【ネタバレ考察】『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』に胸が熱くなった3つの論点!

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』についてお話していこうと思います。

ナガ
これは映画『クレヨンしんちゃん』シリーズの中でも屈指の出来栄えでは…?

最近はこのシリーズを映画館で見ることは少なくなってしまいまして、最後に見たのはロボとーちゃんだったでしょうか。

そんな当ブログ管理人ですが、今回は「ラクガキ」という題材に大いに惹かれまして、劇場に足を運ぶこととなりました。

今作の監督を務めたのが『ラブライブ!』シリーズ『宝石の国』などで知られる京極尚彦さんであり、脚本に『そこのみにて光輝く』の高田亮さんがクレジットされていたのも鑑賞を決める要因の1つでした。

さて、今回は映画そのものの本編に沿ったレビューというよりは、そこからかなり派生して「教育」的な観点から熱く語らせていただこうと思います。

というのも、この『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』という作品は、今の日本の教育界の最新の動向を踏まえて作られた作品と言う印象を受けました。

また、子どもと一緒に劇場に足を運んだ親の側が考えていかなくてはならないテーマがたくさん内包されていました。

この記事では主に3つの観点から、本作の教育的観点から見た素晴らしさについて語っていきます。

作品のネタバレになるような内容を含む考察記事になりますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』考察(ネタバレあり)

さて、作品の内容に踏み込んでお話していくわけですが、最初に今回の記事における論点を挙げておきます。

  1. 「創造性」教育への懸念と大人の向き合い方
  2. 価値づけを子供に委ねることの大切さ
  3. ICTの導入はゴールではなく手段

紛いなりにも教育界の動向について自分なりに考えたり、調べたりしている人間として、この作品は本当に今まさに考えなければならないポイントがたくさん詰まっています。

その中でも特に語りたいと思ったのが、上記の3点えした。

ここからは3つの観点についてそれぞれ解説や考察を加えていきます。

 

「創造性」教育への懸念と大人の向き合い方

(C)臼井儀人/双葉社・シンエイ・テレビ朝日・ADK 2020

さて、今まさに学校現場ないし教育界で大きな変動として現前しているのが2020年度から始まる学習指導要領の改訂です。

例えば小学校の新学習指導要領の総則の一説にはこんなことが書かれています。

各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方(以下「見方・考え方」という。)が鍛えられていくことに留意し,児童が各教科等の特質に応じた見方・考え方を働かせながら,知識を相互に関連付けてより深く理解したり,情報を精査して考えを形成したり,問題を見いだして解決策を考えたり,思いや考えを基に創造したりすることに向かう過程を重視した学習の充実を図ること。

(小学校学習指導要領 総則 第1章より引用)

ここで注目したいのは、「問題を見いだして解決策を考えたり,思いや考えを基に創造したりすることに向かう過程を重視」という部分でしょうか。

つまり、与えられた問題に対して正しい答えを出せることだけが高く評価されてきたこれまでのが学校教育です。

しかし、これからはむしろ自分なりに問題を見出し、それに対して学んだ知識や技能を活用することで、創造的に問題を解決できるようになることが重要になって来ると明記されています。

そしてそうした創造性を野原しんのすけのような未就学児であったり、その先の小学生くらいのレイヤーに落とし込んで考えた時に、やはり自由な発想力であったり、自分の身近にあるもので新しい何かを作ろうとする「姿勢」を養うことは大切になって来るでしょう。

ここで、少し『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』の本編の内容を振り返ってみましょう。

まず、今作の世界においてはラクガキングダムという王国が存在しており、これは人間の世界における自由な発想から描かれるラクガキが生むエネルギーによって支えられています。

つまり、人間の想像力や創造力によって支えられている国と言い換えることができるでしょう。

そんな王国が近年の人間の世界における創造性の減退に伴い、崩壊の危機を迎えていました。だからこそ、この国の大臣は無理やりにでも子どもたちに「ラクガキ=創造的行為」をさせることで危機を脱しようと試みます。

