みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『この世界のさらにいくつもの片隅に』についてお話していこうと思います。
公開当時、今作の製作は資金繰りがかなり苦しかったようで、監督は一か八かの賭けでクラウドファンディングで製作資金を調達し、何とか公開に漕ぎつけました。
しかし、アニメーション映画は1時間の映画を作るのに1億円程度の予算がかかるとも言われており、資金繰りが苦しい中で監督が当初構想していた2時間30分尺の映画を作ることは難しかったようです。
そのため、監督は泣く泣く30分近いシーンをカットすることで、2時間尺の映画に仕上げ、劇場公開に辿り着いたのです。
結果的に、映画『この世界の片隅に』は興行収入27億円超えの大ヒットを記録し、これにより監督は自身が当初構想していた2時間30分超の「長尺版」を作れる環境を手に入れたというわけです。
こうの史代さんの原作を読んでいた人であれば、カットされていた細かなシーンがきちんと映像化されたことに対してただただ感慨深い思いでいっぱいになる作品だと思います。
そして後ほど詳しくお話しますが、今作は「長尺版」の位置づけではありますが、完全新作と言っても過言ではない内容です。
だからこそ、2016年公開版を見た人も、ぜひ今一度劇場に足を運んでみて欲しいのです。
今回はそんな作品の魅力をネタバレありで語っていきたいと思います。
本記事はネタバレを含む感想・解説記事ですので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『この世界のさらにいくつもの片隅に』
あらすじ
2016年に公開され、興行収入27億円を突破した『この世界の片隅に』に追加シーンが大幅に加えられました。
とりわけ今作のキーマンになるのが、ポスターにも印象的に映し出されている「リンさん」という女性です。
2016年版では、彼女の存在を仄めかす周作さんの千切られた帳簿や、桜の文様が入った紅入れが登場しながらも、それらの意味は不明瞭なままになっていました。
今回の『この世界のさらにいくつもの片隅に』では、そこに隠されていた「リンさん」の物語を加えることによって『この世界の片隅に』というタイトルの印象をがらりと変化させます。
遊郭で働く女性である「リンさん」は、実は周作さんとかつて関係がありました。
というのも、会社の人(親戚)に連れられて遊郭に赴いた周作さんはそこで出会った彼女に一目惚れをし、身請け金を払って救い出したいのだという願望を抱いたのです。
しかし、親戚に反対され、更には母が病床の身であり、何とか安心させてあげたいとも感じていた彼は、幼少期に出会った「すずさん」に縁談を持ち掛けたのでした。
この1つの事実が明らかになったことで、2016年版と同じシーンであっても「すずさん」の心情が大きく異なっていることに気がつきます。
この作品を見て、『この世界の片隅に』というタイトルにはどんな思いが込められていたのかを改めて考えてみて欲しいと思います。
スタッフ・キャスト
- 監督:片渕須直
- 原作:こうの史代
- 脚本:片渕須直
- キャラクターデザイン:松原秀典
- 作画監督:松原秀典
- 美術監督:林孝輔
- 音楽:コトリンゴ
今回、250カット以上30分超えの映像が追加されたということでスタッフ陣としても新しい映画を1本作るくらいの気持ちだったのではないでしょうか。
とりわけ追加されていた代表的なシーンで当ブログ管理人が気がついたのは、以下のものです。
- 水原が教室でぶっきらぼうにすずさんの鉛筆を奪い取るシーン
- すずさんと晴美が小松菜のタネを蒔くシーン
- 二葉館(遊郭)の前ですずさんとリンさんが会話をし、周作さんの帳簿の切れ端に彼女の名前や住所が書かれているのを知るシーン
- すずさんが帳簿を見て、リンさんと周作さんとの関係に気がつくシーン
- リンさんのことが気がかりで、周作さんからの夜の求めを拒絶するすずさんのシーン
- 二葉館ですずさんがテルという病床の遊女と出会い彼女のために南国の絵を描くシーン
- 花見の場ですずさんとリンさんが再会をする場面
- 空襲で焼け野原となった遊郭の跡地をすずさんが訪ねるシーン
映画の魅力がより深まったり、見方が変わったりするようなシーンばかりで、だからこそ2016年公開版と見比べて、語りたくなる作品だったと思います。
そしてやっぱりコトリンゴさんの主題歌は抜群ですよね。
エンドロールで流れる『たんぽぽ』というすずさんのことを思って作られた楽曲は今回楽器編成を新たにしています。
曲の全体像は変わらないけれども、楽器のディテールが変化することで、こんなにも違った楽曲に聞こえるんだ!という驚きを与えてくれるという意味でも非常に作品にマッチしていました。
- 北條すず:のん
- 北條周作:細谷佳正
- 黒村径子:尾身美詞
- 黒村晴美:稲葉菜月
- 水原哲:小野大輔
- 浦野すみ:潘めぐみ
- 白木リン:岩井七世
- 北條サン:新谷真弓
- テル:花澤香菜
追加シーンも多かったということで主演ののんさんをはじめ、キャスト陣はかなり新規収録をされているようです。
そしてその中でも前作から一気に出番が増えたのが、やはり岩井七世さん演じるリンさんですよね。
大人の女性であるようで、どこか可愛らしくそれでいて哀しく、儚い不思議な存在である彼女を岩井七世さんは見事に演じ切ってくれました。
また、新キャラクターとしては花澤香菜さんが演じたテルがやはり印象に残ります。
ある種のリンさんのIF的な立ち位置で登場する彼女は、花澤香菜さんのボイスアクトによって、心の底から「優しさ」が滲み出るようなそんな女性像になっていたと思います。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!
