【ネタバレあり】『ベルベットバズソー』解説・考察:ラストシーンが示す真の芸術の在り方

映画『ベルベットバズソー』より引用

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですねNetflixにて公開中の映画『ベルベットバズソー』についてお話していこうと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

『ベルベットバズソー 血塗られたギャラリー』

あらすじ

著名なアート批評家として知られるモーフ・ヴェンデヴァルト

利益至上主義の冷酷な画商であるドラ・ヘイズ

画商として有名なろうと野心を燃やすジョセフィーナ

ジョセフィーナはある日自分の住んでいるアパートにて1人の老人が変死を遂げている現場を目撃する。

何かに惹かれるようにして、その老人の住んでいた部屋へと足を踏み入れた彼女は、そこでとんでもない芸術作品を発見してしまう。

それはディーズという男によって描かれた絵画の数々であり、とんでもない傑作の数々出会った。

ジョセフィーナモーフと結託し、それを自らがのし上がるために利用しようとするが、ロドラに目をつけられてしまう。

3人はディーズの絵画を販売し始める。

すると世間は一気に謎の夭折画家の描いた世界の虜になり、高値で取引されるようになる。

しかし、時期を同じくしてディーズの絵画に関わった者が変死を遂げていく・・・。

スタッフ・キャスト

監督・脚本:ダン・ギルロイ
ナガ
いやはや彼の新作をNetflixで見れてしまうなんて・・・。

やはり彼の作品の中でもひときわ注目を集めたのが『ナイトクローラー』でしょう。

アメリカのジャーナリズムの腐敗と過激な映像に先導される大衆の様子をアイロニックに描き出した傑作で、ダン・ギルロイはアカデミー賞脚本賞にノミネートする快挙を見せました。

その後取り掛かったのが、『ローマンという名の男』という映画でしたが、これは北米で酷評され、日本では劇場公開すらされないという憂き目にあいました。

ここでもまた「くすんだアメリカ像」を痛烈に描き出し、そこに弁護士の主人公が経験する善と悪の問いを絡めてきました。

この経験により、批評家と芸術の関係性に何かを見出したのかどうかは分かりませんが、その次回作として製作されたのが今作『ベルベットバズソー』になります。

ダン・ギルロイはこの映画を製作するに当たって自分が経験したとある出来事に着想を得ていると言います。

ナガ
それが『スーパーマン』ってこと?

そうなんですよ。

映画ファンの間では有名な話なんですが、90年代にティムバートン監督、ニコラスケイジ主演で『スーパーマン』のリブートが計画されていました。

この作品は、1年以上にもわたって製作に向けて、企画が動いていたにも関わらず、最終的に配給であるワーナーが出資を見送ったために頓挫してしまいました。

実はダン・ギルロイはこの時、スタッフの1人としてこの企画に参加していたようです。

その時に見た、ハリウッド映画商業主義の闇は今でも脳裏に焼き付いており、今回はそんな芸術における商業主義の闇をアイロニックに自身の映画に刻み込みました。

ナガ
続いてキャストを紹介するよ!
  • モーフ・ヴェンデヴァルト:ジェイク・ギレンホール
  • ロドラ・ヘイズ:レネ・ルッソ
ナガ
いやはや狂気的な役を演じさせたらジェイクの右に出るものはいませんよね・・・。

本作の主演を務めるジェイクギレンホールは、『ナイトクローラー』でもダン・ギルロイ監督とタッグを組みました。

地位と名声そして金に目が眩み、どんどんとアメリカのジャーナリズムの闇に飲まれていく男を圧倒的な狂気で演じ切ったことも高く評価されています。

そしてこれまた『ナイトクローラー』に出演しており、利益至上主義のテレビプロデューサーの女性を演じたレネ・ルッソが本作に出演しています。

ナガ
まさに『ベルベットバズソー』の2人は『ナイトクローラー』コンビそのままなんだね!

