みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、映画「南瓜とマヨネーズ」について語っていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
「南瓜とマヨネーズ」
あらすじ・概要
漫画家・魚喃キリコの代表作を「ローリング」の冨永昌敬監督、臼田あさ美主演で実写映画化。
ミュージシャンを目指す恋人せいいちの夢を叶えるため、ツチダは内緒でキャバクラで働いていた。
ツチダがキャバクラの客と愛人関係になり、生活費を稼ぐためにキャバクラ勤めをしていることを知ったせいいちは、仕事もせずにダラダラと過ごす日常から心を入れ替えてまじめに働き始める。
そんな折、ツチダが今でも忘れることができないかつての恋人ハギオと偶然に再会。ツチダは過去にしがみつくようにハギオにのめり込んでいくが……。
臼田が主人公ツチダ役を演じるほか、オダギリジョー、太賀、清水くるみ、光石研らが出演。やくしまるえつこが音楽監修、劇中歌制作で参加。
(映画comより引用)
予告編
「南瓜とマヨネーズ」感想・解説(ネタバレあり)
臼田あさ美が素晴らしかった・・・。
それだけでこの映画は日本の世界一高い映画鑑賞料金を払う価値があると思います。
(C)魚喃キリコ/祥伝社・2017「南瓜とマヨネーズ」製作委員会 映画「南瓜とマヨネーズ」予告編より引用
ただ欲を言えば、もっと濡れ場演技が見たかったのです。
そういうシーンに突入しようとすると、ことごとくカットが入って別シーンに切り替わってしまいますし、事後の描写が多いですし、なんですかこれは・・・?(笑)
カフェでパスタランチを頼んだら、食前のサラダと食後のデザートはめちゃくちゃ美味しいのに、肝心のパスタに味が無いみたいなやつじゃないですか??
93分間ひたすらに悶々とさせられた当ブログ管理人だったのでした。
共感できないからこそ心に刺さる
こんなに共感できない作品は無い。
魚喃キリコさんが著した「南瓜とマヨネーズ」という作品を見て私が最初に抱いた印象である。
女性目線からの恋愛描写が理解しにくいとかそういう次元の話ではない。単純に他人に過剰なほどに依存する人間や過去の恋人への思いが捨てられない人間というものにあまり共感できないのだ。
この「南瓜とマヨネーズ」という作品はそんな自分が理解しえない価値観を持った登場人物が主人公として据えられている。
(C)魚喃キリコ/祥伝社・2017「南瓜とマヨネーズ」製作委員会 映画「南瓜とマヨネーズ」予告編より引用
だが、私はこの作品をどうしようもなく愛してしまうのだ。
自分でもなぜなのかは分からない。全く持って共感できないにも関わらず、どうしようもなく魅力を感じてしまうのだ。
その不思議な魅力の正体を知ろうと原作を何度か読み返しては見たものの、その正体を掴む事ができなかった。そしてその得体の知れない魅力の一端を映画版が解明してくれたように感じた。
注目したいのは、原作と映画では終盤のツチダとせいいちの描かれ方が大きく異なっている点だ。
原作の終盤では、ツチダはまたせいいちに自分から会いに行って、せいいちは新しい楽曲ができたことを告げる。そして、2人は部屋(ツチダの)に戻っていき、せいいちはツチダに演奏を聞かせるというところで幕切れている。
一方の映画版では、ツチダはバイト先のライブハウスでせいいちに偶然再会し、そして彼の新しい楽曲「ヒゲちゃん」を聞く。
そしてライブが終わると、せいいちは自分のライブを開催することになったと告げ、2人は別々の家に帰っていく。ここで物語が幕切れる。
描写だけを見るならば、大きく異なっている終盤の2人の描かれ方だが、本質的に見ると両者が描き出した「結末」は同じものだったように思う。そして、映画版の方がより分かりやすい描き方をしているのだ。
(C)魚喃キリコ/祥伝社・2017「南瓜とマヨネーズ」製作委員会 映画「南瓜とマヨネーズ」予告編より引用
本作のタイトルである「南瓜とマヨネーズ」は、ツチダとせいいちの微妙な距離感を適切に表した表現だと考えている。
南瓜とマヨネーズ、これは端的に言えば、野菜と調味料である。
しかし、大きく括れば食材ということで、スーパーマーケットに行けば同じ屋根の下にあるし、我々の家では冷蔵庫という同じ空間に置かれている。
