窓というモチーフは数多くの絵画、戯曲、小説あるいは映画の題材となってきたが、未だに多くの人を惹きつけて止まない。
本作は会話劇を主体として構築された作品であるわけだが、その舞台装置として窓のある空間が多く採用されている。そしてタイトルは『窓辺にて』だ。
こうなると、本作において一体「窓」あるいは「窓辺」というのは、何を意味していたのだろうかと当然考えてみたくなる。
そもそも監督の今泉力哉さんは「窓」に対してどんな意味を持たせていたのだろうか。
本作のパンフレットにはこう記載されている。
我々がどんな選択をしても、窓辺の光はいつも同じくそこにあって、照らしたり温めてくれたりする。静かに肯定してくれる。そういうイメージで捉えています。ただ、そこも見る人によって、それぞれの意味で捉えていただければいいなと思います。
(『窓辺にて』パンフレットより)
今泉監督は、一見するとネガティブに思われる物事や感情を包み込み、肯定してくれるような作品を多く手掛けてきた。
「片想い映画の旗手」なんて言われることもあるが、『mellow』などを見ていると、届かない思いを伝えることとしての片想いに温かいエールを贈っている。
だからこそ、パンフレットに綴られている監督なりの「窓」ないし「窓辺」の捉え方は何とも彼らしいと感じた。
一方で、監督は「それぞれの意味で捉えていただければいいな」と私たちに解釈や想像の余地を残してくれている。
そうなのであれば、私としても今作の「窓」や「窓辺」が何を意味していたのかについて、監督の解釈や意図とは別に考えてみたいものである。
今回の記事では、タイトルにも含まれている本作の象徴的モチーフである「窓」や「窓辺」に着目しながら、本作が描こうとしたものを自分なりに考えてみたい。
『窓辺にて』解説・考察(ネタバレあり)
窓が隔てる2つの世界
©2022「窓辺にて」製作委員会
窓とは、端的に言えば内的世界と外的世界をつなぐ役割を果たすものである。
そのため、自分がその内側にいるのか、外側にいるのかで窓が意味するものは大きく変化するように思う。
とは言え、今作では「窓辺」という言葉がタイトルに含まれている。これが意味するところは「部屋の中から見たときの窓のそばのこと」だ。
そう考えると、本作においては、登場人物が窓を介して、内的世界から外的世界を伺っているというベクトルにフォーカスするので問題ないだろう。
さて、みなさんが窓に対してどんなイメージを持っているかは分からないが、私は窓を隔てた内側の世界を「世界一安全な場所」というイメージで捉えている。
例えば、春の陽気な昼下がりを想像してみて欲しい。
窓からは日が差しこんでいて、窓辺はほんのりと温かい。外に出れば、気持ちがいいだろうなと思うが、あいにく花粉が飛散する季節であり、花粉症のあなたは一たび外に出れば、目の痒みや鼻炎に襲われることだろう。
こんなシチュエーションであなたは春の陽光とそれがもたらす温もりだけを何のデメリットもなしに享受できる窓辺というポジションを手放せるだろうか。いやできない。
窓辺というのは、不安定で何が起こるかわからない外的世界と隔てられた空間でありながら、光や温もりといった外的世界の断片的な恩恵を享受できる稀有な場所と言える。
こうした例え話だと説得力に欠ける可能性があるので、有名な戯曲の一幕を引用してみよう。
ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』の有名なバルコニーのシーンでは、そのセリフの中に明確に「窓」という言葉が登場する。
下記に引用するのは、バルコニーの下の茂みからジュリエットの部屋の窓から漏れる光を見つめるロミオのセリフの一部だ。
But soft, what light through yonder window breaks?
It is the East, and Iuliet is the Sunne,
Arise faire Sun and kill the enuious Moone,待て、何だあの窓からこぼれる光は?
