みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『マトリックス レザレクションズ』についてお話していきます。
先に書いたこちらの記事は、『マトリックス』トリロジーの総復習と軽めの『マトリックス レザレクションズ』を合わせた長文記事です。(2万字超えてます…(笑))
そして、こちらの記事では基本的に新作のみを扱い、ワンテーマで作品を掘り下げていこうと思います。
『マトリックス レザレクションズ』は語るべきところの多い作品であり、切り口も多様にありますが、その中でも今回私が注目したいのは「記憶」というテーマです。
今作では、ネオやトリニティーが『マトリックス』トリロジーの頃に経験した記憶に別の記憶を上書きされている状態で物語が始まります。
そんな中で、「ムネモシュネ」という「記憶」を司る女神の名前を冠した船とそのクルーが現れ、ネオを救出し、そこからさらにトリニティーの救出を目指します。
今作の物語の中心には、確かに「記憶」の解放の物語があり、それを「アイオ=永遠の地」へともたらすことが、物語のゴールになっているのです。
こうしたモチーフや物語の構造を鑑みても、やはり「記憶」が本作の1つの重要な軸になっていることは間違いありません。
そして、「記憶」という言葉で作品を紐解くにあたって、引き合いに出したいのが旧約聖書の五書のうちの1つである『申命記』であり、それに紐づくユダヤ教の世界観です。
できる限り細かく分かりやすく解説しながら進めていきますので、良かったら最後までお付き合いください。
また、本記事は作品のネタバレになるような内容を一部含む考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
目次
『マトリックス レザレクションズ』考察(ネタバレあり)
「申命記」とは何か?
旧約聖書にはモーセによって書かれた最初の「五書」なるものが存在します。
- 創世記:神による天地創造から、アダムとイヴの失楽園、ノアの箱舟といった有名なエピソードが収録されている。
- 出エジプト記:モーセが奴隷にされていたユダヤ人たちを連れてエジプトから脱出する様が描かれている。
- レビ記:律法の細則が綴られており、とりわけ神との交わりを維持する方法が教示されている。
- 民数記:イスラエルの民が、シナイ山を出発し、荒野を40年間放浪した後にヨルダン川の東岸へと辿り着くまでの旅を描いた歴史書。
- 申命記:約束の地を目前に控えたイスラエルの民に向けたモーセによる律法の解説書。
それぞれこんな内容が書かれていて、ここから有名な「ヨシュア記」へと繋がっていくこととにもなるんですね。
そして、既に書いたように「申命記」は、「律法の解説書」なのですが、大まかに分けると4つの章から構成されています。
- 40年にわたる荒野の旅の回顧(1~4章)
- 十戒と律法についての解説(5~26章)
- 契約の確認とイスラエルの未来への展望(27~30章)
- モーセの死とヨシュアが指導者に(31~34章)
それぞれのパートがどんな内容なのかを説明し始めると、かなり時間を要してしまうので、これについては『マトリックス レザレクション』との関連の中で小出しにお話していこうと思います。
『マトリックス レザレクションズ』の世界観と「申命記」
では、先ほど概要をご説明した「申命記」がどのように今回の『マトリックス レザレクションズ』とリンクしているのかを具体的な例を交えながらお話させていただきます。
「戦い」を知らない世代への説法
(C)2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED
まず、今作の新しいキャラクターであるバッグスやレクシーたちは、『マトリックス』トリロジーの時代には生きていなかった世代です。
というのも、『マトリックス』トリロジーの時代から、『マトリックス レザレクションズ』の時代に至るまでに60年以上の年月が経過していると劇中で説明されていました。
つまるところバッグスたちの世代はネオを見たことも、彼に触れたことも、言葉を交わしたこともなく、さらに言うなれば人間と機械の全面戦争をも知らない世代なのです。
こうした設定は、「申命記」にて描かれる40年以上を荒野で彷徨った出エジプトを知らない世代のイスラエルの民に重なる部分があります。
では、なぜ「申命記」においてイスラエルの民は40年以上も約束の場所を探し求めて荒野を彷徨ったのでしょうか。
それは民が律法に不従順であり、神に従おうとしなかったからです。
だからこそモーセは、「出エジプト」を知らない新しい世代のイスラエルの民たちにむけて約束の地に入るにあたって、律法を遵守することの大切さを説いています。
律法を守らなければ、仮に約束の地に入ることができたとしても、そこから追い出されてしまうからですね。
『マトリックス レザレクションズ』の世界でも、ネオの結んだ契約や彼の救済を信じ続けたモーフィアスのような存在(石像になっていましたが)がいました。
しかし、彼らが去り、アイオにザイオンと機械の戦いを知らない世代が増えてくると、首長のナイオビも含めてネオのことを徐々に忘れていきます。
彼らが暮らしているのは、ネオやザイオンの人たちが命がけで守り抜いた文字通り「約束の地」です。
ただ、彼らがネオの結んだ「契約」を忘れ、彼らの戦いの「記憶」を放棄した時、再び戦争は起き、彼らは約束の地を追われることになるのでしょう。
「第二の」ではなく「繰り返し命じる」物語に
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『マトリックス レザレクションズ』はご覧になられた方はお分かりいただけたと思いますが、シリーズ第1作の『マトリックス』に構成も含めてかなり似ています。
つまり、続編とも言い切れず、かと言ってリブートとも言いづらい内容で、強いて言うなれば、新しい世代に向けて『マトリックス』を繰り返し見せるような内容なのです。