さて、この大人や国が主導して、子どもたちに創造的な行為を強いようとする構図というのは、実は先ほどまでもお話してきたように今の日本の状況ともぴったり重なるんですよね。

国が指導要領で「創造性」が大切だとトップダウンで現場に指令を出し、現場の教員がそれを子どもたちに還元させるべく奮闘するわけです。

しかし、ここで大きな問題点になって来るのは、「創造性」を育てるというゴールが形骸化していくことです。

例えば、本作で描かれたような「ラクガキ」だって立派な創造的行為の1つです。子どもたちが自由な発想で、自分の世界を描いて具現化していく行為とも言えます。

ただ、そういった「創造的行為が為されている」という事実を担保にして、そこに大人が介入しすぎて、子どものやることにレールを引きすぎてしまうと、そこからは創造性が失われてしまうんです。

つまり「創造的な行為」をしているというシチュエーションや既成事実に大人たちが満足してしまって、その本質が見失われる可能性があるということですよ。

ナガ
今回の作品は、そこを実に巧く描いていました。

空からやって来たラクガキングダムのキャラクターたちは、人間の子どもに「ラクガキ」をすることを強いますよね。

まさしくこの行為は、創造的行為の形骸化を描いています。

そして面白いのが、彼らは自由な発想で自由に描いていいよとしきりに繰り返しているにもかかわらず、マサオくんが描いたよしいうすと(原作者をモデルにした劇中キャラクター)の「少年忍者吹雪丸」の模写をあっさりと否定しているのです。

これの何が問題なのかと言うと、大人が勝手に正解を決めて、子どもに押しつけてしまっている点でしょうし、もっと言うなれば大人たちが考える「創造的」に子どもを引き寄せようとしている点でしょう。

模写は創造的な行為ではないというのはあくまでも大人たちの勝手な判断であり、それに意欲を持って取り組む子供を否定することでは創造性は養われません。

何気ないシーンですが、実はこれは子どもに向き合う保護者や大人にとってすごく重要な姿勢が示されたシーンだと思いました。

また、個人的にもう1つ大きな問題だと感じているのは、そうした創造性を重視する教育を受けていない大人(当ブログ管理人も含めて)が、これからの子どもたちの創造性を伸ばす役割を担うということです。

つまり、自分たちは知らないし、経験したこともないことを子どもたちに教えていかなくてはならないというジレンマが生じてくるわけですよ。

そうなった時に、何とか「知ったかぶり」のような素振りで子どもたちに、創造性を育てるにはこんなことをしたら良いですとか、あんなことをしたら良いといった押しつけをしたところで、何にもならないんです。

なぜなら、大人たち自身がその意味や価値を理解していないからに他なりません。

自分たちが意義を見出せていないようなことを社会の流れだから、教育界のトレンドだからと押しつけようとしたところで上手くいかないのは明白です。

そして、それは学習指導要領の改訂に伴って、今後近い将来に危惧されることでもあります。

では、どうすれば良いのでしょうか?

それに対して『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』が提示した1つのアンサーとなっているのが、まさしく終盤の「やっちゃえば!やっちゃえば!」と歌いながら大人と子どもが一緒になって街に落書きをするシーンでしょう。

つまり、子どもに「やらせる」のではなく、大人も一緒にやってみる、学んでみるという姿勢です。

大人はどうしても自分が子どもに対して常に「教える側」でいなければというマインドを持ちがちですが、自分も分からないことなのであれば、むしろ一緒に学ぶという形で寄り添ってあげるのも1つの教育の形だと思います。

そうして大人と子どもが一緒になって作り上げた壮大なラクガキが1つの街を救うこととなりました。

これはまさしく日本の未来の暗示でもあると思いますし、これから待ち受けている問題に対して、どう創造性を発揮して立ち向かっていくかという課題に対する1つのアンサーでしょう。