向こうは東、ジュリエットは太陽か、
太陽よ昇れ、妬み深い月を消してくれ、(『ロミオとジュリエット』2幕2場より引用)
この一幕では、ロミオという窓の外的世界にいる存在からのまなざしが描写されている。
では、この場面をジュリエット、つまり窓の内的世界にいる人間の視点から見れば、どうなるだろうか。
ジュリエットは窓の内的世界に留まっていれば、モンタギュー家とキャピュレット家の確執に巻き込まれなくて済むわけで、安全な生活が保証されている。そして、窓辺にいれば触れることはできずとも、愛するロミオの姿を見ることはできる。
しかし、窓を飛び出して、ロミオに触れようとしたならばどうなるであろうか。それはこの物語の行く末を知るものであれば、ご存じのところである。
窓を隔てた内的世界にいるということは、「世界一安全な場所」に留まるということであり、何も失ったり、手放したりすることなく、断片的に外的世界の恩恵も受けられるということだと言える。
一方で、窓を隔てた外的世界に飛び出すということは、窓の外にある何かを手に入れる代わりに、これまで持っていたものを失ったり、手放したりしなければならないということだ。
ここで、『窓辺にて』のもう一つの重要なテーマである「手放す」が「窓辺」という空間とリンクを見せる。
そして、今作の登場人物の多くは窓を介した内的空間、あるいは窓辺に留まる存在として描かれていた。
窓辺に留まること、手放せないこと
本作にはたくさんの個性的な登場人物がいるわけだが、今回はその中の数人にスポットを当てながら解説を深めていきたい。
若葉竜也さんが演じた有坂正嗣は、プロのスポーツ選手だ。若葉さん自身が演じている途中は「いい奴」だったのに、完成版を見ると「クズ」だったと語るこの人物は、妻と娘をいちばんに愛しているにも関わらず、モデルの女性と不倫関係にある。
©2022「窓辺にて」製作委員会
彼は今作の中でも特に典型的な「窓辺族」だ。
正嗣は、妻と娘という家族を大切にしており、彼らのいる内的空間を手放すことはないだろう。しかし、それらを手放さずして、穂志もえかさんが演じる藤沢なつという女性との不倫関係も維持しようとしている。
正嗣となつの登場するシーンは、基本的にラブホテルの一室であるわけだが、それ故にか窓が描かれない。正確に言えば、窓がカーテンに覆い隠されていた。
もしかすると、あのカーテンの向こう側には、正嗣の内的空間、つまり妻と娘のいる空間があったのかもしれないなんて思う。
ラブホテルの一室は、なつにとっての内的世界であり、正嗣を愛している彼女からすれば、その空間に彼を永遠に留めておきたいと考えるのも無理はない。
しかし、正嗣がそこに留まることはない。なぜならラブホテルの一室はどこまでいっても彼にとっては家族のいる自宅から見た外的世界の域を出ないからである。
だからこそ、彼は家族を手放すなんてことは微塵も考えない一方で、外的世界にいるなつの女性性や若さといった都合の良い部分だけを搾取する。確かに「クズ」だ(笑)
それでも、なつは自分のいるラブホテルの一室が正嗣にとっての内的世界には決してならないことを知っている。だからこそ、彼の妻に嫉妬する。
このままではいけないと分かっている彼女は「ラブホテルはなし。MAXで焼肉。」という提案を彼にするわけだが、その約束は果たされることはない。
なつもまた、自分の内的世界を、唯一彼を感じられるラブホテルの一室という空間を手放すことができないのだ。
中村ゆりさんが演じる市川紗衣と、佐々木詩音さん演じる彼女の不倫相手である荒川円の関係にも似たようなところがある。
紗衣は夫である茂巳(稲垣吾郎さん)のことを愛しているし、その関係を終わらせることは全くもって望んでいない。しかし、それでいて自身の担当作家である荒川円との不倫関係を解消しようとはしないのだ。
状況としては、正嗣に似ているのだが、決定的に異なるポイントがある。
