【ネタバレ】『君の名前で僕を呼んで』感想・考察:古代ギリシャより続く切ない同性愛とその結末

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『君の名前で僕を呼んで』についての感想や解説を書いていこうと思います。

本記事はどこよりも詳しい解説を目指すという方針の下で書き進めていきますので、申し訳ないのですが、作品のネタバレになるような内容に触れます。その点をご了承ください。

なお、本記事にこれから書いていく内容は、あくまでも私の個人的な解釈や考察を交えたものとなりますので、これが正解というつもりで書いているわけではありません。あくまでも参考にしていただけたら嬉しいという程度です。

良かったら最後までお付き合いください。

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あらすじ・概要

 1980年代のイタリアを舞台に、17歳と24歳の青年が織りなすひと夏の情熱的な恋の行方を、美しい風景とともに描いたラブストーリー。アンドレ・アシマンの同名小説を原作に「日の名残り」「眺めのいい部屋」の名匠ジェームズ・アイボリーが脚本を執筆、「胸騒ぎのシチリア」などで知られるルカ・グァダニーノ監督がメガホンをとった。第90回アカデミー賞で作品賞ほか4部門にノミネートされ、アイボリーが脚色賞を受賞した。「インターステラー」「レディ・バード」のティモシー・シャラメットと「コードネーム U.N.C.L.E.」「ソーシャル・ネットワーク」のアーミー・ハマーが主人公カップル役で共演。83年、夏。家族に連れられて北イタリアの避暑地にやって来た17歳のエリオは、大学教授の父が招いた24歳の大学院生オリヴァーと出会う。一緒に泳いだり、自転車で街を散策したり、本を読んだり音楽を聴いたりして過ごすうちに、エリオはオリヴァーに特別な思いを抱くようになっていく。ふたりはやがて激しい恋に落ちるが、夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づいてきて……。(映画com.より引用)

原作小説『君の名前で僕を呼んで』

原作小説は2人が別れてしまった現在の時間軸から、あのひと夏の出来事を回想するナラタージュ形式が取られています。

映画版とはまた違った味わいがありますので、こちらもぜひ読んでみてください。

予告編

*ここからネタバレ注意です

感想と考察:冒頭からラストまで徹底的に『君の名前で僕を呼んで』を解説していきます!!

①ギリシャ彫刻について


(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

本作のOP映像でも印象的に登場し、オリバーとエリオの父の専門分野の1つでもあるギリシャ彫刻は本作において極めて重要なモチーフです。ちなみにローマ彫刻も作り手がギリシャ人であることが多かったため、ギリシャ彫刻の影響を大きく受けているとされています。

古代ギリシャのブロンズ製の彫刻がシチリア島付近で発見されていたという事例も多いみたいですので、本作に登場している彫刻は主にギリシャ彫刻ではないかと考えております。

ではギリシャ彫刻の特徴とは何でしょうか。

それは理想主義なんです。

ギリシャ彫刻のモチーフの多くは神々であったり、その姿になぞらえて作られた理想的な人間の像でした。ギリシャ神話の世界観なんかを考えてみていただけると分かりやすいのですが、古代ギリシャでは神と人間はある種の共存する存在として捉えられていました。

だからこそ弱くて、もろい人間の姿に、それとは対照的な神々の姿を重ねた彫刻をつくることで理想的な人間を形作ろうとしました。

人間らしい強さと共に人間らしい弱さを兼ね備えたギリシャ彫刻が本作に登場することは後のシーンでも大きな意味を持っています。

ちなみにですが本作で海から引き揚げられたあのブロンズ像は「勝利した若者の像」に似ているような気がしましたね。

②ギリシャと同性愛

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

“Greek Love”という単語がそのまま「同性愛」という意味になるほどに古代ギリシャと同性愛は深く結びついています。

古代ギリシャの同性愛の特徴は基本的に若い少年たちのものだったということです。つまり生涯同性愛カップルが添い遂げるという事例は極めてまれで、大半のケースは成人男性と少年のカップルだったということです。