「創造性」を養うためには、創造的行為に取り組ませるという手段が目的になってしまってはだめで、その行為の過程で発想力や問題発見能力、課題解決能力が発揮されるように大人たちが子どもを信じてあげる姿勢が重要になってきます。

物語の終盤には、子どもたちが主体的に動き始め、それに影響される形で大人たちも「ラクガキ」に取り組むようになりました。

「教える」ことだけが子どもにとっての親や大人の価値ではもはやないと思います。子どもと一緒になって目をキラキラさせて学ぶ、創造する。そんな姿勢を見せることもまた、子どもにとっては大きな学びになるのだと思います。



価値づけを子供に委ねることの大切さ

(C)臼井儀人/双葉社・シンエイ・テレビ朝日・ADK 2020

さて、ここからは2つ目のポイントについてお話ししていきます。

本作はタイトルにもあるように「ラクガキ」が重要なモチーフとして描かれていました。

ナガ
では、みなさんは「ラクガキ」というものに対してどんなイメージを持っていますか?

大人の視点から見ると、「ラクガキ」は価値がないもの、意味がないもの、無駄なものという印象が強いかもしれません。

なぜ、そういった印象を持っている人が多いのかと言えば、それは今の自分の人生に、仕事に、学業に、研究にその時の「ラクガキ」が活きているという実感を持っていないからだと思います。

かくいう私も、小学生の頃は自分のノートにマンガを描いているような子どもでしたが、それが今の仕事で何かの役に立っているかと聞かれると、口籠ってしまうでしょう。

つまり、大人というものは、自分の経験則で「ラクガキ」というものが自分の人生に何ら影響を及ぼしていないということを知覚してきたわけで、自ら試行錯誤するプロセスを経て、価値判断を下しているのです。

さて、『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』の内容を振り返ってみますと、先生や大人たちが「ラクガキ」に対して勝手に価値判断を下してしまう場面がいくつかありました。

例えば、公園で絵を描いているシーンで風景やそこにある事物ではなく、その場にはない明太子を描いたしんのすけは吉永先生に「間違っている」というレッテルを貼られてしまいます。

この行為と言うのは、大人が子どもが自由に取り組んでいることに対して「価値がない」というレッテルを貼るようなものです。

しかし、大人は「価値がない」という実感を自分の経験則で試行錯誤しながら知覚してきたわけですが、そうしたプロセスを経る前の子どもがその価値観を押しつけられたらどうなるでしょうか。

もちろん、大人が「価値がない」「意味がない」と言ったものは、自分で確かめてみるまでもなく切り捨てる方向に成長していくことになるでしょう。

しかし、学習指導要領の改訂にあたって出てきた資料の一説にはこんなことが書かれています。

社会や産業の構造が変化し、質的な豊かさが成長を支える成熟社会に移行していく中で、特定の既存組織のこれまでの在り方を前提としてどのように生きるかだけではなく、様々な情報や出来事を受け止め、主体的に判断しながら、自分を社会の中でどのように位置付け、社会をどう描くかを考え、他者と一緒に生き、課題を解決していくための力の育成が社会的な要請となっている。

「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」より引用

「特定の既存組織のこれまでの在り方を前提としてどのように生きるかだけではなく」という部分は非常に重要です。

これは言い換えると、既に価値があることや意味のあるとされていることにしがみついて生きることだけが「生き方」ではないのだと子どもたちに伝えていかなければならないというメッセージなんですよ。

また、同資料の別の一節ではこんなことが書かれています。

新たな価値を生み出していくために必要な力を身に付け、子供たち一人一人が、予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすることが重要である。

「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」より引用

この部分を見てみると「新たな価値を生み出していくために…」という文言があります。

先ほど引用した2つの箇所をリンクさせて考えると、改訂後の新学習指導要領にて、重視されるのは、既存の価値や意味に従属する生き方の一方で、新しい価値や意味を自分で生み出していけることが大切なのだという思いが伝わってきます。

