【ネタバレ】『サイレントトーキョー』感想・解説:責任放棄を批判する映画が責任放棄をしている

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『サイレントトーキョー』についてお話ししていこうと思います。

ナガ
2020年の年末、とんでもクオリティの邦画公開され過ぎじゃない?

11月に入ってからここ1ヶ月くらいで、年間ワースト候補筆頭と評しても差し支えのない作品が一気に3本公開されました。

『ドクターデスの遺産』『君は彼方』そして今作『サイレントトーキョー』であり、さらに来週にはこれまた前情報の時点でワースト候補と目される『新解釈 三國志』が公開されるという充実っぷりです。

もうだんだんと感覚がおかしくなってきて、最近見た邦画で一番面白かったのが『STAND BY ME ドラえもん2』じゃないか?くらいに思えてくる始末なのです。

『ドクターデスの遺産』は、もう単純に出来が悪いのと、原作が傑作だっただけにそこからの改変にあまりにも難がありすぎたという印象でしたね。

一方の『君は彼方』は面白いとか、つまらないとか、そういう次元を超えた圧倒的な虚無です。

そして今作『サイレントトーキョー』は単純な不出来もありますが、個人的にはその内容に少し怒りを覚えましたね。

というのも、今作はジョン・レノン『Happy Xmas (War Is Over)』をエンディングに起用するなど、平和へのメッセージを強く打ち出しているのですが、ここで大きな問題を生じさせています。

というのも、「戦争のための戦力」と「防衛のための戦力」の線引きがきちんとできていないため、テロリストの行動もそして映画のそのものの主張もブレブレなのです。

しかも、「これが俺の思想だ!」と鮮烈に観客に突きつけてくれるなら、まだそういうものとして受け入れられるのですが、中途半端にお茶を濁していることもあり、たちの悪いプロパガンダ映画臭を放っています。

また、日本国民の平和ボケを演出したいがために、過剰に若者に対するアイロニーを展開しているのですが、これまたステレオタイプと言うか浮世離れした描写ばかりで、いい加減にしろと言いたくなりました。

さて、今回は酷評が主になってしまうとは思いますが、映画『サイレントトーキョー』についてお話ししていこうと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『サイレントトーキョー』

あらすじ

クリスマスイヴの夜、恵比寿のショッピングモールに爆弾がセットされたという通報が入ってきた。

しかし、警察がその対応のために積極的に動くことはなく、とあるテレビ局のスタッフ2人が半信半疑で現場に向かう。

2人が現場に向かうと、巨大なクリスマスツリーの周辺のベンチに1人の女性が腰かけていた。彼女は自分が座っているベンチに爆弾が仕掛けられていると告げる。

さらに、自分は犯人に指示されていて、その通りに行動しなければならないのだと告げ、スタッフの1人をベンチに座らせ、彼女はもう1人のスタッフと共に館内放送のために守衛室へと向かう。

しかし、ショッピングモールの爆弾が作動し始め、市民はパニック状態に陥る。すぐに警察や特殊部隊が殺到するも、ベンチにセットされていた爆弾までもが作動してしまうのだった。

ただ、作動した爆弾は音と光のみのものであり、火薬はセットされていなかった。

警察は、犯人は火薬をセットしようと思えばできたはずだと警戒心を強め、人員を総動員して捜査を開始する。

その頃、犯人の新たな声明が動画サイトを通じて公開される。

「総理大臣と1対1での対談を要求する。応じなければ渋谷ハチ公前で新たな爆弾が作動する。」

これは戦争だ。

 

スタッフ・キャスト

スタッフ
  • 監督:波多野貴文
  • 原作:秦建日子
  • 脚本:山浦雅大
  • 撮影:山田康介
  • 照明:渡部嘉
  • 編集:穗垣順之助
  • 音楽:大間々昂
ナガ
監督は『SP』シリーズの波多野貴文さんですな!

本作の監督を務めたのは、『SP』シリーズを手掛けたアクションやクライムサスペンスに定評がある波多野貴文さんです。

彼は『踊る』シリーズ本広克行監督の下で演出等について学んできた方なので、そのあたりの良くも悪くも「邦画大作感」を如実に受け継いでいる印象を受けますね。

また、今作は元々舞台原作で、それを手掛けたのが秦建日子さんなのですが、劇団「秦組」が2016年に上演していた演目のようです。

脚本については、『ハルチカ』『亜人』などを手掛けた山浦雅大さんです。こちらもドラマ畑の脚本家のイメージが強いですが、『ハルチカ』『亜人』の印象もあり、原作の再構築はそれほど上手くないなと個人的には思っています。