カップルの成立は基本的に成人男性が少年に求愛をするというパターンでした。少年にとっては成人男性から求愛されるという行為がある種、大人として認められるための第1歩のように考えられていて、同性愛がイニシエーション的な社会的役割を果たしていたことが伺えます。

同性愛カップルの仲の深め方というのが、マッサージやスポーツ、入浴だったと言います。

本作『君の名前で僕を呼んで』の中で登場したオリバーとエリオのカップルはまさしく成人男性と少年の組み合わせです。

またマッサージのシーンや入浴(水浴び)のシーンが2人の仲を深めるシーンとして登場しました。これらは本作がギリシャ的同性愛に強く依拠していることを仄めかしています。

③ダビデの星

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

ダビデの星と言うのは劇中でオリバーがしていたネックレスの星のことです。

正三角形と正三角形を重ねること形作られる模様で、イスラエルの国旗にもなっています。これはしばしばユダヤ人の象徴とされています。

本作に登場するエリオとオリバーは共にユダヤ系の血筋です。

注目してほしいのは物語冒頭時点ではエリオは金のネックレスをしてはいるもののダビデの星はついていません。一方のオリバーは本編の最初から自分のアイデンティティを証明するものとして、そのネックレスを身につけています。

④Flying colorsとblessing sign

Flying colorsと言うのは、大成功や大勝利という意味になります。

エリオの父親は毎年アプリコットの間違った言語的起源をやって来た大学院生に話して、それを訂正することができるかどうかを試していると話していました。

さてその時に気になるのは、エリオの父親がとっているポーズなんですよ。

これって実はキリスト教の聖職者が用いる祝福のポーズなんです。

ただエリオの家系はユダヤ系ということですからおそらくはユダヤ教徒ということになりますよね。だとするとこのポーズは非常に謎めいたものに見えてきますよね。

⑤リストとブゾーニ、そしてバッハ

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

本作のメイシーンの1つであるエリオがオリバーのためにバッハの「カプリッチョ 変ロ長調 最愛の兄の旅立ちにあたって」という楽曲を演奏しています。

エリオはこの曲をリスト風に、そしてブゾーニ風に、そして若き頃のバッハ風に弾き分けるのですが、このシーンなんとノーカット。

ナガ
とんでもないことですよね!

このバッハのカプリッチョは、彼自身の兄が宮廷楽長になるためにスウェーデンへと旅立つことが決まった時に彼が兄に宛てて作曲したと言われています。

家族は必死に引き留めようとするも、結局兄は旅立ってしまったという事実が本作の展開を仄めかしているとも言える切ないシーンなのです。

リストという音楽家は幼少の頃より類まれなる音楽の才能を見込まれた人物で自由奔放で、熱情的なピアニストとして知られています。またリストは女性からの支持が厚かったと言いますね。

ブゾーニというのはイタリアの音楽家でバッハの楽曲の楽譜を製作した人物としても知られます。彼は古典的なバッハの曲を大胆にアレンジして、新古典派として世に送り出したわけです。一方のバッハは飾り気のない古典派の音楽作曲者です。

オリバーがリストやブゾーニ風の演奏ではなく、バッハ本来の飾り気のない演奏を好むのは、彼が古物の研究者であるということも理由なのかも知れません。ただそれ以上にこのシーンはその後のパーティーのシーンと対比的です。

先ほど紹介したブゾーニは電子音楽のパイオニアとも言われています。ですので、先ほどブゾーニ風の演奏を嫌ったオリバーがダンスミュージックのような電子音楽にノリノリになっている姿には一抹の違和感を感じますよね。これって建て前と本心の使い分けのようにも見えませんか?