だからこそ、私たち大人は自分の勝手な経験則によって作られた価値観を押しつけて、子どもに、自分の経験や試行錯誤の中で価値や意味の判断をさせるというプロセスを奪ってはいけません。

思えば、人間の社会において今価値や意味があるとされていることだって、最初は無価値や無意味の中から生まれてきたものですよね。

自分が興味本位で始めた研究が思わぬ分野や場所で活躍して、その価値や意味を見出されることなんて歴史を振り返ると何度もありました。

つまり価値や意味というものが、先天的に存在しているものではなく、後天的に見出されるものなのだと、子どもたちには伝えていかなくてはならないんですよ。

『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』を見ていて、しんのすけのラクガキに対して、なんでそんな無意味なものを描くんだ!とイライラした大人の方も多いのではないでしょうか。

ブリーフやナナコお姉さん、明太子、そして極めつけはぶりぶりざえもんですが、大人の私たちからすると、もっと役立つ者を描けよという発想になりますよね。

ナガ
それこそミサイルとか…(笑)

しかし、しんのすけが純粋な気持ちで描いてきたラクガキたちが、思わぬ場所で活躍し、結果的に春日部を救うことに繋がります。

役に立たないとされてきたはずのぶりぶりざえもんが、春日部を救う切り札になるなんて誰が想像したでしょうか?しんのすけ以外の誰がぶりぶりざえもんに価値や意味を見出していたと言えるのでしょうか?

まさしくしんのすけは自らの自由な創造性によって無意味や無価値とされていたものに、意味や価値を与えて見せたんですよね。そしてそれは偶然にも大人たちに意味がない、価値がないと判断されてきたものたちでした。

これまでの学校教育においてはテストという出された問題に対して如何に定まった正解を速く提示できるかという技能が問われており、その観点では明確に人間に序列がついてしまいます。

つまり、単一の尺度で誰がナンバーワンになるのかを競うしかなかったわけです。

しかし、今後教育が変わり、社会が変わっていくのだとするなれば、まだ誰も価値を見出していない、意味を見出していない場所でオンリー1になれる可能性が生まれたということなんですよね。

まさしく、公園で風景やそこにある事物を書きなさいと言われたのに、自分は明太子を掻きたいからと明太子をスケッチブックに描くような子どもたちが評価され、彼らが「間違い」じゃないとされる時代になっていくわけですよ。

最近、しばしば話題になるのがSDGsという国連が定めた持続可能な社会を実現するための17のゴールです。

では、あのゴールを達成するために既に意味があるものや価値があるものを駆使していけばそれで済むのか?と言われると決してそんなことはありません。

なぜなら「持続可能な社会」というものは、人間がいまだ実現できていないからこそこうしてゴールとして定められているんですよね。

そのため、これを達成していくためには、既存の価値や意味に縛られない新しい価値創造が必要になってくるわけですし、逆に言うとどんなことが役に立つのかはまだ誰にも分らない状況と言えるかもしれません。

つまり、ぶりぶりざえもんが世界を救う可能性を本気で検討してみることも無駄じゃないんです。

それが世界を救うかどうか、どんな結果をもたらした、どんな価値を生み出してくれるのかは誰にも分からないのですから。

『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』は、今の教育界の現状を鋭くとらえたうえで、これからどうなっていくのが理想なのかということを1つの形にしています。

ナンバー1ではなくオンリー1に。優れるのではなく異なる。

新しい価値や意味を自分なりに見出せることこそが、これからの社会での力になっていくはずです。



ICTの導入はゴールではなく手段

(C)臼井儀人/双葉社・シンエイ・テレビ朝日・ADK 2020

近年、映画でもICTや、AI、VRといった先端技術が扱われることが増えてきました。

ナガ
とりわけ子ども向けのアニメ作品なんかでも扱われることは増えてきましたね!

