【ネタバレあり】『ミスミソウ』解説・考察:内藤瑛亮監督はこれをどこまで映画にできるのか?

アイキャッチ画像:(C)押切蓮介/双葉社 (C)2017「ミスミソウ」製作委員会

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画「ミスミソウ」が公開されるということで、映画公開に向けた内容とそれから作品に対する考察を書いていこうと思います。

前半部分では原作を読んだことが無い方に向けて、後半はネタバレありきの考察記事になります。

ネタバレになるような内容に言及する際は改めて表記させていただきます。

良かったら最後までお付き合いください。

あらすじ

「ハイスコアガール」「でろでろ」などで知られる押切蓮介の人気サスペンスコミックを、「ライチ☆光クラブ」の内藤瑛亮監督のメガホンにより実写映画化。

東京から田舎の中学校に転校してきた野咲春花は、学校で「部外者」扱いされ、陰惨ないじめを受けることに。

春花は唯一の味方であるクラスメイトの相場晄を心の支えに、なんとか耐えていたが、いじめはエスカレートしていくばかり。

やがて事態は春花の家が激しい炎に包まれ、春花の家族が焼死するまでに発展。春花の心はついに崩壊し、壮絶な復讐が開始される。

主人公の春花役を本作が初主演となる「咲 Saki」の山田杏奈が演じる。

映画com.より引用)

予告編

映画版に向けて、「ミスミソウ」の5つの魅力を徹底解説!!

今回は原作を読んだ上で私が映画「ミスミソウ」に向けてぜひとも皆さまに知っておいて欲しい5つのポイントを詳しく解説していこうと思います。

ナガ
もちろん映画に向けてということですので、作品のネタバレになるような内容は伏せていきます。

 

内藤瑛亮監督だからこそ期待できる映画版

私が初めて見た内藤瑛亮監督の作品は「パズル」という作品でした。

山田悠介原作のサスペンスホラーの映画版なのですが、徹底的にグロ描写に徹しているんです。

この映画を見て内藤瑛亮監督というのはグロテスクな描写から目を背けたりせず、それを正面から描き切ることで自分の作品の中に何かを生み出そうとしている監督なんだと思いました。

またこの「パズル」という作品は夏帆さんが主演を務めているのですが、彼女を血濡れのヒロインとしてこの上なく美しく映像化しているんです。

血というものが出てきた時点でショッキングな映像になってしまいますから、その映像に「グロイ」以外の感情を抱かせることは非常に難しいのですが、この作品における血濡れの夏帆さんはこの世のものとは思えない異質な美を放っています。

グロテスクな映像を撮影することは簡単ですが、そこにテーマや主題を宿らせたり、グロテスクを美しさへと昇華させたりすることは容易ではありません。内藤瑛亮監督は日本でそれが出来る数少ない映画監督の1人でしょう。

彼の他の作品には「先生を流産させる会」という映画がありますが、この映画も物語としては散らかっていお世辞にも完成度が高いとは言えませんが、それでも圧倒的なビジュアルで見る者を惹きつけます。

「ライチ光クラブ」に関して、個人的にはそれほど完成度が高いとは感じませんでしたが、圧倒的なエログロビジュアルを誇る作品ですから、彼の作家性には適した作品だったと思いますし、この作品でも彼は中条あやみという最高のヒロインを掘り当て、作品の中で異常なほどにまで存在感を発揮させました。

「ミスミソウ」という作品において、まず何よりも優先されるのが主人公である春花をいかに魅力的に描けるかというところだと思います。

閉塞感漂う街で一際眩く、そして美しく佇む春花という少女の存在感を作品の中でいかに演出できるのか?

そしてその美しさがどんどんと深化し人間を超えた狂気的な美を放つ彼女の姿をどう映像にするのか?

