちょっとhuluのスペシャルドラマ見てみますね…。

竜崎の本名分かったのは三島は死神の眼を使ってたんだっけ?紫苑のハック?もうその辺もうろ覚えでゴチャゴチャですw
あとミサミサの存在があったから評価が上がったのもありますね。今回の新キャストだけだったら微妙かも……ミサミサがなんであそこで死神の眼を契約したのか理解できないという意見を見たのですが、それは月への愛ゆえで生死を確かめずにいられなかったからだと自分は納得しました。松田がいてもいなくてもどっちでも良かったような……w

そうなんですよ!僕も、三島が竜崎の本名を知っていた理由がいまいちつかめてなくて!ミサミサは本当に魅力的なキャラクターでしたね。彼女がいなかったらこの映画のレベルは一つ下がってしまってましたよね…。僕も月への変わらぬ愛が死神の目に繋がってると思ってます(^ ^)

遅ればせながら追記。今回のデスノート、確かに脚本の不備は散見されるものの決して続編として目指そうとしたものの志が低かったとは思えないのでそんなに酷いとは思えないんですよね。脚本の細部を詰めていけなかったのは時間的に余裕がなかったのか、佐藤信介監督は今年はアイアムアヒーローも撮っているし。メジャーな邦画の体制でのそもそもの限界か。それは分かりませんが。前作は元々完成度の高い原作がベースにあったというのもある。10年経てちゃんと今観るべき物語を完全オリジナルで構築しただけでこの作品は評価したいですね。

大人気シリーズの完全新作の続編という立ち位置にある作品として、正しいアプローチをしたんじゃないかと僕も思ってます。前作とは全く違う新しいデスノートを見れた満足感もありますし、原作の未回収要素や名セリフなんかも細かく拾ってくれたりしててすごく嬉しかったです。脚本はやっぱり荒削り感は否めませんでしたね。こればっかりはなんとも…。

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