今作『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』もVRやタブレット端末を作品内に登場させています。

しかし、その登場のさせ方は、すごく今の日本の教育界におけるジレンマや課題感に通じるところがあるんですよね。

今、文部科学省が「GIGAスクール構想」というものを打ち出しているのはご存知でしょうか。これはICT教育を学校の現場で充実させるべく打ち出された基本方針です。

その中で挙げられているのが、校内にWi-Fi設備を整えることや生徒1人1PC端末という状況を作り出すことですね。

しかし、大人がそうした子どもたちが1人1端末のタブレットやPCをもって学習をするという状況に不安を持っているのも事実です。

それを象徴するのが、今作におけるユウマの初登場シーンだと思います。

彼は母親の経営する店のカウンター席で動画を見ていましたが、あれって大人たちが想像する典型的な子どものタブレットの使い方だと思うんです。

つまり、大人は子どもにPCやタブレット端末を渡したら、動画を見たり、ゲームをしたり、SNSに没頭したりするのではないかという不安ばかりを募らせているわけですよ。

ナガ
もちろんそういう危惧はあって然るべきでしょう!

しかし、そうした危惧や不安の根底にあるものは何なのかと考えてみますと、そこにはおそらく大人たちの方がむしろPCやタブレット端末を使ってどんなことができるのかを知らないという問題があると思うんです。

大人たちがPCやタブレット端末を使ってできることとして、動画を見たり、ゲームをしたり、SNSをしたり…くらいしか知らないがために、子どもにもそうとしか伝えられませんし、子どもも当然そういう使い方をしているだろうと推察してしまいます。

だからこそ、本作におけるユウマの初登場シーンを見た時に、彼がタブレット端末を使っているのを見て、「やっぱりそうだよね」といった感情を抱きませんでしたか?

その妙な安心感が大人たちのタブレット端末やPC端末を教育に導入することへの不信感の源になっている側面があることは否めません。

しかし、こうしたICT端末は子どもの可能性を広げてくれるものです。

例えば、同じく学習指導要領の改訂に伴って学校現場に入って来る「プログラミング教育」だった紙媒体でやるのと、タブレット端末やPCを使ってやるのでは決定的にその意義が異なります。

紙媒体でやるとどうしても「ドリル形式」になってしまい、正解ありきでそこに辿り着くための限られた範囲での試行錯誤しかできません。

しかし、タブレット端末があれば、目の前のロボットや装置を動かしながら、それが自分なりに納得がいくまで試行錯誤して動かしたり、書き換えたりすることができます。

そして、何より正解ありきではなく、自分で0から正解を見つけ出すというプロセスを経験することができるんです。これも1つ強みの部分と言えるでしょう。

他にも上げていくとキリがありませんが、ICT端末を教育の世界に取り入れることには大きなメリットがあります。

ただ、もう1つ大きな問題になっているのはじゃあそうしたICTを現場に導入して、結局のところ何をするんだ?という話です。

現場の先生にとってもこれまで経験したことのない新しい物が入ってくるわけですが、今はとにかくICTを導入するということに躍起になっていて、それが導入されて具体的に何をするのかという部分が空白になっています。

本来であれば、ICTを導入してどんなことがしたいのか、どんな教育目標を実現したいのかという部分にスポットが当たるべきなのですが、なぜか導入することそのものにばかりスポットが当たり手段が目的化しているのです。

ナガ
さて、作品の方に話を戻していきましょう。

本作でタブレット端末を持っているのは、ユウマですが、彼は最初母が訪れたであろう病院の位置を探るためにマップ機能を活用していました。

ただ、物語のクライマックスにおいて彼はそのマップ機能を応用してしんのすけの巨大なぶりぶりざえもんを描く行為をサポートできる!とひらめくわけです。

これって子どもが既存のシステムやアプリに対して自分なりの価値づけをした瞬間だと思いますし、何より目の前の問題を解決するためにICTを活用したという本質的な体験なんですよね。

こうしたICTが手段であり、それを活用した問題解決や想像的な学びこそが目的なのであるという位置関係を今一度思い出しておく必要がありますし、今作はワタルくんとタブレット端末を巡る一連の描写で、その本来の在り方を見事にそしてさりげなく描いていました。

本作のラストシーンでは、ユウマがインターネットの世界に自分が描いた「ラクガキ」を残せるようになったという話をしていました。

ナガ
まあ似ているのはPixivだよね!