これが個人的に非常に重要なポイントだと考えております。

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(C)押切蓮介/双葉社 (C)2017「ミスミソウ」製作委員会 映画「ミスミソウ」予告編より引用

そう考えた時にこれまでグロテスクな映画作品を数多く手がけ、そのたびニューヒロインを生み出してきた内藤瑛亮監督であれば「ミスミソウ」の映画版は間違いなく期待して良いものだと思っております。

主人公を演じる山田杏奈さんにも注目したいですね。

 

グロテスクの本質を描く「ミスミソウ」

皆さんは「グロテスク」という言葉にどんな印象を持つでしょうか?

ナガ
こんな作品のことだと思った方がやはり多いのではないかと思います。

確かにそれは間違いではありません。血が大量に吹き出す描写、人間の臓物が飛び出す描写、カニバリズムなどなどそれらは総称してしばしば「グロテスク」であると評価されます。

しかし「グロテスク」という言葉の源流をたどるとそこにあるのはイタリア語の「グロッタ(洞窟)」という言葉なのです。

ナガ
なぜイタリア語の「洞窟」が派生して日本における「グロテスク」という観念へと発展したのでしょうか?

それは15世紀のローマで発見された、かつて皇帝ネロが建設を試みたとされる未完の宮殿にルーツがあります。この宮殿はその荒れ果てた姿と、生い茂る雑草、半分地中に埋まりかけていた様子から「グロッタ」であると評されました。

そしてその未完の宮殿の壁面に人間が植物や動物、魚などに連続的に変化していく何とも奇怪な模様が記されていたのです。このことから「グロテスク」という言葉に「奇妙な、奇怪な、不気味な、不調和な」という意味が付与されたと言います。

つまり「グロテスク」の源流をたどると、人が人あらざるものへと連続的に変化していくその摩訶不思議な様子が浮かんでくるというわけです。

確かに「ミスミソウ」という作品は描写だけを見ても、大量に血液が飛散したり、臓物が飛び出したりと世間一般に言うグロテスク描写が多く登場します。しかし本作においてはそういった視覚的にショッキングな描写をはるかに凌ぐ、原初的な「グロテスク」が描かれています。

閉塞感が立ちこめる土地で生きる人間たち。ミスミソウという植物。次第に狂気に堕ちていく獣たち。そんな人間から人あらざる存在へと変貌していく者たちの姿が鮮烈に描かれており、そのあまりの衝撃に、飛び散る血液もはみ出る臓物ももはや視界の外へとフェードアウトしていきます。

「グロテスク」の真髄を描いた作品こそ「ミスミソウ」と言えるのかもしれません。




「ファーゴ」を想起させるビジュアル

映画「ミスミソウ」のポスターですが、非常に春花の上着の赤色と雪の白色のコントラストが印象的ですよね。

こういうビジュアルを見るといつも浮かぶのが、コーエン兄弟の最高傑作と名高い映画「ファーゴ」ですよね。

純粋無垢な雪景色とそこで繰り広げられる人間の愚かな血を伴う争いを対比的に描いた映画であるわけですが、これは「ミスミソウ」という作品に通じるものでもあります。

確かに漫画版でも雪が降り積もっている土地が舞台になっていることは分かりますし、血は黒色で描かれますから対比的にはなっています。ただやはり「赤」という色は特別です。「赤」は血を想起させる非常に生命力にあふれた色であり、その一方で燃え上がる怒りを象徴する色でもあります。

それを雪景色という白い背景の上で描くからこそ、その強烈な感情や描写が一層際立つんですよね。

「ファーゴ」に代表される白と赤のコントラストは映画でも多く登場していて、最近ですと「三度目の殺人」や「スターウォーズ:最後のジェダイ」なんかにも用いられました。

「ミスミソウ」の映画ではそのカラーコントラストに注目したいと思います。

 

映画の経験値が浅いキャスト陣だからこそ期待できること

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(C)押切蓮介/双葉社 (C)2017「ミスミソウ」製作委員会 映画「ミスミソウ」予告編より引用

ナガ
本作のキャスト陣を見回していると、とあることに気がつきませんか?