2人が演じている役や関係性までもが心なしか似ているという有り様です。

とりあえず『ベルベットバズソー』という作品が気に入った方は『ナイトクローラー』をチェックすると良いと思いますよ。

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『ベルベットバズソー 血塗られたギャラリー』解説・考察

芸術と商業主義

本作『ベルベットバズソー』がアートと商業主義、そしてアート批評の関係性に言及した作品であることはダン・ギルロイが着想を得たスーパーマンの件を鑑みても、明らかです。

モダンアーティストの中で商業主義に対して抵抗を続ける代表的な人物の1人が有名なストリートアーティストであるバンクシーでしょう。

2018年にイギリスのロンドンでオークションに出品された彼の作品には、1億7千万円で落札されながらも、落札された瞬間に額縁に仕込まれていたシュレッダーで作品が自壊するという演出が用意されていました。

Banksy Posts Video Saying Artwork’s Incomplete Shredding at London Auction Was a Malfunctionより引用)

ナガ
これはまさしく商業主義への痛烈な皮肉だね!!

ただ彼の作品が描かれた壁を切り取って、所有権を主張し、金儲けをしようとする人も中に入るわけで、そういったアートと商業主義の関係性を彼は常に浮き彫りにしてきました。

そんな商業主義や批評が、本来の芸術作品の価値を変質させているという構造はアートの世界に留まらず、映画の世界にも言えることです。

今やハリウッド映画界において、大切なのは素晴らしい作品を生み出すことよりも、如何にしてその作品で利益を生み出すかというビジネス的な部分になっているように感じられます。

それが如実に表れたのが、ハリウッドが近年継続的に続けている続編、リメイク、リブート、スピンオフ戦術でしょうか。

新しいコンテンツをゼロベースで作り上げるよりも、既に商業的に成功した前例のある映画に絡めた新作を製作する方が圧倒的にリスクは下がります。

今のハリウッド映画を見ていて嫌でも感じさせられる閉塞感と停滞感の正体はまさしく商業主義の弊害でしょう。

この手の商業主義の話をしていると、日本の映画で塚本監督が『野火』のリメイクに着手した時の話を思い出します。

この映画は企画が立ち上がりながらも、配給による出資の目途が立たず、結局塚本監督は自費でこの映画を作り上げました。

ナガ
「売れないものに金は出さない」は芸術の世界でも当たり前になってきているってことか・・・。

加えて批評家という存在は厄介です。

映画の批評家レビューサイトだとRotten Tomatoesという作品はグローバルな指標として用いられますが、ここでの一部に批評家によってつけられた「評価」がまるで世間の共通認識であるかのように独り歩きしてしまいます。

そのために一部の人間の価値観や見方によって本来の作品の意図や批評性が捻じ曲げられ、歪曲した解釈を為され、芸術的価値を貶められることは今や日常茶飯事とも言えます。

そんな商業主義、批評、芸術が密接に結び付き、切っても切り離せないほどに強く繋がってしまった今だからこそ『ベルベットバズソー』という作品は描く価値があるといえます。

モーフの批評とその顛末

ジェイクギレンホール演じるモーフは、辛口批評家として認知されており、彼が高く評価したものが売れるというほどに名声を獲得しています。

冒頭で彼はクラウディオというアーティストが製作したロボットを痛烈に批判しています。

映画『ベルベットバズソー』より引用

ナガ
これが落ちぶれたスーパーマンに見えるのは自分だけでしょうか?

ダン・ギルロイ監督が本作は自身の『スーパーマン』リブート版頓挫の経験に着想を得ていると話していたことから考えても、これがスーパーマンに見えるのは偶然ではないでしょう。

モーフは当初は、自分の信念に基づいて批評していたわけですが、ジョセフィーナとの恋人関係の延長線上で、彼女のビジネスになるように批評したり、自分の好みを見失ったりと迷走していきます。

そんな彼がクジラの合唱(ミスティート)を体感できるアートを体験した際に、これまで自分が成してきた数々の「酷評」が自分に向かって反響してきます。

ナガ
人を呪わば穴二つってか・・・?