撮影には『先生!』『フォルトゥナの瞳』などの三木監督作品を支えてきた山田康介さんがクレジットされていますね。

編集には『ちはやふる』シリーズ『罪の声』などで知られる穗垣順之助さんが起用されました。

また、劇伴音楽を『ひとよ』『宇宙でいちばん明るい屋根』などにも楽曲を提供してきた大間々昂さんが手掛けました。

キャスト
  • 朝比奈仁:佐藤浩市
  • 山口アイコ:石田ゆり子
  • 世田志乃夫:西島秀俊
  • 須永基樹:中村倫也
  • 高梨真奈美:広瀬アリス
  • 来栖公太:井之脇海
  • 泉大輝:勝地涼
  • 磯山毅:鶴見辰吾
ナガ
キャストだけは非常に豪華ですよね…。

誰が主人公なのかと聞かれると答えに窮するタイプの映画なのですが、一応メインキャストは佐藤浩市さんと石田ゆり子さんということになるでしょうか。

その他にも『MOZU』などで知られる西島秀俊さんが今回も警告なしで銃口を市民に突きつける危ない刑事な役で出演しています(笑)

その他、事件に関わっているのか、関わっていないのか…ミステリアスな雰囲気を漂わせる中村倫也さんがこれまた良かったですね。良い味、出してました。

あとは広瀬アリスさんが演じているキャラクターは、本当にイラっとしましたね。すみません。女優さんは悪くないんですが、このキャラクターほんとにイライラしました(笑)

ナガ
ぜひぜひ劇場でご覧ください!



『サイレントトーキョー』感想・解説(ネタバレあり)

主張が矛盾だらけ、中途半端だ

(C)2020 Silent Tokyo Film Partners

まず申し上げておきたいのは、私は、映画において監督や作り手の政治的思想や信条が表出することが必ずしも悪いことだとは思いません。

映画を芸術であると捉えるならば、そうした思想や信条が反映されることは、むしろ自然な成り行きだと言えるでしょう。

近年のアメリカ映画では、徹底的に「反トランプ」の思想を反映していましたし、あれがプロパガンダ的でないというのは無理があります。

ですので、映画に特定の政治的な思想や思想的な偏りが見られるからと言って、それ自体を否定するというのは、あまりすべきではないと思いますし、今回の記事でもするつもりはありません。

さて、今回お話している映画『サイレントトーキョー』ですが、端的に言うと「日本は憲法第9条のおかげで平和が保たれてきた」という思想が通底しているような印象を受けました。

まず、今作の犯人側の動機と言うのが、鶴見辰吾さんが演じる磯山総理が「日本が防衛のための戦力を持つ(=実質的には戦争ができる国にする)」という発言をしたのを聞き、怒りを覚えたからというものになります。

私個人としては、憲法第9条の改憲ないし、日本の防衛の在り方について再考することは、近年の日本を取り巻く情勢を考えても、自国の防衛のために必要だとは思っているのですが、もちろんこれが戦争に繋がってしまうと考える人の懸念や心配が理解できないというわけではありません。

ですので、そうした近年の「第9条改憲」「日本が正式に軍を持つこと」に対する動きに対しての「平和のメッセージ」を突きつけようとしたという作品の方向性や意図は十分に分かります。

ナガ
しかしですよ、それにしては何とも矛盾している点が、この映画は多すぎるんですよ。

なぜなら、「戦争」と「防衛」の線引きが甘く、これらをごっちゃにしてしまっているからです。

犯人は、「平和ボケした日本人たちに戦争というものを教えてやろうと思って渋谷を爆破した」と作中で語ります。そうして実際に多くの死傷者を出したわけです。

ナガ
ここで少し冷静に考えてみてくださいね…。

渋谷でテロリストによる凄惨な爆破事件が起きたわけですよ。

犯人は、この爆破により日本人が戦争というものの「恐ろしさ」に触れ、磯山総理の戦力保持に対する姿勢に抗って欲しいと考えていますよね。

でも、まともな感覚の持ち主なら、むしろ逆のことを考えませんかね?

現実に置き換えたとして、もし日本が仮に周辺の国からミサイルを撃ち込まれたり、侵略戦争を仕掛けられたりしたとして、頼みの綱であるアメリカの支援もまともに得られなかったとしたらどうなりますか。

今作の渋谷で起きたような凄惨な出来事が日本の各地で起きたとして、日本は何もできないなんて状況に陥りかねないわけですよ。

そう考えると、渋谷での爆破を経験した人たちや、その惨劇を、メディアを通じて目撃した市民って、むしろ「戦力を持つ」という意見に賛成する方向に向かうと思うんですよね。

なぜなら、こういう状況に陥ったときに、何もできない日本の無力感に気がつかされるからですよ。「日本は憲法第9条の存在=平和」という神話が崩壊するからですよ。

常識的に考えて人間って、他人よりもまずは自分たちのことを先に考えます。

そうであれば、渋谷があんな風に爆破された時に「あっ、これを他国に強いることが戦争だから、戦争はダメなんだ。」ってところまで想像力が働く人ってどれくらいいるんでしょうか?