しかし、南瓜は野菜のゾーンに、マヨネーズは調味料のゾーンに置かれる。その2つが一緒に置かれている光景はどこか落ち着かない。
離れすぎてもいない、かと言って近すぎると上手くいかない。
そんなツチダとせいいちの距離感はまさに南瓜とマヨネーズである。
あの手狭で古風な部屋。あの空間は2人がいるにはあまりにも近すぎたのかもしれない。皮肉にも2人がすれ違うようになってからせいいちは音楽に打ち込めるようになる。
だからこそ南瓜とマヨネーズは別々に在ることを求める。ツチダとせいいちは別々に暮らすところにその解決策を探るのだ。
原作では、その後再び2人が一緒に暮らし始めるような描写が示唆されている。だからこそその主題が見えにくかった。
一方の映画では、2人はお互いの道を歩んでいくような幕切れ方をしている。ただ映画版を見終えて、あの映画版のラストカットのその後には、原作のラストシーンが続いているのだろうと気がついた。
お互いがお互いの幸せを決めつけて、それを押し付け合ったからこそ2人は立ち行かなくなった。自分の目標も幸せも、愛も何もかもを見失っていった。
しかし、2人は距離を置いてみてようやく同じ目線でお互いの幸せを考えられるようになったのだ不揃いな南瓜とマヨネーズはそうしてお互いが一緒に居る術を見出したのである。
原作の最終ページにはこんな記述がある。
わたしたちの生活 毎日 日常
せいちゃんが笑っているということ
あたしが笑っているということ
(「南瓜とマヨネーズ」魚喃キリコ著 204ページより引用)
これは、今までのお互いに強く依存し合った関係の2人ではない。同じ幸せを共有するものとして共に在る2人なのだ。
魚喃キリコの「南瓜とマヨネーズ」という作品は、人が人を思う感情とそれに伴う痛みや苦しみにフォーカスしている。
この作品を鑑賞している我々は、ツチダというキャラクターに共感できるかどうかは抜きにして彼女の痛みや苦しみを無意識のうちに味わっているのだ。
紙の上に、スクリーンの上に散りばめられたそんな痛みや苦しみの欠片は、じわじわと我々の心を痛めつけている。
そしてその作品のラストには、一筋の光明が見える。
気がつくと我々は、その心に付けられた無数の傷が癒えていくのを感じる。
これはまさに「南瓜とマヨネーズ」という作品を通して我々が、ツチダというキャラクターの痛みや苦しみ、そしてその再生を追体験しているからなのである。
だから最初に書いたあの一文に映画を見た今付け加えさせてほしいことがある。
こんなに共感できない作品は無い。しかし、こんなにも共感的になれる作品も他に無い。
これこそが「南瓜とマヨネーズ」という作品が孕んでいる不思議な魅力の正体だったのである。それを教えてくれたのは間違いなく、この映画版だったと思う。感謝。
「ヒゲちゃん」について思うこと
映画版だけを見た人にとっては「ヒゲちゃん」というと、それはやくしまるえつこが作詞作曲した本作の劇中歌であり、終盤にせいいちがツチダに歌ったあの曲のことになる。
しかし、原作を読んでみるとヒゲちゃんという猫が作中で実際に登場するのだ。このヒゲちゃんという猫はせいいちの家の近所に住み着いている野良猫で、昔ツチダが彼の家に遊びに行っていた時にもしばしば見かけていたそうである。
また口の下に黒いブチがあることから、せいいちによってヒゲちゃんと命名されたそうだ。
(C)魚喃キリコ/祥伝社「南瓜とマヨネーズ」より引用
このヒゲちゃんという猫は実は「南瓜とマヨネーズ」という作品において重要な役割を果たしている。
この猫がヒゲちゃんと呼ばれている理由、つまり口の下に黒いブチがあるということをツチダは知らなかったし、一方でせいいちは知っていた。
これは2人の見ている場所、視点が違ったということを表していたのだと思う。そして終盤、恋人関係を解消した2人の前にヒゲちゃんが現れる。
そこで初めてツチダは口の下の黒いブチの存在を知るのである。
そしてそれを見て、2人は笑い合うのだ。魚喃キリコさんは、この些細な表現でもって2人の感情の変化を表現しようとしている。
しかし、映画版ではヒゲちゃんという猫の存在は消え失せ、代わりにやくしまるえつこが作曲した「ヒゲちゃん」という劇中歌が作品の中に内包された。