そうして自らが貶めてきた芸術作品たちから向けられる自分への「復讐」に怯え、終盤にはクラウディオのスーパーマン風のロボットによって殺害されます。

彼は自分1人の意見で大衆を先導し、芸術作品の価値を恣意的に上下させてきました。

そしてその際に当然芸術的価値を貶められた「犠牲」がつきまとってきたわけです。

もっと言うなれば、このロボットによる「アベンジ」はダン・ギルロイ監督の個人的な「復讐」でもあったのかもしれません。

批評家によって酷評され、「駄作」のレッテルを貼られた前作『ローマンという名の男』もそうですし、この映画の制作のきっかけとなった過去の『スーパーマン』の件もそうでしょう。

商業主義や批評によって陥れられてきた自分の作品たちに、せめてもの「救済」として映画の中で復讐を遂げさせようとしたのかもしれませんね。

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ロドラの商業主義とその顛末

ロドラという人物にとって大切なのは、アートが有する芸術的価値ではなく、アートにつけられる商業的価値でしかありません。

そんな彼女は夭折のアーティストであるディーズが残した作品に魅了され、大金を稼ごうと計画を立てます。

しかし、ディーズの絵画というのは、ジョセフィーナが勝手に彼の部屋から持ち出したものであり、アパートの管理人によると彼は自身の絵を焼却処分されることを望んでいたそうです。

つまりディーズという作家の姿はある意味で現代のバンクシーにも重なるんですよ。

商業主義を良しとせず、痛烈に批判していくスタイルでありながら、時に自分の作品を商業主義に目が眩んだ人間によって利用されてしまうのです。

そうして作者の意向とは相反する目的のために芸術作品を持ち出し、自分の利益のためにそれを利用しようとしたことで、不可解な事件が起こり始めます。

その顛末として彼女は自らの肩に刻み込んだタトゥーによって殺されてしまいます。

ナガ
一体これってどんな意味があったんだろう?

作品のタイトルにもなっており、ロドラの方に刻み込まれてもいる「ベルベットバズソー」という文字は、彼女が若い頃に所属していたパンクロックバンドの名前です。

これが非常に作品の中で象徴的であることは言うまでもありません。

彼は誰に殺されたのか?答えはディーズなのでしょうか?

いいえ違います。

彼女はまだ1人の「芸術家」だった頃のかつての自分に殺されたんですよ。

芸術作品の価値を商業主義によって歪曲し、自らの利益を上げるために利用するという芸術家への背信行為を続けた結果、かつて純粋に1人のアーティストとして生きていた自分を彼女は裏切ったんです。

モーフという批評家が自らの批評に殺されたように、ロドラもまた自分自身によって殺されてしまったんです。

ディーズの絵画に込められた芸術作品の在り方

映画『ベルベットバズソー』より引用

映画『ベルベットバズソー』において最も重要なモチーフはもちろんディーズの絵画ということになります。

ディーズの絵画について分かっていることを書いていきましょう。

  • 自身の幼少期の家族が題材のものが多い
  • その家族が火の中で死んでいったに対する怒りや叫びが描かれている
  • 父親から受けていた虐待により生まれた暴力性が閉じ込められている
  • 自分の遺品(つまり身体の一部)が画材として用いられている
ナガ
一体彼にとって芸術って何だったんだろう・・・?

私はディーズという男性にとって芸術というのは、自分と向き合い何とかして生きていくための手段だったんだと思います。

つまり自分が秘めている怒り、叫び、暴力性を作品にぶつけることで、彼は自分の不遇な人生に何とかして折り合いをつけようとしたのです。

ナガ
そう考えると、彼が自分の死後作品を処分してほしいと言っていた理由も理解できるね!