それは、紗衣と荒川円のいるホテルの一室は少しだけカーテンが開いており、そこから窓が顔を覗かせている点だ。
©2022「窓辺にて」製作委員会
荒川円は、彼女との関係性について「罪悪感しかない」と語っている。それは当然のように茂巳の存在があるからだ。
先ほどと同様にカーテンの向こう側の窓が茂巳と紗衣のいる内的世界につながっているのだとすると、円にとって少しだけ垣間見える窓の存在は、茂巳の存在に重なると言える。
一方で、紗衣は不倫関係がバレてはいけないものだと思いながらも、どこかでそれが夫に露呈することを望んでいるようにも見えた。嫉妬して欲しい、自らに対する愛情を示してほしい。
そう考えると、少しだけ覗く窓とそこから差しこむ光は、彼女の望む茂巳のまなざしに重なるのかもしれない。
何はともあれ、紗衣は茂巳との生活を手放せないし、荒川円は彼女と彼女と過ごすホテルの一室での時間を手放せない。彼らもやはり「窓辺族」から抜け出せないのだ。
このように『窓辺にて』では、何かを手放せない人たち、窓辺から動けずそこに留まり続ける人たちにスポットが当てられている。
そして物語を通じて、そんな「窓辺族」たちの選択を映し出していく。
窓を隔てた外的世界を手放して内的世界を選ぶ人間もいれば、内的世界を手放して外的世界へと飛び出していく人間もいる。さまざまな人間模様が描かれていた。
言うまでもなく、その中心にいるのは、本作の主人公である稲垣吾郎さん演じる市川茂巳だ。
「窓」のオルタナティブとしての小説
市川茂巳という人物もやはりここまでに紹介してきた人物と同様に「窓辺族」である。
彼は紗衣の不倫に対してショックを受けなかった自分にショックを受けている。そして、自分の中にあったはずの彼女に対する愛情がおおよそ失われてしまったことを自覚している。
それでも、紗衣の存在を手放すことができない。
いや、手放さないというよりは、積極的に手放そうとしない、あるいは手放すことに消極的であると表現した方が正確だろうか。
茂巳の心情を言語化するのは、非常に難しいが、それを紐解くヒントとして今作のもう一つの中心的モチーフでもある「小説」が存在する。
物語の終盤に紗衣と離婚をしたあとの茂巳と荒川円が喫茶店で会話をするシーンがある。
ここで、荒川円は茂巳が紗衣のことを小説に書かなかった理由を「彼女を過去にしたくなかったからではないか」と分析していた。
しかし、私は少し異なる解釈をしている。
小説を書くという行為は、自分の内的世界を他者に曝け出すことである。
つまり、自分のいる窓を覆い隠したカーテンを開いて、その内側にある自分の世界を他者に開示することなのである。
そして、もう1つ小説を書くという行為に関連したキーワードとして「作者の死」を挙げておきたい。
ロラン・バルトは論文「作者の死」(1967)のなかで、作者、すなわち近代に誕生した「人格」「経歴」「趣味」「情熱」などによって作品を創造する主体が死を迎える=非人格化されることでエクリチュールが始まるとした。
(「美術手帖」より引用)
「作者の死」というのは、つまり作品を書いた瞬間に、作者はその作品の当事者ではなく、外部者の位置づけになってしまうということを言っている。
この2つのコンテクストを踏まえて、改めて小説を書くという行為が何を意味するのかを考えると、それは自分を「自分の内的世界の外部者」にしてしまう行為なのではないだろうか。
茂巳が紗衣のことを一たび書いてしまえば、彼と彼女は小説の向こう側の存在となり、自分はその外部者になってしまう。そこに綴った時間も自分からは切り離されてしまう。
つまり、小説というのは、本作において窓のオルタナティブなのである。
小説を書くということは、紗衣を愛した時間を外部化してしまうことであり、そうなれば自分がもう彼女を愛していないという事実と否が応でも直面しなければならない。