エリオの前では本心を見せていて、それ以外のところとりわけ女性の前では建て前としてダンスミュージックに身を委ねています。2つの対比的な音楽がシーンを続けて流されることで、音楽がオリバーの心情を表現していたように思いました。

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⑥ハイデガー「存在と時間」について

本作『君の名前で僕を呼んで』を読み解いていく際にハイデガーの「存在と時間」を避けて通ることはもはや不可能に近いと感じました。それほどに本作はハイデガーの思想を色濃く反映しています。

ハイデガーの思想について近代哲学の第1人者デカルトの思想と、ギリシャのアリストテレスやプラトンの思想と関連付けながら説明していこうと思います。

まずギリシャのアリストテレスやプラトンの思想と言うのは、基本的にイデアや神という類のものに「存在」の妥当性を求めています。つまりそれらの超越的な「存在」が我々の「存在」を保証しているという捉え方ですね。

次に「われ思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトですが、彼は「われ思う」と記したように、人間の自我というものが「存在」を決定づけると説明したわけです。つまり「自我」が認識しうるものこそが「存在」だという論旨です。

ただこの2つの考え方には共通して抜け落ちている部分があります。

それは「存在」を証明するために「存在」を基盤としている点です。

前者はイデアや神といったものの「存在」でもって我々の「存在」を合理化しようとしています。

後者は「われ」の「存在」を前提として「存在」の合理化を進めようとしています。

つまり「存在」の意味を模索しようとせず、それを先送りにして議論を進めようとしているということです。

ハイデガーの思想というのは、常にこの「存在」に向けられています。

『君の名前で僕を呼んで』の劇中でオリバーがハイデガーの「隠されたもの」について言及していましたが、これはおそらく「存在」のことです。

ハイデガーの定義では我々のことを「存在者」と呼びます。我々は何気なく「存在者」を認識していますが、その「存在者」を浮かび上がらせる背景となっている「存在」という概念に思考が及ばないのです。だからこそハイデガーは「存在」は隠されているのだと主張しています。

ではハイデガーは存在を浮かび上がらせるための施策としてどんなことを提唱したのでしょうか。彼は自分が存在していることを意識し、自らの在り方を他の人間との関わりの中で調整してくことによって、徐々に自分自身の「存在」を浮かび上がらせることができると考えました。いわゆる意識的実践ですね。

そしてその存在を浮かび上がらせようとすることを彼は「実存」と呼ぶのですが、これは完全に自由で開かれたものではないんですね。あくまでも自分の中に隠された可能性の範疇から選ばれたものが浮かび上がって来て「存在」(ないし「現存在」)になると説明しています。

加えてハイデガーがもう1つ指摘しているのが、我々の「現存在」が歴史や伝統に依拠するところが大きいということです。歴史的伝統の内に「善きもの」を見つけ出して、それを自らの実存のプロセスに組み込むことこそが自己形成だと述べているんですね。

さてここまで説明すると、言わんとすることは見えてきたでしょうか?本作『君の名前で僕を呼んで』における古代ギリシャ彫刻と言うのは、人間らしい強さを持つ芸術であり、同性愛を想起させるモチーフでもあります。

つまりエリオは”隠された”自分の存在をオリバーとの関係性の中で模索しているのです。そして父とオリバーと共に海での調査に出かけた際に、彼は海から引き揚げられた古代ギリシャ彫刻の腕と握手をするんです。


(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

この時にエリオは歴史や伝統から自分にとっての「善きもの」を受け取ったのではないかと考えています。

だからこそ銅像の片腕との握手のシーンは極めてハイデガー的と形容できます。彼は隠された自分の「存在」を見つけ出そうとしているのです。

⑦エリオが毛を気にする理由

序盤にエリオが髭を剃ったり、腋毛を気にするシーンがありましたよね。

これは単純に性徴への戸惑いを表しているシーンと捉えることができます。彼は少しずつオリバーに惹かれ始めていました。だからこそ自分の中に芽生える男性性に違和感と一抹の嫌悪感を感じているのだと思います。

毛が濃いことがコンプレックスの女子高生が登場する「スイートプールサイド」という作品がありますが、この作品では毛というものへの嫌悪は女性的であり、毛への憧れが男性的だと描かれています。