ナガ
少なくとも私はそこまで思い至らないです…。

むしろ、自分たちがこういう危険にさらされる可能性があるから、それを守るために武力を持つ必要があると考える方が自然ですよね?

というように、今作の犯人の行動と動機、そしてそれがもたらし得る市民の反応の間にはかなりの矛盾と齟齬が生じていて、流石に理解に苦しむといった状態になっています。

この映画は、「戦争はダメ、平和が大切」ということを打ち出しているはずなのに、なぜか「平和ボケした日本人よ、戦力を保持せよ!」と言っているようにも聞こえて、何がしたいのかさっぱり分からないわけですよ。

その上、クライマックスでは、こうした作り手の思想的な部分で、明確な決着をつけず、何となく「まあ考えることが大切だよね…」くらいでお茶を濁してしまうんですよね。

ナガ
これがまた良くないんだよな…。

作り手が作品に思想や信条を反映させると決めたのであれば、やはりそれをきちんと貫き通すべきだと思います。中途半端にやるのが一番良くないんですよ。

しかも、「もう少しこの国の人たちを信じてみても良いんじゃないか…。」ってテロリストが何様だよ!って感じですし、そういう日和った考え方が社会を駄目にする最も大きな要因の1つでもあると思うんですけどね。

なぜなら、それって結局は、自分たちの責任放棄であり、何もしないことと同義だからです。

犯人たちは、結局渋谷を爆破しただけのテロリストであり、それがあの磯山総理への批判につながるとは到底思えません。

そういう「責任放棄」の酷さがこれまた本作『サイレントトーキョー』には、蔓延しているので、次の章で触れていきます。



「責任放棄」「責任転嫁」が目立つ

本作の劇中で、やたらと批判の対象になるのが、磯山総理のテロリストに対する対応です。

メディアは、総理がテロリストの要求を飲んでいれば、爆発は防げたはずだと声高に批判キャンペーンを展開するわけですが、あの対応ってあながち間違いではないですよね。

磯山総理は「テロリストの要求に屈しない」という対応、きちんとそのロジックまで説明していましたし、別段悪い対応でもありません。

一度、そうした要求に対して安易に屈してしまうという前例を作ってしまえば、模倣犯の呼び水にもなってしまいます。これは当たり前です。

というか、あの映画においてテロリストに立ち向かうと宣言した総理よりも、爆破が予告されておきながら、渋谷でパーティーをしていた市民の方に批判が集まらないのって一体どういう世界観なんですかね。

ナガ
誰がどう考えても、総理よりも市民の方に非があるでしょうよ…。

爆破が予告された場所で、近寄らないでください、離れてくださいとあれだけ言われていたにもかかわらず、どんちゃん騒ぎをして被弾した市民にあるはずの非を、なぜか総理への批判にすり替えているんです。

このあたりに、「日本が武力を持つことを推進する総理」を批判したいという方向性が強すぎることによる無理が生じていたような気がしました。

つまり、思想や信条を反映させようとするがあまり、作品のプロットそのものが「浮世離れ」してしまったという典型ですね。

そして、キャスト紹介のところで、個人的にイライラしたとお話していた広瀬アリスさんが演じていた女性についてもそうです。

(C)2020 Silent Tokyo Film Partners

彼女は自分が親友を渋谷でのディナーに強引に誘い、あろうことかハチ公前を見に行ってみようよと声をかけたことで、親友に重傷を負わせてしまいました。

最初は彼女も哀惜の念に苛まれていたようですが、次の瞬間には中村倫也演じる須永基樹が神奈川で仕事と嘘をついて渋谷にいたことを思い出し、彼に責任転嫁をしてやろうと思い至るのです。

ナガ
何の確証もないのに、というかどう考えても自分が悪いのに、なぜそんなに須永を責められるのか…。

でも、よくよく考えたら、日本には憲法第9条があるし、いざという時はアメリカが守ってくれるだろうという考え方も都合の良い「責任放棄」「責任転嫁」の類のような気もするんですよね。

なんて、考えていくと、結局この映画って何が言いたかったんだろ?というところに行き着いてしまいました。

最後はお茶を濁して、エンディングでジョン・レノンの名曲を流して「平和って大事だよね!」と何となく仄めかして終わってしまうのですが、結局平和のために何をすべきなの?という作り手の主張の核の部分が見えてこないんですよ。