茂巳が小説を書くことをしなくなったのは、その事実と直面することを恐れたからではないだろうか。
そう考えると、彼は小説を書かないという選択によって、小説という「窓」を隔てたこちら側(内的世界)に留まり続けたということになる。
そんな茂巳が前に進むための、「窓」の向こう側(外的世界)に行くためのキーパーソンだったのが、他でもない玉城ティナさん演じる久保留亜だ。
©2022「窓辺にて」製作委員会
茂巳は、久保留亜のことを「創作が必要な人物。彼女は一生書き続けるだろう。」と評している。
彼女は自分のこと、あるいは自分の愛する彼氏のこと(正確には彼氏をモデルにした人物)を書き、それを平然と小説として開示する。
しかし、小説を書くという行為によって、彼女の優二に対する愛情が変化するなんてことはない。同じ熱量で彼のことを愛し続けているのだ。
今泉監督がパンフレットの中で次のように述べている。
「手放す」とか「あきらめる」とかを一面的にネガティブに捉えるんじゃなくて、ポジティブな行為として描けないかなと。
(『窓辺にて』パンフレットより)
久保留亜という少女はパフェを好む。それはパフェを食べた後の後悔にも似た感情を愛おしく思うからだ。また、彼女は迷う時間を「贅沢だ」と表現する。
彼女は大抵の人がネガティブに捉えてしまう行動や感情に、ポジティブな一面を見出せる人間として描かれているわけだ。
そして、彼女は小説を書くという行為が何かを手放す行為であることに自覚的でありながら、その行為を一面的にネガティブだとは捉えていない。むしろそのポジティブな面をも見ている。
だからこそ、彼女は小説を書き続けることができるのではないか。
そんな久保留亜の生き方に、物事の捉え方に茂巳は興味を持ち、彼女と関わることで、彼の中で徐々に「手放す」という行為ないし小説を書くという行為の意味づけが変わっていく。
映画では描かれないが、茂巳はまた小説を書くんじゃないだろうか。きっとそうだ。
おわりに:パフェとパーフェクト
©2022「窓辺にて」製作委員会
私たちは、何も手放さずして、さらに何かを手に入れたいと望む欲張りな生き物なのかもしれない。パフェというスイーツはそういう人間を象徴するモチーフだ。
なぜならパフェは「完璧」という言葉が語源であり、私たちが望むものを「何も手放さない」スイーツだからだ。
しかし、一見するとパーフェクトなパフェという食べ物が、後悔というネガティブな感情を私たちにもたらすこともある。
ならば、その逆も然りなのではないか。
何もかもを手放すという一見ネガティブな行為が何か自分にとってポジティブなものをもたらしてくれることだってあるのかもしれない。
ラストシーンは、喫茶店の窓辺の席で茂巳と久保留亜の元カレにあたる優二が会話をするものになっている。
茂巳に「留亜は復縁したがっているんじゃないか」という解釈を聞かされた優二は嬉しそうに、喫茶店の外へと出ていく。彼女と電話をするためだ。
ここで、茂巳はフルーツパフェを2つ注文するのだが、そのうちの1つをキャンセルする。
どちらが食べる分をキャンセルしたのだろう?というのは、多くの人の疑問になる点だろうが、私は優二が食べる分をキャンセルしたんじゃないかと思っている。
なぜなら、彼は今あるものや今いる場所を何のためらいもなく手放し、「窓」の向こうにあるものに手を伸ばせる人間だからだ。彼にパフェは必要ない。
「窓辺」から動き出せない私たちにとって、優二のような人間の姿は眩しくて、少しだけ羨ましくもある。
そう思いながらも、私たちはきっとなかなか彼のようには動き出せないのだと思うし、陽光差しこむ窓辺に居心地の良さを感じてしまうのだろう。
でも、きっとそれでもいいのだと思う。
『窓辺にて』という作品はそんな時間を「贅沢だ」と優しく包み込んで肯定してくれた。
ならば、今は胸焼けがするくらいまで、「窓辺」を堪能してやろう。