また古代ギリシャでは男性の剃毛は一般的だったと言われています。劇中で彼は裸でベットに横たわり、オリバーからの求愛を待ち望んでいるかのような素振りを見せていましたが、毛を剃るという行為もまたオリバーからよく見られたいという思いの表象なのでしょう。

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⑧母アネラは早い段階で気がついていたのだろう


(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

エリオの母親であるアネラは、エリオの首からかかっているダビデの星のネックレスに手を当てて彼に優しい視線を投げかけました。

このシーンはおそらく母アネラがエリオとオリバーの関係性に気がついていることを仄めかすものだったのでしょう。

冒頭でエリオがダビデの星のネックレスをしていないことは既に指摘しました。

つまり彼がこのネックレスをつけているのは、他でもなくオリバーとの連帯を示すモチーフなのです。

⑨映画『ラ・ラ・ランド」との繋がり

本作『君の名前で僕を呼んで』の画面色彩を支配するのは圧倒的にブルーです。

つまり青色です。青色は一般的には「若さ」や「未熟さ」を表現するカラーだと言われています。この色遣いはかなり『ラ・ラ・ランド』に近似しています。

そしてこの「青」という色を考えた時にドイツロマン主義の作家であるノヴァーリスの遺作である「青い花」を色濃く想起させます。

この作品は完成前に作者のノヴァーリスが亡くなったため未完の作品としても知られています。この作品が未完であることもそうですが、物語の中で幼少の頃に見た「青い花が美しい少女」に変わる夢をいつまでも追い求める主人公のハインリヒの姿が印象的です。

私は本作を青色が支配していることから、本作が未来からの視点見た物語なのではないかという仮説を立てました。つまりこのひと夏の物語が過ぎ去って、何年も経った後のオリバーやエリオがあの日のことを思い出している回想こそがこの映画なのではないかということです。

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

2人で過ごしたあの夏の日々が過ぎ去り、もう遠い過去となってしまっても尚、2人の間にあった確かな愛を追い求めてしまう。生涯忘れられない恋愛。どんなに手を伸ばしても手が届くことは無い「青い花」こそが本作『君の名前で僕を呼んで』の正体であり、本作の色彩を青が支配している理由なのではないかと考えました。

⑩『君の名前で僕を呼んで』のタイトルの意味

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

エリオとオリバーが初めて性的な関係を持つ時に、オリバーが「君の名前で僕を呼んで」と告げますよね。

この言葉が後々に至るまでの2人の共通言語となります。

さてではこの「君の名前で僕を呼んで」とはどういう意味なのでしょうか。すごくシンプルに考えるのであれば、「君は僕のものだ。」という意味が込められていると考えられますよね。

ただもう少し踏み込んで考えてみましょう。皆さんはギリシャ神話におけるアンドロギュノスのお話を知っていますか。アンドロギュノスというのは、男女両性の特性を1つの身体で有する存在のことです。

それに基づいてプラトンは「饗宴」の中で男女の愛について語っています。

かつては男女両性を有する存在がいて、神がそれらを切断して手足が2本ずつ、世紀が1つずつの存在に分割したと言うのです。だからこそ男は女、女は男を自分の半神を求めるが如く、探し続けるのです。ただこれは極めてヘテロセクシャルな考え方に囚われています。

元々2人の男性性を有する存在がいて、神がそれを分割したとしたら、その男性は半身であるもう1人の男性を探し求めることになるでしょう。

つまりエリオとオリバーというのは、まさにかつてアンドロギュノスのような存在だったということではないでしょうか。2人はお互いが自分の探し求める半身だと感じています。だからこそかつては自分だったもう1つの半身に対して、自分の名前で呼びかけているのです。

「君の名前」は「僕の名前」。「僕の名前」は「君の名前」。2人が元来アンドロギュノス的1つの存在だったことをこのタイトルは仄めかしているのです。

⑪映画『ブロークバックマウンテン』のオマージュ

男性同士の同性愛を描いた映画の金字塔と言えば、やはり『ブロークバックマウンテン』が圧倒的でしょう。

本作の終盤のエリオとオリバーが山の斜面を駆け上がるシーンはこの『ブロークバックマウンテン』を強く想起させますし、何よりあの「シャツ」の演出は完全にオマージュ要素です。

