【ネタバレ考察】映画『レオン』は人間性神話が崩壊した今も名作と呼べるのか?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『レオン』について考察していきたいと考えています。

映画ファンなら誰でも名前くらいは聞いたことがあるレベルに知名度の高い作品で、解釈も多種多様に出回っているということで、今回は作品の解釈という部分とは少し距離を置いた切り口でお話してみようと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

あらすじ・概要

「グラン・ブルー」のリュック・ベッソン監督のハリウッドデビュー作。舞台はニューヨーク。家族を殺され、隣室に住む殺し屋レオンのもとに転がり込んだ12才の少女マチルダは、家族を殺した相手への復讐を決心する。

少女マチルダを演じるのは、オーディションで選ばれ、本作が映画初出演となったナタリー・ポートマン。また、寡黙な凄腕の殺し屋レオンをベッソン作品おなじみのジャン・レノが演じている。

映画comより引用)

映画と時代性

映画はその時代の傾向や思想、社会を映し出す鏡とも言うことができます。

例えば、ナチスドイツ政権下で作られたレニ・リーフェンシュタール監督の『意志の勝利』という作品は、映画技巧的にも高く評価されている作品ですが、当時のナチス政権のプロパガンダ的役割の一端を担ったことが指摘されました。

これは、当時のドイツの社会情勢、政治情勢が生んだ映画であるということもできますし、そういった諸背景から切り離して語ることは難しいかもしれません。

他の例を挙げてみましょう。『クレイマークレイマー』という映画が1979年にアメリカで公開されると、高い評価を獲得し、何とその年のアカデミー賞で作品賞や監督賞を受賞しました。

この作品は、アメリカの離婚裁判を題材にした作品ですが、公開された1979年という時期は、アメリカで最も離婚率が高くなっていた時期に重なるのです。つまり『クレイマークレイマー』という作品は社会の写し鏡なのです。

そういう意味では、近年の映画におけるポリティカルコレクトネスの傾向もそうですよね。その流れが社会に浸透しつつあるからこそ、それを映す鏡である映画にもポリコレの流れが及んでいるわけです。

しかし映画界には、時代を超えて愛される、人々に影響を与え続ける作品というものがたくさんあります。その映画が世に送り出された当時とは、全く異なる社会、思想、政治、科学が支配する時代においても色褪せない輝きを放ち続ける作品があります。

1994年に公開されたリュックベッソン監督の『レオン』という作品もまた、時代を超えて愛され続ける映画の1つです。私の親世代の人にも「名作」だと言わせしめるこの映画は、近年映画ファンになった若い世代の人たちにも訴えかける何かを有し続けています。

公開された当時の社会とは、隔絶された世代の人間が見ても、この映画に感じるその魅力とは一体何なのだろうかという点を今回は考えてみたいと思います。

映画『レオン』と人間性神話の崩壊

映画『レオン』において最も重要なのは、愛や心を持たないレオンとマチルダがその関わりを通して、繋がりを深めそれらを手に入れていくプロセスであると私は考えています。

特にレオンという主人公にスポットを当てると、より印象的です。機械のようにただ人を殺す装置としてのみ生きていた彼は、マチルダとの出会いにより愛と心を獲得し、徐々に「人間」へと変化していきます。

しかし、そう考えた時に気づいてしまうのが、この『レオン』という作品が愛や心というものを「人間らしさ」と捉えてしまっていることです。これは1994年の公開当時の社会であれば、何の疑問も浮上しえなかった考え方です。

人間の愛や心というものは、ある種の不可侵領域として定義され、明確に説明することはできないものとして放置され、これまで「人間らしさ」の中心的事物として君臨してきました。

ただAI(人工知能)がどんどんと発達し、社会へと進出しつつある今の社会で、もはや愛や心というものは不可侵の領域でも「人間らしさ」を体現する事物でも無くなり始めていることは明確なんです。

近年「ディープラーニング」という言葉がたびたび取り沙汰されます。これは人間が自然に行うタスクをコンピュータに学習させる機械学習の手法の1つと言われています。これにより人工知能は自ら思考し、その能力を向上させていくことが可能となりました。つまり、「われ思う故にわれあり」という言葉もあるが、「考える」ことが人間性を保証する担保であった時代はこれにて終わりを告げたということとなります。

そしてその先には、必ず人工知能と心や愛の問題が立ちはだかっていますし、既に人間の意識や心を関数で表現できるのではないかというアプローチはスタートしていると聞きます。

映画の話に戻していきますと、1968年に公開された衝撃作であるスタンリーキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』は人工知能が意志を持ちうるのではないかというシチュエーションを描き世界に衝撃を与えました。

2013年に公開された『her』という作品は、人間がAI(人工知能)に恋をし、人工知能もまた人間に恋をするという主題を描きましたし、2015年公開の『エクスマキナ』もまた人工知能が意志と心を持って決断し、行動するという様を描きました。

このように『レオン』が公開された当時とは社会に通底する愛や心に対する捉え方が大きく変化しているわけです。だからこそ、『レオン』が描いた心と愛を獲得することによる「人間性」付与プロセスはアウトオブデイトになりつつあり、将来的な科学技術の発展如何によっては完全に過去の産物となり得るのです。

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それでも映画『レオン』は名作足るのか?