『この世界のさらにいくつもの片隅に』感想・解説(ネタバレあり)
そもそもなぜ「リンさん」をカットしたのか?
2016年に公開された『この世界の片隅に』を見て、私が一番衝撃を受けたのが、やはり「リンさん」の存在の大幅なカットでした。
ブログを始めて間もない頃に書いた記事ですが、映画館で作品を見た時の衝撃をこちらに綴っています。
上記の記事にも書いていますが、こうの史代さんの『この世界の片隅に』においてそのタイトルの意味に密接に関わっているのが、「リンさん」というキャラクターでした。
彼女の存在があったからこそ、すずさんという女性が終盤に告げる「ありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて。」というセリフに深い意味が生まれるのです。
だからこそ片渕監督がこの決断をしたことに対して、当初はすごく懐疑的な視線を向けていましたし、あの原作の映画化としては受け入れ難いという感想でした。
それが大きく変わったのは、批評本の『ユリイカ 2016年11月号』にて監督のインタビューを読んだことがきっかけでした。
同書のインタビューで、監督は「リンさん」をカットした理由について次のように語ったのです。
すごく単純に、大事なところをあえて切ろうと思ったんですよ。そうしたら「そこを作らないと話にならないよ」って文句を言う人が出てきて、また続編を作れるかもしれない(笑)
(『ユリイカ 2016年11月号』より)
なんと、監督が笑い話で語ったこの内容が、現在進行形で起きていることなわけですから、何があるか分からないですよね。
そしてもう少し掘り下げて、彼はすずさんとリンさんの関係性の中で、カットに至った理由を語っているのですが、そこで制作時にこんな疑問があったのだと話しています。
戦争でこれだけ苦しめられたすずさんが、その日常のパートで、リンさんの存在にまで苦しめられたなら、果たして立ち直ることができるのだろうか?救われるのだろうか?
だからこそ片渕監督は中途半端に日常の描写をカットするよりも、こうの史代さんの原作を構築する1つの重要な要素をカットすることで、自分なりのすずさんへの愛を込めた『この世界の片隅に』を再構築したのです。
監督は明確な意図を持った上で、「リンさん」をカットしたのであり、それによって映画版の『この世界の片隅に』というタイトルには原作と異なる解釈が付与されました。
こういう監督の明確な意図があって、原作とは異なる物語になっているのだということを知れたため、私としても非常に納得がいき、映画版を好きになることができました。
ディテールが全体像を変える
『この世界の片隅に』という作品はそもそも大きな物語を描くというよりは、小さなディテールを積み重ねることで物語の全体像を作り上げていくタイプの作品です。
それは広島という土地についてもそうですし、登場するキャラクターたちの物語においてもそうです。
本作は6年間にわたる資料集めとロケハンの決勝であり、それ故に広島ないし呉の風景が当時さながらに再現されており、細かなところまで描きこまれています。
まだ健在だったころの広島県産業奨励館もそうですし、大きな戦艦が停泊する軍港の様子、そして街に息づく人々の暮らしを詳細に描きこんだことで、まるでタイムスリップをしたかのように錯覚させられるほどです。
そして、キャラクターたちの描写もディテールへのこだわりが強く見られます。
本作は登場人物たちを「彼 / 彼女はこんな人物である」と断定的に描くことはせず、むしろ断片的なディテールの積み重ねによってキャラクター像を作り出していくというアプローチを取っているのです。
当ブログ管理人が気に入っているのは、映画の冒頭にも登場するすすざんが海苔の入った箱を持ち上げる際のちょっとした動作です。
(こうの史代『この世界の片隅に』より引用)
登場人物のこういった細かい動作や表情って、実はその人の本質を浮き彫りにしていく上で、非常に重要で、こうの史代さんも片渕監督も並々ならぬこだわりをもって描きこんでいます。
だからこそ『この世界のさらにいくつもの片隅に』という作品は、そのディテールに微細な差異をつけることで、物語の全体像の見え方がどう変化するのかを検証する「実験」のような作品なのです。
もちろん物語の大筋が劇的に変化するわけではありません。
しかし、すずさんの日常に「リンさん」という1人の女性が明確に介入してきたことよって、たったそれだけのことで私たちはこれまで見ていた物語とは全く違う視点で見ることができ、新鮮さを感じることができます。