『ブロークバックマウンテン』のネタバレはできませんので、あまり多くを語ることはできなのですが、あの「シャツ」の存在が何よりの2人の永遠の愛の証明と言えるでしょう。

⑫アプリコットの表象

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

このアプリコットの解釈にはいろいろな視点があると思いますが、私は古代ギリシャの同性愛に重ね合わせてお話してみようと思います。

冒頭のバレーボールを鑑賞している時にエリオが持っているのは、まだ熟していない若いアプリコットです。これは彼がまだ子供であることを示すモチーフです。

一方で物語の終盤にエリオがアプリコットに穴を開けて自慰行為に及ぶシーンですよね。このシーンに登場するアプリコットは完熟です。つまりこれはエリオが古代ギリシャ的イニシエーションを通過したことを意味しています。

先ほど古代ギリシャにおいて男性同士のカップルはあくまでも成人男性と少年の組み合わせによって成立していたと書きましたよね。つまりエリオがイニシエーションを通過し、大人になってしまったならば、それは2人の関係が終わることを示唆しているのです。

だからこそエリオはあのアプリコットをオリバーに食べられるのを拒否したのではないでしょうか。自分はまだ大人になってなどいない、少年のままだと信じさせたい。彼との関係を終わらせたくないという彼の必死の抵抗があのシーンに見え隠れしていました。

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⑬主題歌「Mystery of Love」に込められた意味

Oh, to see without my eyes
The first time that you kissed me
Boundless by the time I cried
I built your walls around me
White noise, what an awful sound
Fumbling by Rogue River
Feel my feet above the ground
Hand of God, deliver me
Oh, oh woe-oh-woah is me 
The first time that you touched me
Oh, will wonders ever cease? 
Blessed be the mystery of love
Lord, I no longer believe
Drowned in living waters
Cursed by the love that I received
From my brother’s daughter
Like Hephaestion, who died
Alexander’s lover
Now my riverbed has dried
Shall I find no other?
Oh, oh woe-oh-woah is me
I’m running like a plover
Now I’m prone to misery
The birthmark on your shoulder reminds me
How much sorrow can I take?
Blackbird on my shoulder
And what difference does it make
When this love is over?
Shall I sleep within your bed
River of unhappiness
Hold your hands upon my head
Till I breathe my last breath
Oh, oh woe-oh-woah is me
The last time that you touched me
Oh, will wonders ever cease?
Blessed be the mystery of love

(「Mystery of Love」 サフィアン・スティーヴンス)

さて本作『君の名前で僕を呼んで』の主題歌の歌詞を引用しました。

全訳をする時間が無かったので、 で示したコーラス部分だけ和訳してみます。

「ああ、哀しいよ。君が初めて僕に触れた日。この魔法はいつか解けてしまうんだろうか。恋の神秘に触れることが出来た幸せよ。」

かなり自分の解釈を込めて意訳してみました。

この歌を聞いて分かったのは、やはり『君の名前で僕を呼んで』という作品は未来から過去となったあの夏の日々を振り返る視点で描かれているということです。

終わった恋をノスタルジックに回想しながらも、その経験を受け止め、そんな神秘的な恋に触れることが出来たことを幸せだと捉え、前に進むことが出来た本編では描かれない未来の2人の視点から歌われた歌なのでしょう。

⑭本作のいくつかのシーンでハエが確認できる理由

本作『君の名前で僕を呼んで』は終始美しい映像で展開されます。

しかし、そんな美しい映像に不釣り合いなものが1つ映りこんでいたことにお気づきでしょうか。それはハエです。

ラストシーンの暖炉の前で泣いているエリオの周りでもハエが1匹飛び回っていました。

ハエというとベルゼブブですとか、病気や死をもたらす存在というイメージがパッと出てくるのですが、そう考えてしまうと、同性愛を扱ったほんさくではハエはエイズのモチーフだと解釈できてしまいます。これではちょっと味気ないですね。