そうなんですよ。映画「ミスミソウ」のキャスト陣の多くが知名度がほとんどないような駆け出しの俳優なんです。

主演の山田杏奈さんもまだ数作品にしか出演していませんし(公開当時)、「ちはやふる」などにも出演した清水くんでも10作品程度、その他のキャストを見回してみると映画初出演という俳優さんも多くいるみたいです。

「ミスミソウ」という作品の作風を考えた時に、確かに豪華キャストで映画化できるような作品でないことは間違いありません。ただここまで新人揃いというのも妙なものです。

こう考えた時に、私はこのキャスティングにも大きな意味があるのではないかと思いました。

ミスミソウという作品はいわばどこにでもあるような田舎町でどこにでもいるような生徒たちが内面の闇をどんどんと深めていき、狂気の渦へと埋没していく様を描いています。

つまりこの作品に必要なのは、どこにでもあるような日常感、そしてそれを劇的に崩壊させることなんです。

それを描くとなった際に、俳優として世間的に有名な人を使いすぎると、観客と映画の間の溝が深まってしまいますよね。自分とは違う世界に住んでいるあの俳優がいる映画の世界と自分の世界に無意識に線を引いてしまうのです。

しかし、顔なじみの無いキャスト陣であれば、その溝を最小限に抑え、「ミスミソウ」の冒頭に必要な「どこかにありそうな」田舎町の閉塞感や激しいいじめ、そしてそれを行う「普通の」生徒たちを観客に共感的な形で描けるのではないかと思います。

限りなく一般人に近い駆け出し俳優を多く作品に起用したのは、本作の普遍性を示唆し、それを崩壊させるシークエンスをより一層強調させるためなのではないでしょうか?

映画版を見て、ぜひともこのキャスティングの真の意図を確かめたいと思います。

 

日本映画史に刻まれるバイオレンス描写


(C)押切蓮介/双葉社 (C)2017「ミスミソウ」製作委員会 映画「ミスミソウ」予告編より引用

この「ミスミソウ」という作品はもうとにかくとんでもないバイオレンス描写の連続です。

もう息苦しくなるほどにバイオレンス描写が繰り出され、不快感が尋常ではないです。

そしておそらくこれほどまでのバイオレンス描写をまともに映画化した例は日本映画界にほとんどないと思います。

ですので、この原作をどこまで内藤瑛亮監督が映像化するのか?というところが非常に楽しみなんです。ただR15+ですからね・・・。やはり描写的にはかなり抑えてあるんではないかとは思います。

ただ原作のポテンシャル自体は日本映画史にその名を刻むレベルのバイオレンス描写に溢れていますから、ぜひとも映画版でその表現の限界に挑んでほしいと思います。

私が映画「ミスミソウ」に期待している5つのポイントを解説してみました。

ナガ
ぜひぜひ劇場で本作を鑑賞しましょう。映画「ミスミソウ」は4月7日より公開です!!

*ここからは本編のネタバレになるような内容を含みます。




*ここからは本編のネタバレになるような内容を含みます。

考察:祥子の存在から考える「ミスミソウ」というタイトルに込められた意味

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(C)押切蓮介/双葉社 (C)2017「ミスミソウ」製作委員会 映画「ミスミソウ」予告編より引用

春花にとって本作において一番大切な存在は誰だったのかと言うと他でもない祥子なんです。彼女回想シーンではしばしば祥子が登場しています。

また冒頭に祥子が春花に手渡していた3つ葉のアクセサリーが本作のキーアイテムになるのも非常に興味深いポイントです。

このアクセサリーを手渡す時に春花がこんなセリフを口にしているんです。

「三つ葉にもね三位一体の神様が宿ってて幸福を呼ぶって聞いたことがあるよ。」

三位一体というと神が父なる神、御子イエス、精霊の3つの位格を兼ね備えた存在であるということを示しています。また3という数字は神の世界を表す数字であるとも言われているんですね。

ここから考察したんですが、私は祥子という存在は春花の守護神のような存在であり、彼女の信じる内なる神のような存在だったと思うんです。3という神的な数字を想起させるアクセサリーを祥子は春花に贈りました。これは彼女にとってはお守りのようなものでした。

