『マッドマックス フュリオサ』感想と考察:過去を乗り越えて未来へ、復讐を巡るアンサーとして

本記事は一部、作品のネタバレになるような内容を含みますので、鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。

作品情報

マッドマックス フュリオサ
  • 監督:ジョージ・ミラー
  • 脚本:ジョージ・ミラー/ニック・ラザウリス
  • 撮影:サイモン・ダガン
  • 美術:コリン・ギブソン
  • 衣装:ジェニー・ビーバン
  • 編集:エリオット・ナップマン/マーガレット・シクセル
  • 音楽:トム・ホルケンボルフ
  • 視覚効果監修:アンドリュー・ジャクソン

『マッドマックス フュリオサ』をめぐる3つの視点と考察

①前日譚かあるいは未来からの懐古譚か
②「乗せる」という行為を巡る成長譚
③復讐を巡る物語としての『マッドマックス』へのアンサーとして

①前日譚かあるいは未来からの懐古譚か

©2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

『マッドマックス サンダードーム』のラストシーンを覚えているだろうか。

そのために毎晩ここに集まって、私たちは同じ話に耳を傾ける。メモリーから離れないのは、あの男。私たちの救い主。
(映画『マッドマックス サンダードーム』より)

サバンナという女性が自分の部族の子どもたちに、主人公のマックスについてのエピソードを語り継いでいる場面だった。

英雄を語り継ぐためには、それにふさわしい物語が必要だ。

イエスが聖書によって今に至るまで語り継がれたように、オデュッセイア王の物語が『オデュッセイア』という作品として今も残っているように。

そして、もしフュリオサという女性が、ウェイストランドの王あるいは英雄として君臨する未来が『マッドマックス 怒りのデスロード』の先に存在するのであれば、やはり彼女にも物語が必要だ。

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思えば、『マッドマックス2』も北部民族の長老がマックスという1人の男について懐古し、彼の物語を口述するという形式をとっていた。

そして、今作『マッドマックス フュリオサ』は、その形式を踏襲している。

賢者(ヒストリーマン)が、目撃したフュリオサの数々の言動を、彼女が英雄として君臨した後の世界で語り継いでいるような、そんな物語を聞かされているような、そんな趣がある。

フュリオサが誘拐されるに至る描写が、旧約聖書の失楽園を強く想起させるのも、彼女の母が十字架に磔にされて、殺害されるのも、終盤の戦争が「荒野の40日間」を想起させる名称なのも、フュリオサの物語と聖書を関連づけようとする意図なのだろう。

ディメンタスがガスタウンを制圧する描写は明らかにトロイア戦争の「トロイの木馬」を意識しているし、ジャックをバイクの後ろにつけて引きずりまわす描写は、『イリアス』におけるアキレウスがヘクトールの遺体を引きずりまわす描写をオマージュしている。

他にも挙げていくと、キリがないが、ジョージ・ミラーがフュリオサという女性を聖書や神話、英雄譚と結びつけて、神格化しようとしている意図が伺える。

仰々しく章立てをされた映画のフォーマットそのものも、その意図に由来するのだろう。

『マッドマックス フュリオサ』は時系列的な位置づけから言えば、前日譚ということになる。前作の物語の始まりに直結するという点で、『スターウォーズ ローグワン』を想起させる作りだ。

しかし、これが口述による懐古譚であると考えたときに、この物語が語り継がれている未来の世界に思いを馳せたくなる。

そして、この瞬間に私たちは『マッドマックス 怒りのデスロード』と今作が、この順番で制作されなければならなかった理由を理解する。

語られている内容が過去だとしても、語られている時点は、未来なのである。

民衆の間に彼女の物語が流布されている世界で、あるいは母親が寝かしつけている子どもの枕もとで彼女の物語を聞かせる世界では、いったいフュリオサはどんな存在になっているのだろう。

②「乗せる」という行為を巡る成長譚

©2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

本作は、前作と比較すると、多少のドラマパートを含むが、それでもその大半をアクションシーンが占める映画である。

その中でフュリオサという主人公が少女からロードウォーリアーへの変貌を遂げていく過程をどう演出するかが作り手の腕の見せ所ということになる。

ジョージ・ミラーはここが非常に巧い。

彼は、乗り物と少女の関係性でもって、その成長を描き切るのだ。

幼少期のフュリオサは、誰かに「乗せられる」存在であった。

誘拐されたときは、男にバイクに縛りつけられていたし、そこから助け出される時も、母の運転するバイクの後ろに「乗せられて」いた。

母は極限状態の中で、彼女にバイクを託し、逃亡するように促したが、フュリオサはバイクを降りて、十字架に磔にされた母の下へと駆け寄ってしまう。

この時点での彼女がバイクに1人で乗ることができないという描写はとても大きな意味を持っている。

その後の彼女は、ディメンタスによって囚檻の中に囚われ、彼が率いるバイク軍団とともにウェイストランドを旅することになる。

さらに、ディメンタスの手からイモータン・ジョーの手にわたり、彼女の子を産むために金庫に閉じ込められるが、脱走し、彼の兵士の中の1人となった。

しかし、兵士になったと言えど、彼女は自分の乗り物を持たない。

ジャックという警備隊長が運転する「ウォー・タンク」に乗り込み、メカニックの1人として働き、そこでの活躍が認められて、「ウォー・タンク」の助手席に座ることになる。成長したが、それでもまだ「乗せられる」側であることに変わりはない。