例えば、呉で暮らすすずさんのもとに水原がやって来るシーンも非常に印象的ですよね。
2016年公開版でも、当然このシーンは描かれていましたし、周作さんの自分に対する扱いに憤慨した彼女の心情はしっかりと理解できるものになっています。
一方の『この世界のさらにいくつもの片隅に』では、彼女の中に渦巻くもっとドロドロとした感情の表象としてこのシーンが機能しています。
なぜなら、このシーンの直前に「すずさんが帳簿を見て、リンさんと周作さんとの関係に気がつくシーン」が挟み込まれているからです。
彼女は単に周作さんからあんな扱いを受けたことに対して動揺し、憤慨しているのではありません。
リンさんという存在があるがために、自分の居場所なんてここにはないのかもしれないという焦燥感や、リンさんに対する激しい嫉妬の情にかられているんですよ。
こうやって新しく取り入れられたカットが少しずつ作品のディテールに影響を及ぼすことで、最終的には『この世界の片隅に』というタイトルの意味を再考させる全体像の変化へと転じていくのです。
それ故に、2016年版は「不完全版」ではありませんし、それでいて『この世界のさらにいくつもの片隅に』は「完全版」ではありません。
この2つは紛れもなく独立した1つの作品なんですよ。
ぜひ、そんな片渕監督の「実験」的作品の機微を1人でも多くの方に体感していただきたいと思っています。
リンさんが変えるタイトルの意味
(C)2019 こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
では、今作『この世界のさらにいくつもの片隅に』において「リンさん」の存在はどんな意味を持っていたのでしょうか。
そもそも『この世界の片隅に』という作品は、すずさんが自分の居場所を見つけるまでの物語として解釈することができますよね。
これは2016年版でも変わらないことですし、とりわけ好きでもないのに結婚した北條家が次第に自分の居場所になっていくというプロセスにフォーカスしていました。
今回の『この世界のさらにいくつもの片隅に』では「リンさん」の存在があることで彼女の居場所はますます窮屈なものになっています。
すずさんの心情が最もストレートに表れていたのは、彼女が周作さんからの夜の求めを拒絶するシーンだったと思います。
代用炭団を作り、それを寝室で焚いていたすずさんはそんな「代用品」に自分の置かれている境遇を重ねています。
つまり、自分のことを愛して選んでくれたと思っていたはずの周作さんすら自分のことを思いが届かなかった女性の「代用品」としか思っていないのではないかという疑念がドロドロと心の中を渦巻き、彼女は「身の置き所の無さ」を感じるわけです。
そこには、子どもがなかなかできないという事実も噛んでいるのでしょうが、やはり彼女は周作さんの思いのベクトルが気がかりなのであり、それが故に苦悩し、嫉妬しています。
同じく追加された花見のシーンで彼女が周作さんとリンさんが再会することに強い不安を感じている一幕がありましたが、これもコミカルに描かれながらも彼女にとっては切実な問題です。
そうやって周作さんの真意も聞かないままで1人で悶々とリンさんに対する負の感情に囚われている彼女だからこそ、「うちは何ひとつリンさんにかなわん気がするよ。」というセリフが飛び出すんですね。
更にはすずさんは、晴美さんを守れなかったことや右手を失い、家事に支障をきたすようになったことからさらに北條家に居場所をを見出せなくなり、広島に帰ろうかとも悩み始めます。
しかし、彼女は空襲で北條の家が燃えそうになった際に、必死に消火しようとしました。
これは彼女が北條の家を自分の居場所だと感じていたからであり、それを守ろうとしたが故の行動です。
彼女はもう自分の居場所を見つけていたんですよ。
周作さんにとってすずさんは「世界の中心」ではなかったのかもしれません。
彼の「世界の中心」にいたのは他でもないリンさんだったのかもしれません。
それでも自分を「この世界の片隅で」見つけてくれ、居場所をくれた周作さんへの愛と感謝をこめて、彼女は「ありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて。」と伝えるのです。
激しい空襲や原爆の投下もあり呉や広島は焼け野原となってしまいました。