また3という数字を考えた時に本作で祥子と春花の関係性に1つの気づきがあります。

春花は実は3度祥子の制止を振り切っているんです。

1度目は春花の家が燃やされ、家族が殺された日に彼女が相場と出かけようとした時ですね。

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(C)押切蓮介/双葉社 

2度目は春花が祥子のお見舞いのために病院に向かうシーンです。

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(C)押切蓮介/双葉社 

3度目は終盤に春花が病院を去っていく相場を追いかけていくシーンです。

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(C)押切蓮介/双葉社 

この3度の制止を振り切った春花に待っていたのは、「死」だったわけです。

つまり祥子は春花の守護神として3度だけ彼女を守るために働きかけることができたのではないでしょうか?だからこそ火事の最中で祥子だけは植物状態になりながらもこの世に残ることができたのではないでしょうか?

そして3度目の制止でもって春花を止められなかったことが分かると、その役目を終えたように悲しげな表情で祥子はこの世に別れを告げました。さらにその3度目の制止の先で春花は命を落とします。

意味深に映し出された枯れたミスミソウの3つ葉。これは守護神たる祥子の死を示唆するとともに、祥子の3度の制止を振り切って、復讐へとひた進んだ春花の命の消失を描き出していたんでしょうね。

雪の降り積もる季節。そんな春を前に、綺麗な花を咲かせる季節を前に葉のままで散ってしまった悲しき「ミスミソウ」の物語にラストシーンではすごく落ち込んでしまいました。




考察:「ミスミソウ」のおいて眼の持つ意味とは?

私が考える「ミスミソウ」という作品における「眼」というモチーフの持つ意味を考えてみたいと思います。

本作において眼球という球体のモチーフを探る際に、私は同じく球体である祥子が春花に渡した三角草のアクセサリーとそして太陽を関連付けて考えてみようと思います。

これはジョルジュ・バタイユの「眼球譚」という小説に関してロラン・バルトが考察を加えた「眼の隠喩」の中で行われた眼球と卵、牛の睾丸、太陽の関連付けに着想を得たものです。

ロラン・バルトは眼球に端を発する4つのモチーフを性的な隠喩として捉え考察を進めていました。

私は「ミスミソウ」における眼球のモチーフを生命というキーワードに紐づけて考えてみようと思います。

まず祥子が春子に渡した三角草のアクセサリーは三角草を球体のガラスの中に閉じ込めたものであり、本作において祥子の、そして春子の生命の象徴として登場します。それは終盤に祥子の死を暗示する際に三角草が光を失ったことからも自明です。

そして太陽は地球上の全生命体の生命の象徴と言っても過言ではありません。本作で注目したいのが、太陽が翳り雪が降り始めるタイミングなんです。本作の冒頭時点では、春花たちがくらすあの町にはまだ雪が降り始めていないんです。

その後、春花の家が放火されると町に雪が降り始め、太陽が陰ります。太陽は物語終盤、春花が死ぬシーンまで翳り続けています。

次に眼球についてです。作中での最初の殺しにおいて春花は相手の左目を潰し、最後の殺しにおいて相場の右目を潰しています。他にも南先生は保護者の1人の両目を潰した直後に事故死していますし、流美も妙子の両目を潰し、その後に死の運命を辿りました。つまり目を奪う、眼球を抉る行為が自分の死に関係しているということも示唆されているように思います。

このことから、3つのモチーフは全て結びついていて、そのどれもが生命を象徴しているんだと考察することができます。

そう考えると、眼球を抉るという行為は光を求める行為であり、生命を取り戻そうとする行為であると言い換えることができるのではないでしょうか。眼から溢れだす血という描写は、太陽から溢れだす光にシュミラリティを有しているように思います。

もっと言うなれば、目を抉るという行為により眼球から血が溢れ出すように、太陽を抉ることで太陽から光が溢れ出し、ミスミソウを閉じ込めたガラス玉を抉ることでミスミソウを取り出す事ができる(つまり妹の命を救う・春を迎えることができる)わけです。

