【感想・考察】『或る終焉』:終末期医療と普遍的終焉についての思索

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『或る終焉』についてお話していきます。

「或る終焉」という作品は日本で公開されたのは少し前になりますが、私はスケジュールが合わず、結局見れずじまいになっていました。最近になってようやく劇場で見ることができました。

私はこの映画を鑑賞できたことを非常に嬉しく思います。というのも鑑賞直後、私はあまりの衝撃に劇場の照明が明るくなったにもかかわらず、席から動く事ができませんでした。そして久々にとんでもない映画を観たぞという満足感が湧き上がって来ました

概要

この作品の監督はメキシコの新鋭ミシェル・フランコです。この監督は今回の作品を自身の経験に基づいて作り上げたそうです。彼の祖母に際して、一人の看護師がとても印象的だったことから着想を得ています。

その女性看護師は監督の家族よりも祖母に接する機会が多く、コミュニケーションをとるようになっていた。 そして生前の祖母の姿を最後に見たのも他ならぬこの女性看護師だったといいます。彼女は祖母の死後、別の患者の世話を始めたが、それでもたびたび彼の家を訪れました。

彼女は全くの他人である祖母のために大きな悲しみを感じていたのです。この仕事は感情の処理が難しく、うつ病になる人も少なくないそうです。そんな人生に喪失と死を内包した彼女に監督は興味を持ち今回の作品を製作したということです。

彼の前作『父の秘密』という作品も非常に印象的で、素晴らしい作品ですので是非チェックしてほしいですね。

私はまだ人の死や喪失というものを経験したことはありません。しかしなぜこの映画にこんなに心惹かれるのだろうかと考えてみました。

終末期医療

まず終末期医療というのは確かに面白い題材なのです。アカデミー賞で作品賞を受賞した「ミリオンダラー・ベイビー」とうイーストウッド監督作品は有名でしょう。この作品ではイーストウッド演じるコーチが、植物状態になった弟子の生命維持装置を止めます。まさに尊厳のための死である。確かにこの作品は感動的ではありました。

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しかし、尊厳死、安楽死が美化されるということには個人的には否定的です。というのも患者が「死にたい」と口にするのは単純に自分がもう生きることに絶望してしまったという理由からなのでしょうか?私はそうではないと思いたいのです。

この作品でも末期がんの女性マーサは自分の娘家族に迷惑をかけまいとしている姿が描かれます。つまり終末期の患者に「死にたい」などと口にさせるのは、患者がおかれた環境のためなのではないかと考えてしまうのです。

確かに患者をサポートしていくことは難しいことです。しかし、まだいきている人間に「死にたい」などと思わせることは決してあってはならないと私は考えています。「死にたい」というのはもしかしたら「生きたい」という心の叫びなのかもしれないのです。

終末期の患者が残された時間をどうすれば、どのようなサポートがあれば有意義にかつ幸福に過ごすことができるのか?ということを考えることが尊厳死や安楽死の是非を議論する前になされなければならないと思います。

この作品では、自身の喪失の経験から安楽死という決断を再び選択してしまうティム・ロス演じるデヴィッドの姿が描かれます。確かに彼の行為は誰にも罰することはできないのかもしれないし、正しい行いなのかもしれません。

しかし、果たして彼に人の生き死にを左右する権限があるのでしょうか。最後の展開はそんな彼に対する天罰なのかもしれません。


普遍的な死について

そしてもうひとつ心惹かれたのが、この作品が普遍的な死について扱った点です。

死というものは万人に平等に訪れるものです。そしてそれがいつどんな形で訪れるかは誰にもわかりません。穏やかに死ぬこともあれば、病気で苦しみながら死ぬかもしれない、誰かに命を奪われるかもしれない。死は我々の前に突然姿を現すのです。

この作品では看護師のデヴィッドの周りに様々な死が描かれています。それはまさに「或る終焉」の連続でし。そして主人公に訪れるのも突然の「或る終焉」なのです。

秀逸なカメラワーク

この作品はカンヌ脚本賞というだけあって脚本は文句のつけようがないほどに素晴らしいです。しかしそれだけではありません。

特にその独特のカメラワークは印象的でした。光と影、有と無を対比的に定点カメラで撮ったような一つの場面に収めることで画面の中の一部が強調されています。

そのため、ある時は光に照らされながらベットにたたずむデヴィッドの影を強調し、彼の深い闇と悲しみを描き出します。

またある時は、デヴィッドが席を立ち誰もいなくなったソファの空間と依然座ったままの患者マーサという有と無の対比が、マーサの喪失感と孤独を強調しています。

このように固定カメラ視点で撮る画面の中に正反対のものを両立させることで何かを強調するという手法が随所に見られ、淡々と進むプロットに飽きさせることがありませんでした。

無音のエンドロール

最後に評価したいのはエンドロールが無音ということです。

この作品は基本的に劇伴音楽がありませんでしたが、エンドロールに音楽を入れなかったことは非常に効果的でした。

私は映画には鑑賞する側が考える余地を残す、つまり「余白」を残すことが重要であると考えています。この作品はその余白をエンドロールに置いたわけです。

衝撃のラストから間髪入れずに無音のエンドロールへと突入する。誰もがそのラストの意味、映画全体の意味に思いを巡らせることになります。この「死」の静寂ともとれる無音の4分間がこの映画をまた一段レベルの高いものにしていることは明白です。

おわりに

メキシコ出身の監督はイニャリトゥ監督を筆頭に近年頭角を現しています。一方で同じくメキシコ出身の新鋭ミシェル・フランコ。彼の作品にも今後注目していきたいところですね。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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