リンさんは行方知れずとなっていましたが、遊郭の惨状からして命を落としてしまったのではないでしょうか。
周作さんに居場所を与えてもらったすずさんは戦争孤児を自分たちの家に招き入れます。
戦争孤児の女の子は奇しくもかつての座敷童=リンさんを想起させます。
2016年版では、このラストシーンは単純に居場所を与えられる側だったすずさんが今度は誰かに居場所を与える存在へと成長するという重要な描写でした。
そして『この世界のさらにいくつもの片隅に』では「座敷童=リンさん」のコンテクストが付与されたことでその意味合いが大きく変化します。
これはすずさんが自分の中でなかなか折り合いをつけられなかった彼女の存在を受け入れたということの表象でもあったのです。
テルとすずさんのやり取りに込められた意味
(C)2019 こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
今回の『この世界のさらにいくつもの片隅に』に追加されたシーンの1つにすずさんと遊郭のテルという女性の交流があります。
テルという女性は、すずさんにとってはある種「鏡」に映った像のような存在だったのではないかと思っています。
彼女は遊郭に勤めており、それが故に好きでもない水兵さんに尽くしたりしなければならないわけです。
そんな時に、好きかどうかも分からない1人の水兵についていって心中未遂を起こしました。
結局、死ぬことはできず、体調が悪化し遊郭へと戻って来ることとなりました。
彼女は、ゴホゴホとせき込みながら、夜までに治さないとと弱々しそうに語っています。なぜなら客の夜の相手をできない遊女は遊郭に「居場所」がないからです。
そしてそんな彼女が憧れているのが、どこかの「南の島」でした。
彼女は遊女としての仕事は嫌いではないと語っていましたが、やはりその窓の格子は檻のように映ってしまうわけで、彼女は漠然とどこか遠くの世界に憧れています。
そこに行けば、自分を無条件で受け入れてくれる「居場所」があるのではないかと、希望的観測を抱いているのです。
すずさんはそんなテルのために「南の島」の絵を描いてあげます。それはあくまでも絵でしかありませんし、所詮は「偽物」です。
それでもテルは喜んでくれました。肺炎に置かされ死の淵に立たされる中で、彼女はきっとすずさんの描いた絵の中に自分の居場所を見据えていたのでしょう。
また、すずさんはテルに自分を重ねているのだと思いますし、そういう意味では彼女は自分自身が漠然と追い求めている「居場所」をテルさんの言う「南の島」に重ねていたのかもしれません。
彼女はテルと別れた後「うちは何ひとつ、リンさんにかなわん気がするよ。」と告げています。
しかし、彼女は自分でも気がつかない間に、誰かに「居場所」を与えてあげられる人間へと成長していたんですね。
もちろん彼女がそれを自覚するのはまだ物語的にはもう少し先の話にはなりますが、このシーンはすずさんの成長を感じさせる名シーンだったと言えます。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『この世界のさらにいくつもの片隅に』についてお話してきました。
この世界の片隅に生きる市井の人々の暮らしと戦争にスポットを当てた2016年版に、「リンさん」の存在を付与したことで、その物語は大きく変化しました。
パンフレットの中の評論で藤津亮太さんが指摘していますが、本作は「IF」の物語なんですよね。
誰しもが他人を見つめながら、そこに自分の「IF」を想像しているのです。
自分はこの人に愛された今を生きているけれども、愛されなかった今を生きていたかもしれない。
自分は今生きているけれども、もしかしたらあの時死んでしまったいたかもしれない。
そういう数多くの「IF」に囲まれて、私たちは「今」を確かに生きています。
しかし、「今」ここに自分がいることには意味があり、必要としてくれる人がいて、死んだら悲しんでくれる人がいるはずです。
「この世界に居場所は、そうそうなくなりゃせんのよ。」
それでも数ある「IF」から自分自身で選び取った「イマ」を大切にして生きて欲しいというこうの史代さんと片渕監督の切なる願いが込められた作品になっていたと思います。
ただただ素晴らしい、見ていて涙が止まらなくなるような圧倒的な映画体験でした。
ぜひ多くの人にご覧になっていただきたい作品です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。