なせなら、彼の絵画は、あくまでも彼が自分が生きていくために必要なものであって、商業芸術とは無縁のものだからです。

ここで考えてみたいのは、本来の芸術の在り方とは何だったのか?という部分です。

今や芸術は批評され、商品として扱われることが当たり前になってきました。

ただ芸術の根源的な意義というのは、ディーズのように純粋な自己表現だったわけですよ。

それがどんどんと歪曲され、変質していった結果が今の芸術を取り巻く状況とでも言えましょうか。

ラストシーンで登場した1枚の絵画。そこには、ディーズの幼少期の美しい心象風景が閉じ込められています。

彼が生きていたのは、まさしく辛く苦しい現実世界ではなくて、自身の思い出を美しく綴った「アート」の中だったのかもしれません。

あのアートの中で彼は「静寂」を求め、その中で生きられたらどんなに幸せだろうかと思いつめ、自分の身体の一部を画材に使用したのだと私は感じました。

そんなディーズの望んだ「静寂」を、美しい風景を、もがき苦しんだ人生の爪痕を蔑ろにしたことこそが本作で起きた超自然的な現象に繋がっています。

エンドロールのピアースの作品の意味

映画『ベルベットバズソー』より引用

エンドロールが始まると、ピアースが海岸で砂浜に作品を描いているシーンが映し出されます。

ピアースロドラ「売れない芸術家」「商業的価値の低い芸術家」と見なされ、田舎でリフレッシュするように告げられていた人物です。

そんな彼がラストシーンでは生き生きと創作活動に励んでいる様子が伺えます。

エンドロールの映像における彼のアートは、とりわけロバート・スミッソンに代表されるようなランドアートのジャンルに属するものですよね。

彼らがアースワークに着手し始めた60年代後半といえば、パリの5月革命に象徴されるように世界的に反体制運動が盛り上がり、既成の価値観に異議申立てがおこなわれた時期。彼らも、美術館のなかに閉じ込められ装飾品と化した美術のあり方に疑問を抱き、商業主義的な画廊システムを拒絶し、のちのエコロジー運動にもつながる「自然に還れ」の掛け声のもと、大自然へと飛び出していった。その意味で彼らも反制度的であり、反都会主義であった。

村田 真「美術の基礎問題 連載第17回」より引用

だからこそピアースは波によって自分の作品の形が変えられていくことを苦としていません。

自然に任せるがままに自分の作品を創作しているわけです。

現代の過剰に商業主義に傾倒した芸術・アートの在り方に対して、疑念を突き詰めるという意味ではそういった思想を背景に持つランドアートを採用したという点にも合点がいきます。

もっと言うなれば、芸術的作品の価値を人間だけが判断し、そこに「商業的価値」を付加していくことの傲慢さが浮き彫りになっているようにすら感じられました。

芸術作品の価値なんてものははっきり言って1つの統一基準で推し量れるものではありませんし、見る人の視点によっても多様に変化し、その価値を変動させるものです。

それを商業主義に照らし合わせると「売れる」「売れない」の単純な価値基準によって芸術作品が分類されてしまいます。

そんな現代における根源的な意義を見失いつつあるアートに、1人の映画という芸術に携わる者としてダン・ギルロイ監督は「自然に帰れ」というメッセージを突きつけたのやもしれません。

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おわりに

いかがだったでしょうか?

今回は映画『ベルベットバズソー』についてお話してきました。

やっぱりNetflixの良いところって気になったシーンを何回も見られるところですよね。

当ブログ管理人はこういった解説考察系の記事をメインにしているということもあり、新作であっても何回も同じシーンを見返せるNetflixはありがたいです。

皆さんもぜひぜひ気になったシーンがあれば、繰り返しご覧になってみてください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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・Netflix映画『バードボックス』

2件のコメント

ナイトクローラーが大好きだったので、この映画も楽しみに見たものの・・・・
解説のおかげでいろいろ納得がいきました。
ありがとうございます。またほかの映画の解説も読みに来ます。
映画は大好きだけど、頭の悪い時分にはほんとにありがたかったです。

斬高原さんコメントありがとうございます!

ナイトクローラーと比べるとパンチに欠けた印象はありますよね!
お力になれたようで幸いです(^^)

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