南先生と佐山は同じ境遇に置かれていました。互いに陰惨ないじめの標的にされ、「生命」を奪われました。2人は他人の眼球を抉ることで、生命を獲得しようとしたのです。それは太陽を抉り、そこから溢れだす光を浴びようとする光景をイメージさせます。

しかし、「ミスミソウ」という作品において2つの眼球を抉るという行為が死に繋がることを忘れてはなりません。生命を、光を取り戻そうとして行う眼球を抉るという行為が自らに死をもたらすという何とも皮肉な構造を孕んでいる点が切ないポイントです。

吉絵の左目を抉り、相場の右目を抉った春花に待ち受けているのは死でした。そして彼女が死ぬまさにその瞬間も太陽は翳り、雪は降り続き、そして球体のガラスに閉じ込められたミスミソウは光を失います。

この考察をしていると、家族と最愛の妹を失い、自分の世界から消えた光を取り戻すために眼球を抉り、人を殺め、必死にもがくも、そんな春花に光が差すことは無く、春も訪れず、死のみが横たわるというあまりにも救われなさすぎる現実が一層際立って見えました。

そしてラストシーンがより悲劇的ですよね。春花の死の後に祖父だけが残され、雪は止み、春が訪れ、あの町にミスミソウが咲き誇っています。祖父の目からこぼれる涙は、太陽からこぼれ出る陽光のようで、さらにそれまで目を閉じているかのように描かれていた祖父の眼球が少しだけ姿を覗かせます。

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(C)押切蓮介/双葉社 

そんな生命力あふれるラスト数コマで描かれた世界に、もう春花がいないという事実がこの上なく残酷で、この上なく悲劇的でした。

 

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は『ミスミソウ』についてお話してきました。

本作を読んでいてすごく感じるのは、やはりいじめという問題は眼に見えている部分に本質は無くて、その背景を読み解いていかないと解決できない問題だということです。

いじめは自分の内面の闇を他者を貶めるという行為を通じて発散しようとしているという側面があります。

「ミスミソウ」に登場する登場人物のほとんどが家庭に問題を抱えていたり、過去に暗い歴史を経験しています。こういったそれぞれの内面の闇が他者をいじめることに繋がってしまうわけです。

「不幸な生い立ちに興味はないし、動機だってどうでもいい。ただ、同情はしてしまいます、この可哀想な被告人に。」

先日最終回を迎えたドラマ「アンナチュラル」の最終回でこんなセリフが登場していました。いじめ問題に関して考えるときに、このセリフのような考え方はタブーだと私は思います。

「ミスミソウ」の中で起きた最大の悲劇はもちろん春花の家族の焼死です。確かにこれを決行した生徒たちの行為は許されるべきではありません。ただこれがどうすれば防げたのかと考えた時に、その責任の追及は枝分かれ式に波及していきます。

いじめを放任した南先生。そしてそんな彼女をかつていじめていた生徒たち。春花のクラス
メートたち。そんな彼らを苦しめた親世代。相場とその両親。様々な人物が関わり合って徐々に深まった闇があの一瞬に爆発してしまい、放火事件が起こってしまったのです。

子供にとって家族というのは、ある種社会のようなものでそこで不幸な生い立ちを経験すると、自己と他者、社会との関係性を見誤ってしまうケースが非常に多くなります。だからこそ不幸な生い立ちにこそ興味を持たなければなりませんし、そこを少しでも改善していくことにいじめの問題を防止するための最初の取り組みがあるべきなのです。

「ミスミソウ」という作品が描いたのは、数え切れないほどの分岐点で悪い方の選択肢を選び続けた先に待ち受けていた究極の悲劇なのです。どこかで良い方の選択肢を選べていたら・・・。そう思わずにはいられません。

もちろん本作の描き方は極端なものですが、これが起こらないとは断言できません。

母子・父子家庭の増加、貧困問題、ネグレクトや虐待の問題など子供の成育環境が悪化しつつある現代、それがいじめに繋がる現状があるからこそ、その改善に取り組まねばならないのだということを本作は改めて思い出させてくれます。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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