そして、ジャックは弾薬畑(バレットファーム)に向かう最中で、フュリオサに改造車「バリアント」に乗るよう指示していたが、これは作戦が終われば、その車に乗って自分の目的地を目指せという彼からのメッセージだったのだろう。

こうして、彼女は自分の乗り物を手に入れるわけだが、その成長のためには、もう1つ重要な要素が欠けている。

それは「乗せられる」側から「乗せる」側への転換だ。

弾薬畑でのディメンタスの計略により、追い込まれた2人。ジャックは彼女に「バリアント」で逃げるよう促したが、彼女はジャックを助けることを決める。

こうして、フュリオサはジャックを救出し、「乗せる」側への転換を果たす。

だが、その成長の軌道はすぐさまディメンタスによって、否定される。2人は捕らえられ、ジャックは命を落とす。

それでも、左腕を犠牲に、フュリオサは窮地を脱し、イモータン・ジョーの下へ戻る。

この左手を失う描写は、『スターウォーズ 帝国の逆襲』の主人公ルークがダースベイダーによって腕を切り落とされる描写に重なる。

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ルークは切り落とされた腕に父がジェダイだった頃のライトセーバーを握りしめており、腕が切り落とされるとともに、そのライトセーバーを喪失した。

これは、正義の英雄としての父が失われたことを意味するとともに、父親からの別離という点で、彼が大人になるためのイニシエーションだと解釈することもできる。

フュリオサが切り離した左手には、彼女の故郷である「緑の地」の場所を示した星図が描かれていた。まさしく彼女にとっての家族や母を体現するものだ。

そんな左手の喪失が、フュリオサという少女を1人の女性へと変容させる決定的なトリガーであることは言うまでもないだろう。

左手の喪失はある種の親離れ、親殺しなのだ。

最終的にフュリオサは「クランキー・ブラック」という改造車を奪い、ディメンタスと対峙する。

そして、物語の果てに、彼女が「ウォー・タンク」に5人のワイブスを「乗せる」描写に到達し、フュリオサが私たちの知っているフュリオサに重なる。

③復讐を巡る物語『マッドマックス』へのアンサーとして

©2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

レビューサイトを見ていると、本作が『マッドマックス 怒りのデスロード』と比較されているのを、しばしば目にするが、物語の内容に関して比較するのであれば、初代『マッドマックス』の方が適切であろう。

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『マッドマックス』は警察官だった主人公マックスが親友を殺され、さらには愛する妻を傷つけられ、息子を殺害されるという憂き目にあい、復讐の鬼と化していくプロセスを描いている。

マックスの物語とフュリオサの物語は大切な人を殺されるという経験とそれに対する復讐という点で類似性が高い。

興味深かったのは、ディメンタスがフュリオサを前にして「どう殺すかが重要だ。」などと煽っていたことだろうか。

このセリフを聞いたときに、『マッドマックス』でマックスが次々に復讐相手を手にかけていく様、とりわけジョニー・ザ・ボーイを葬る際の映画史に残る最高にクールな復讐劇の結末を思い出さずにはいられなかった。

記事の冒頭でも述べた通りで、今作はフュリオサという女性について、賢者(ヒストリーマン)が口述するという形式をとっている。ゆえに聞き手という形で観客も物語に巻き込まれていると言える。

「聞き手」である私たちは期待をしてしまっている。あの『マッドマックス』に匹敵する復讐劇の結末をフュリオサがみせてくれることにだ。

そして、そんな聞き手の思いをディメンタスは代弁しているようにも思える。自分をどう葬るかで、フュリオサの英雄譚に対する評価が決まるとでも言いたげだ。

だが、彼女はそうした観客の期待を裏切ったと言える。

復讐劇の結末は明確に描かれず、聞き手の想像に委ねられる。さまざま説が囁かれ、一説には果実の種の苗床にされたなんておとぎ話のような結末も語られる。

ディメンタスとフュリオサを比べてみたときに、再び『マッドマックス サンダードーム』のラストシーンのサバンナの言葉を思い出す。

失われた過去は二度と取り戻せぬ。私たちは過去を乗り越えて、未来を目指さなければならない。
(『マッドマックス サンダードーム』より)

ディメンタスは過去に囚われた男だ。二度と取り戻せぬものに執着し、あらゆるものを破壊し、奪い取ることで、その空虚さを埋め合わせようとしていた。

一方で、フュリオサはそんなディメンタスと対峙し、過去を取り戻そうとする自分の未熟さと向き合い、それを振り払う。

そうして、彼女は、5人のワイブズたちをイモータン・ジョーの砦から連れ出すという形で、未来を紡ごうと試みる。

ディメンタスの肉体を苗床にして、果実が実っているという描写も、過去から未来が創造されていく様を可視化しているように見える。

過去を乗り越えて、未来へと向かうという初代『マッドマックス』3部作が提示したテーマを本作はこの上ないカタチで体現し、復讐というテーマに対して明確で力強いアンサーを示したと言えるのではないだろうか。