要は、この映画そのものも、あれだけ特定の思想・信条に偏った描写がありながら、最終的には「見た人が自由に考えてくれたらよいんだよ」というある種の「責任放棄」をしてしまっているのです。

でも、今の日本は「平和」を存続するために、1人1人が「責任放棄」や「責任転嫁」から脱却しなければならないフェーズに来ていますよね。

ナガ
投票率が年々下がってきて、政治への関心が薄れてきていることも懸念すべき点です。

なのに、この映画に登場するキャラクターは、市民は、挙句の果てにはこの映画そのものが「責任放棄」や「責任転嫁」に終始しているという惨状は、どう受け止めたらよいのでしょうか。

私は、この映画が「日本は憲法第9条の存在=平和」という神話を信奉し、だからこそ「戦力保持はダメなんだ!」という作り手の思想をもっと正面から叩きつけるような内容だったら、これほどモヤモヤしなかったと思います。

確かに、自分の思いや考え方とは違いますが、こういう考え方もあるからと受け入れられたことでしょう。

しかし、この映画は全てにおいて中途半端であり、特定の政治的な思想を色濃く反映させているのに、それを主張するには、矛盾するような内容があまりにも多く盛り込まれているのです。

その結果として、結局「平和」のために何が必要なの?何を考えなければならないの?というコアの部分の主張や論理が欠落しており、何の意味もなさない作品に仕上がっているわけですよ。

だからこそ、私はこういう作品がすごく苦手と言うか嫌いです。

どうせやるなら、もっと貫いてくれ、突きつけてくれ、俺はこれが正解だと思うんだと声高に叫んでくれ…。

 

スケールの大きさとなかなかなゴア描写

最後に、本作の映画的な部分について軽く触れておきます。

この映画を見た方は、一体どうやって渋谷の爆破シーンを撮影したんだろ?と疑問に感じることと思います。

(C)2020 Silent Tokyo Film Partners

渋谷を実際に封鎖して、ロケをするなんてことは難しいですし、それだとVFXも使いづらいですよね。

といった問題をまるっと解消すべく、本作の撮影においては、何と栃木県に総工費3億円のとも言われるオープンセットを作り、そこで撮影を敢行したようです。

Movie Walkerより引用)

ですので、渋谷のシーンはかなりリアリティがあると言うか、迫力のあるものになっていて、ここの映像に関してはスクリーンで鑑賞する価値があると個人的には思います。

ただ、爆発のシーンのVFXの使い方と言うか演出の仕方は、言い方は悪いですが「バカっぽく」て、あれでは爆弾の恐怖が観客に伝わらんだろとは思ってしまいましたけどね。

ナガ
なんであんな雑なスローモーションを採用したんだろうね(笑)

映像はしょうもないのですが、爆発の大轟音は映画館で見ると、心臓が張り裂けんばかりの臨場感であり、こちらについてはドキッとしました。

そして、個人的に一番気になったのは、本作が結構グロテスクなシーンが多い点です。

普通に人間が溶ける系のゴア描写や、人体損壊系の描写がインサートされているのに、この映画って「G」指定なんですよね。

ナガ
つまり年齢制限なしで見られるってことか…。

あんな肉がちぎれて、骨が露出しているようなグロ描写を普通に親子連れでも身に行けてしまうという状況は大丈夫なのか?とは思ってしまうのですが、「戦争」の恐ろしさを伝えたいという作り手と映倫の意向なのでしょうか。

まあ、このブログではそういった描写がありますということはお伝えしておきますので、苦手な方は鑑賞を避けることを推奨します。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『サイレントトーキョー』についてお話してきました。

ナガ
まあ、とにかく「中途半端!」の一言に尽きますね…。

脚本やストーリー構成も無論最低レベルですし、映像の見応えがあるのは渋谷のスクランブル交差点のシーンくらいのものです。

さらに言うとあまりにも矛盾する点が多すぎて、何がやりたかったのかが全く不可解なのが非常に気になりました。

「平和」へのメッセージを打ち出していて、軍を持つのはダメだ!と頑なに言っている割には、犯人の行動は国民を「防衛のために軍を持つべき」という方向に動かしそうなものでした。

また、日本国民に「平和ボケはダメだ!」「責任転嫁はダメだ!」と犯人が言っているにもかかわらず、キャラクターのみならず映画そのものに「責任放棄」や「責任転嫁」の側面が見られるという論理の破綻っぷりを披露しています。

ほんとに見終わった後に、「何がしたかったの?」と思わざるを得ない内容です。

2020年はこの手のトンデモ邦画が年の瀬に一気に公開されており、荒れ模様です。

ナガ
もうお腹いっぱいになってきたので、来週の福田監督の新作はやめておこうかな…。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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