ただ私はこの劇中歌をせいいちのアンサーソングとして登場させた点については映画を見た直後には不満が大きかった。というのも原作にはせいいちの歌に関してこんな記述があるからだ。
せいちゃんがつくった曲は
恋や愛じゃなくて
子供の頃に
ギターを持って歌を歌う歌手に
あこがれた気持ちのうただった
子供の頃に
ギターがひきたくてひきたくて
ずっと、それがかなうことを願ってて
今、そのことを
やっとまた思い出したよっていううた
うまくいっても、いかなくても せいちゃんが
あたしのいちばん好きな歌をつくるひとだと思った
せいちゃんがつくった歌は
やさしくて かわいくて とても尊くて
あたしはこっそり泣いた
(「南瓜とマヨネーズ」魚喃キリコ著 202ページより引用)
このように原作には、せいいちが歌った歌に関する記述が残されているのだ。
そうである以上、映画版でせいいちのアンサーソングを具象的に描くのであれば、この記述に即した形で描かれるべきであると思ったのだ。
そう考えるとやくしまるえつこが作詞作曲した「ヒゲちゃん」という楽曲はいささか的外れなものに感じられる。
だが、ここで私は少し視点を変えてみた。
せいいちはツチダに対して「お前のために書いたわけじゃないよ。」と前置きをして、演奏を始めた。これはある種の照れ隠しなのかもしれない。そう考えるとそれに続く歌は、ツチダにささげる曲であるべきではないか?
そうなのだ。やくしまるえつこの「ヒゲちゃん」という楽曲はまさしくせいいちがツチダに捧げる楽曲なのだ。ある種のラブコールなのかもしれない。
「道の向こうには猫がいる」という出だしはまさにツチダに出会ったことを指しているのだろう。
この楽曲においては、「ツチダ=猫」として描かれているように感じる。
そしてせいいちは川、山、山の中へとどんどんと迷い込んで行く。これはツチダと暮らすうちに、やりたいことや作りたい音楽を見失ったせいいち自身のことを表現している。
「迷子の、迷子の、迷子の誰かさん」とはせいいち自身のことだろう。
でもようやく気がつくのである。自分はギターを弾いて、手を叩いて、そして歌うことしかできないのであると。それこそが自分のやりたいことであり、目標であり、夢なのだと気がつくのだ。
それに気づいた時、道の向こうにはまた猫が現れる。猫とは先ほども述べた通りでツチダのことだ。
(C)魚喃キリコ/祥伝社・2017「南瓜とマヨネーズ」製作委員会 映画「南瓜とマヨネーズ」予告編より引用
最後の歌詞は「3回回ってにゃあと鳴く」だが、私はこれは猫自身の鳴き声だとは思わない。その猫の気を引くためにせいいちが猫の鳴きまねをしているのだと思う。
ツチダと出会って、そして自分のやりたい音楽を見失って。だからこそ別れを切り出して、また自分の夢や目標を取り戻した。でも、その先にはやっぱりツチダがいたのだ。だからせいいちはギターを弾いて、手を叩いて、歌って、そして3回回ってにゃあと鳴くのだ。ツチダの気を惹くために。
この歌は紛れもなく、せいいちからツチダに宛てて書かれたものであり、彼のラブコールに他ならないのだ。
そう思うと、原作のヒゲちゃんも映画版の「ヒゲちゃん」も作品の中で果たしている役割は全然違うといえど、どちらも無性に愛おしい。
おわりに
いかがだったでしょうか?
今回は映画『南瓜とマヨネーズ』についてお話してきました。
鑑賞してすぐは、どうもやくしまるえつこの「ヒゲちゃん」をせいいちのアンサーソングに起用したことが受け入れられなかったのです。しかし、深く考えてみますとそこにはすごく重要な意義があったことに気がつきました。
映画を見終えてすぐの「感覚」に近い手触りは間違いなく重要です。ただ、私はそれ以上にこの「感覚」だけで映画体験を終えてしまうことを勿体なく感じます。
「感覚」を吟味して、そして思考を深めて、自分なりの解釈を獲得することに映画体験の醍醐味があると考えているからです。
みなさんも映画を見終えた暁には、いろいろと作品に思いを馳せて見て欲しいと思います。
きっと「感覚」としては得られなかった深い理解が得られると思います。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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