私の考える本作におけるハエの役割はエリオの成熟を示すことだと考えております。ハエは香りを放つものに寄ってきます。つまり熟していない果実には寄ってきません。一方で熟して、香りをまき散らすようになった果実にはハエが寄ってきますよね。

ラストシーンのエリオの周りをハエが飛んでいたのは、彼の成長を示すためだったのではないでしょうか。つまりラストシーンで彼は古代ギリシャ的イニシエーションと通過し、大人になったのです。

他に考えることと言えば、2人のあの夏のダイアローグはハエの一生のように短い期間だったということを含意しているのでしょうか。

⑮刹那の物語が永遠に

本作を見ていて非常に似ている作品だと感じたのがリンクレイター監督の『ビフォアサンライズ』です。

2人の人間模様を描きつつ、2人が過ごした刹那的な時間をその後も「あの時」として残り続ける永遠のものへと昇華させる作品構成や時間の扱い方が非常に似ています。

ただこの2つの作品において決定的に違うのは、そのラストです。オリバーはある女性との結婚を決めてしまいました。だからこそもうエリオとの恋愛を続けることはできません。2人の物語は終わったのです。

一方で「ビフォアサンライズ」という作品は2人の将来を開かれたものとして結論付けました。たった一晩の出来事だったけど、できることならばまた会いたいという未来への希望的観測を仄めかせながら作品を終えています。

だからこそ『君の名前で僕を呼んで』のラストシーンは一層切ないのです。これからあの2人の物語が新たに紡がれることはありません。劇中でオリバーはしきりに「Later.(では、また)」と発言していましたが、彼らに次の機会はおそらく訪れないのです。

それでも北イタリアで過ごしたあの刹那的な時間だけが未来永劫2人の心の中に残り続けます。

電話でオリバーが告げた「I remember everything.」というセリフはダブルミーニングです。

私は今でもあの夏のことを「覚えて」いるよ、そしてこれからもあの夏のことを「忘れない」よ。という2つの意味が込められています。

いやはやとんでもない余韻を孕んだラストシーンでした。

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⑯エリオとオリバーの別れのシーンについて


(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

ここまでダビデの星のネックレスについて何度指摘してきました。

そして終盤にオリバーがエリオに別れを告げる際、自分のネックレスを彼にプレゼントするんですよね。彼のアイデンティティの証明を渡すということですから、これは想像以上に強い意味合いがあります。

彼らが別れを選ぶのはあくまでもお互いのためなんです。1980年代という時代はやはりまだまだ同性愛嫌悪の強い時代です。

だからこそ2人は一緒にいることはできません。

エリオは自分に好意を寄せてくれるマルシアとすれ違っていましたが、和解を果たします。

その時に「for life」というセリフが印象に残っています。

どれだけ愛があったとしても、それだけでは人生を乗り切ることが出来ません。この時代を生きるには、男性に好意があったとしても。生きるために女性を選ばなければならなかったという苦しみが浮き彫りになります。

オリバーがペンダントをエリオに渡したのは、それでも自分のアイデンティティを司るこのペンダントだけは君のペンダントと同じ場所に置いておいてくれないか?という彼の願いが込められた行為だと私は解釈しました。

ちなみにオリバーがエリオとの初めての逢瀬の翌朝に読んでいた本がスタンダールの『アルマンス』なんですね。

これはある「秘密」を抱える少年オクターブと貧しいロシア系少女アルマンスの悲劇的な恋愛物語です。

オリバーがこの小説を呼んでいるという時点で本作の結末は予見されていました。

⑰「Love my way」に隠されたトリビア

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

本作の中でも印象的な楽曲の1つがあのピコピコという木琴の音が印象的なPsychedelic Furs の「Love My Way」です。80年代のイギリスでスマッシュヒットを記録した有名なナンバーですが、この楽曲が登場するシーンが本作の中には2つあります。