先ほど、映画『レオン』の根幹をなすテーマが人間性神話の崩壊の接近により、既にアウトオブデイトになりつつある点を指摘しましたが、では今なおこの作品はなぜ多くの若い世代の映画ファンを引き込み続けるのでしょうかという謎に踏み込んでいきたいと思います。

まずそもそも映画技法的に優れている、役者陣の演技が傑出しているという側面は当然あります。これはどんなに時代が変わっても色褪せるものではありません。カメラワークですと、リバースショットの使い方は映画のお手本のようですし、終盤で使われたPOV視点での表現はウィットに富んでいました。

またジャン・レノ、ゲイリーオールドマン、ナタリー・ポートマンといった俳優陣の圧巻の演技に支えられていることは言うまでもありません。彼らの珠玉の演技があったからこそ、この作品の脚本的な穴はカバーされているように思えます。

しかし映画技法的に優れた映画も、俳優陣が優れた映画ももちろんこの世に数え切れないほど存在しています。そんな中でこの『レオン』という作品が未だに愛されている(これからも愛され続けるであろう)理由があるとすれば、物語の中にあるはずなのです。

そう考えた時に21世紀がイメージ共有社会からの脱却の時代であるという落合陽一氏の指摘が私の頭に浮かびました。

活版印刷のようなメディアの誕生、誰かの考え方を伝え共有し、その人々の頭の中のイメージとして共同幻想を持つことで社会を保とうとする時代、そんなイメージ共有社会は500年ほど続いた。

(落合陽一『超AI時代の生存戦略』大和書房より引用)

つまり、活版印刷という同一の情報や思想、哲学が一気に多くの人に普及するようになる技術の誕生が人々のバラバラだった世界観を画一化へと向かわせる契機となり、人々を同一の「人間性」という価値観を抱かせるに至ったわけです。

しかし、21世紀は既にそんな共同幻想が脱構築され始めていると落合氏は指摘しています。これからの時代の在り方を彼は「全人類がバベルの塔を建てていく」と表現しました。これは、人間が共同性意識の範疇で幸福を求めていくのではなく、個々人がそれぞれに「信仰」を持ち、それぞれの幸福を作り上げていく時代が到来するであろうという意味合いです。

共同幻想が脱構築された今、個人個人が別のビジョンを持つことを求められている。今、私たちに必要なのは、信じるに足るフレームであり、各自の幸福論やビジョンを追求する、生き方を求められている。

(落合陽一『超AI時代の生存戦略』大和書房より引用)

『レオン』という作品が描いた人間らしく生きることの尊さ、そのためには心と愛が必要であるという価値観は、近代以降の共同幻想としての「人間性」神話に裏打ちされたものに他なりません。その神話がまだ健在であった、20年前には、人々はこの映画から「人間らしく」生きることの尊さや愛の重要性を共感的に感じ取っていたに違いありません。

しかし、現代を生きる我々は映画の中のレオンとマチルダという存在をもはや共同幻想の表象として見ることはないでしょう。彼らを自分とは切り離し、相対化することで『レオン』という作品は人間性神話の檻から解き放たれるのです。

そうして見えてくるのは、ただレオンとマチルダという2人の人間が選んだ人生です。彼らは自分たちが最も幸せになれる道を選んだというすごくシンプルなプロットが通底する映画なんだとふと気がつかされるのです。

先ほども述べた通りで、現代社会は個々人が自ら「信仰」するものを見出し、如何にして幸福に辿り着くのかを模索していかなければならない時代になっています。もはや共同幻想としての幸福は時代遅れの産物です。

そんな中で1994年に公開された『レオン』に登場するレオンとマチルダが自分たちの幸福のために決断する姿は、自分の幸福を求め彷徨う現代を生きる我々には眩しく見えます。

幼い頃に家族を失いそれ以来殺し屋として、人を愛することもなく生きてきたレオン。自分の家族を一瞬にして奪われ、復讐に燃えながら彼と一緒に暮らすマチルダ。寄り添い、生きていく中で見出される2人の「幸せ」。

それらはもはや我々の共同幻想としての「幸せ」から切り離され、そこに共感的になることはないでしょう。しかし、そんな世間が何と言おうと自分たちの「幸せ」のために必死に生きようとする彼らの姿に現代人が共感できるポイントが秘められています。

かつてマチルダとレオンを通じて人々が感じ取っていた「人間らしく」生きることの大切さは、そのまま「自分らしく」生きることのそれへと社会の変化の中でコンバートされているように思えるのです。

おわりに

リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフが契機となり始まった1つの映像を暗室の中で大人数で共有する映画というメディアは、スマートフォンの普及等を皮切りにどんどんと解体されつつあります。

映画館でのみ共有され得た映画はテレビへと移行し、そしてさらにはスマートフォンへと移行し、どんどんと小さな四角形の中に閉じ込められ、個別化する傾向が強まっています。

そんな時代の流れの中で、「名作」と呼ばれる映画たちは当時の社会や共同幻想から解き放たれ、当時とは違った見え方で新しいファンを獲得し続けているように思います。

この記事の冒頭でも述べた通りで、確かに映画というものはその時代の写し鏡としての側面から逃れることはできません。『レオン』ほどの名作であれ、現代を生きる我々が見ると、少しアウトオブデイトな要素を孕んでいます。

しかしこの作品は時代が変わったことで新しい視点と価値が付与され、新しい世代にも違った見方で受け入れられているのではないかと思います。

映画『レオン』は個々人がそれぞれの幸せを求めて生きる現代の我々にとってのバイブル足りうるのです。

リュックベッソン監督の最新作『ヴァレリアン』の記事も当ブログでは扱っておりますので、良かったら読みに来てください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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