ただ、あれは「学びのポートフォリオ」的な描写でもあると思いました。

「学びのポートフォリオ」というのは、生徒の学びの記録を電子データ化して蓄積したもののことを指しており、既に学校にも取り入れられ始めています。

この「学びのポートフォリオ」の大きな意義というのは、「メタ認知」なんですよね。

これまでは年に数回のテストの点数で評価というのが主流でしたが、このポートフォリオを導入すると、子どもたち1人1人がどんな学習をして、どんな思考プロセスをして、どこに問題点や改善の余地が残されているのかを「点」ではなく「線」として分析することができます。

もちろんこれは先生にとってのものでもあるのですが、同時に生徒自身が自分の学びを客観視するためのものでもあるわけです。

つまり、これまでは「点」だけに焦点が当たり、切り捨てられてきた学びの「線」の部分を評価する、分析するための施策なんですね。

さて、作品の方に話を戻していきますと、終盤にしんのすけがナナコお姉さんのラクガキやぶりぶりざえもんが消えてしまった時、そしてブリーフくんが自分の身体を賭して巨大な地上絵を完成させようとした時に「消えてしまう」という話が話題に挙がりました。

そしてしんのすけは「もう誰にも消えて欲しくないんだ!」という発言をします。

結局、しんのすけは世界を救うわけですが、私たちの多くのは時間が経てば経つほどに、その過程で起きた些末なことについては忘れて行ってしまい、結果的に巨大なぶりぶりざえもんが世界を救ったという結果だけが記憶されていくことでしょう。

では、その「点」に辿り着くまでの「線」になったものたちの存在ってどうなるんだろうか。いつか忘れ去られてしまうのでしょうか。

ナガ
ブリーフくんなんて文字通り「線」になってしまったよね…。

しかし、本作ではしんのすけが世界を救った仲間たちの絵をスケッチブックに残していたわけで、きっとワタルくんがそれをインターネット上にアップすることで半永久的に残っていくのでしょう。

だからこそ春日部が救われるという結果のための「線」になった人たちもまた忘れられることなく、消えることもなく、評価され続けるのです。

そうしたこれまでであれば消えてしまっていた「線」の部分にフォーカスしようというのがまさしく「学びのポートフォリオ」の考え方です。

ICTを導入し、子どもたちの学びの足跡を1つ1つ蓄積していくということは、テストのような「点」の部分に至るまでの「線」にもきちんと焦点を当てるということでもあります。

終盤のタブレットの描写で、そうしたポートフォリオ的な描写をインサートしているだけでなく、物語そのものがポートフォリオの意義を仄めかすような内容になっていたことには驚かされました。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は『クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』についてお話してきました。

ナガ
いや、もはやこれは作品レビューじゃないよね(笑)

かなり脱線して、自分なりの教育論を語る記事になってしまいました。

しかし、最近の日本の教育界のトレンドやコンテクストを踏まえても、これほど語れてしまうくらいに、本作は「今」の子どもたちの状況に真摯に向き合っているのです。

『クレヨンしんちゃん』の映画には、しばしば泣かされてきましたが、最近の作品は割とコメディ寄りだったこともあり油断しておりました。

終盤の大人と子どもが一緒になってラクガキをするシーンでは号泣しましたし、その後の巨大なぶりぶりざえもんが春日部を救うシーンではそれ以上に涙が止まらなくなりました。

「ラクガキ」というある種の価値のないもの、意味のないものが集まって、大きな力となり、意味と価値を獲得し、世界を救うという物語には本当に胸がいっぱいになりましたね。

2020年の新作映画の中でも現時点では5本の指に入る傑作でしたし、『クレヨンしんちゃん』の映画シリーズでもトップクラスの出来栄えだったと思います。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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