まずは本曲の最初のサビまでの歌詞を引用してみましょう。

There’s an army on the dance floor
It’s a fashion with a gun my love
In a room without a door
A kiss is not enough in
Love my way, it’s a new road
I follow where my mind goes
(Psychedelic Furs 「Love My Way」より)

このサビの部分の歌詞 を解釈してみますと、「自分のやり方を受け入れて欲しい。私は心のままに行動するから。」という思いが浮かび上がってきます。これを把握した上で2つのシーンを見てみると、全然違った視点で見ることが出来ます。

1つ目はエリオがオリバーへの思いを自覚するシーンですね。このシーンではエリオからオリバーへ向けられた愛情という形で「Love my way」の歌詞を解釈することが出来ます。自分の思いを受け入れて欲しい、自分が好意を示したら受け入れてくれるだろうか、というエリオの複雑な心境が伝わってきます。

一方で2つ目のシーンは1つ目のシーンでエリオからオリバーに贈られた「Love my way」のアンサーとなっています。

このシーンでオリバーは路上で踊っていた女性にお願いをして一緒に踊ってもらいますよね。

つまりオリバーがエリオに贈った「Love my way」というのは、これ以上2人ではいられないこと、男性同士の恋愛が受け入れられるはずがないこと、そして君の幸せのために別れを選ぶこと、そんなやり方を受け入れて欲しいというメッセージなんだと思います。

歌詞の意味を知った上で2つのシーンを比べると、すごく深い解釈ができると思います。エリオがオリバーが女性と踊る姿を見て嘔吐したのは、そんなオリバーからのメッセージを悟ったからなのでしょう。

ちなみにオリバーを演じた俳優さんって”アーミー”ハマーという俳優さんなんです。そして私が で示した部分の歌詞を見てみてください。何と「兵士」という意味のarmyという単語が登場しています。この響きが似ているのが実に興味深いトリビアです。

⑱クローネンバーグやファスビンダーの影響

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(C)Frenesy, La Cinefacture 映画『君の名前で僕を呼んで』予告編より引用

これは監督のコメンタリーを聞いていてハッとさせられたのですが、ルカ・グァダニーノ監督はこの作品を撮るに当たって、クローネンバーグやニュージャーマンシネマの巨匠ファスビンダーの影響を強く受けていることを明らかにしています。

クローネンバーグやファスビンダーって基本的に作品にたくさんの種類のレンズを使用しないで、一定の距離から単一のレンズで撮り続けるという手法を使ってきた映画監督なんです。

特に私はファスビンダーの映画作品が大好きなので、これを聞いた時に映画『君の名前で僕を呼んで』の映像の巧く言葉にならない素晴らしさが分かりました。

ファスビンダーの『マルタ』という映画がありまして、この映画は1つのレンズだけで全編を撮りきってしまった何とも珍しい映画です。

この手法の最大の利点はというと、カメラのトーンが一定に保たれるために映画から余計な雑音を排除することが出来る点です。ルカ・グァダニーノ監督はカメラがエリオとオリバーの関係性を邪魔することが無いように徹底的に映像の均質化にこだわったと言います。

このレンズの制限が、映画をより豊かなものにしていますね。

おわりに

初稿段階で15の解説を書き上げることが出来ました。正直書きたいことを書ききれたかと言うとまだです。ここから作品を見返しながら、まだまだ気づいたことを追記していきたいと考えております。

作品を見終えた後、あまりの衝撃にこんなツイートをしてしまいました。

本当に見終わった後の率直な感想は「意味わからん。」です。

とにかくあまりの素晴らしさに唖然となりました。

しばらく経つと実感が湧いてきて、この映画の隅々に散りばめられた本作の魅力に気がつき始めました。

考えれば考えるほど味わい深くなる映画です。ぜひぜひじっくりと噛みしめてみてください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

 

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ナガ
当ブログのティモシーシャラメ出演作レビュー記事はこちらから!!

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