劇中では、新しい世代のキャラクターたちが、『マトリックス』におけるトリニティーやモーフィアスのセリフを「繰り返し」たり、同じシチュエーションを「繰り返し」たりしており、観客としては不思議な「デジャビュ」に巻き込まれたような感覚になります。
そう考えたときに、「申命記」という書物の名前の意図に『マトリックス レザレクションズ』の作品性がリンクしているように感じられました。
というのも、「申命記」という書物名は中国語から来ており、意味は「繰り返し命じる」なのです。
ちなみに原典のヘブライ語では「エレー・ハデバリム」という名前で、これはテキストの最初の3語と一致しており、意味としては「These are the words」となります。
ただ、面白いのが、英語ではこの書物を「Deuteronomy」と訳出している点です。
「Deuteronomy」は「第二の律法」という意味であり、これではモーセがこれまでにない新しい律法を若いイスラエルの民に聞かせているというコンテクストになるので、意味合いが変わってきます。
「申命記」においては中国語由来の名称に含まれる「繰り返し命じる」というニュアンスの方が適切であり、モーセが既に存在する律法を若い世代に改めて命じる、繰り返し命じる内容なのです。
聖書の解釈学の中に「再記述の法則」という用語がありますが、「申命記」におけるモーセの律法の解説はまさしくこの「再記述」に当たります。
そうした「申命記」という書物とその律法の解説の持つ特性と、『マトリックス レザレクションズ』の作品としての特性はどことなくリンクしている印象を受けるのです。
「契約」が存在する世界を描く
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『マトリックス レザレクションズ』を読み解く上で、もう1つ重要な事実は、本作が『マトリックス レボリューションズ』以後の作品であることです。
『マトリックス レボリューションズ』では、ザイオンと機械、そしてネオとスミスの最終決戦が描かれました。
では、その戦いはいかにして決着したのか。
それはネオとアーキテクトが「契約」を結ぶことでした。
ネオとアーキテクトが平和な世界に向けて、人間と機械が共生できる世界に向けて「契約」を結び、それによって世界は平穏を取り戻したのです。
だからこそ、『マトリックス レザレクションズ』で描かれたのは、ネオによる「契約」が存在する世界なんですね。
実は「申命記」もまた既に「契約」が存在する状況を描いており、さらに書物の終盤にはモアブで新たな「契約」を結ぶ場面も描かれます。
では、「申命記」において既に存在している契約とは何かというと、それは「モーセの契約」です。
これは、シナイ山で神とイスラエルの国との間のにされた条件付きの契約であり、「<律法を守れば>祝福される」という内容です。
「申命記」には、これについてかなり具体的な「条件」が書かれているので、ぜひチェックしてみてください。
もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
(「申命記」28章1-2より引用)
では、この「契約」によってもたらされた「祝福」とは何なのでしょうか?
「申命記」においては次の3つが「祝福」として挙げられています。
- 物質的な祝福の約束(4〜5節)
- 平和の約束(6〜10節)
- 主が臨在されるという約束(11〜12節)
まず①については「あなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子」は祝福されると書かれています。
これは『マトリックス レザレクションズ』でアイオに農作物が生まれ、イチゴが作られるようになっていたという描写に通じていると思います。
次に②ですが、これは「敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。」といった記述にリンクしています。
つまり、律法を守っていれば、例えマシンシティから機械たちが攻撃してきたとしても彼らは逃げ去り、平和は保たれると言っているわけです。
③は神は民の間に住んで、ご自身の栄光を表すということを指しています。
このように、「律法」を守ることで人々は祝福を得ることができると「申命記」では改めて明言されており、これがネオとアーキテクトの結んだ契約に重なるわけです。
「申命記」では、この「契約」を全うしなかった場合にどうなるのかについても書かれていますが、その場合には農作物が呪われ、戦争が訪れると言い切っています。
これを『マトリックス レザレクションズ』に投影すると、アイオやそこに生きる人々がネオの「契約」を忘れたとき、「約束の地」は滅んでしまうだろうということになりますね。
「律法」と「口伝律法」
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「申命記」の12章からが「律法の本質」についての内容なのですが、ここに1つの重要な記述があります。
あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、
あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、
あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。
(「申命記」12章1-3より)
簡単に言えば、神が定めた律法以外の「口伝律法」を人間の中に生まれた支配者や自称救世主が語ったとしても、それを信じてはならないということを言っています。
『マトリックス レザレクションズ』でネオが復活し、アイオに辿り着くと、そこではナイオビが首長として君臨しており、彼女はネオを信じようとしません。
そして、彼女は彼女の作り上げた教えや法をアイオに広く普及させ、モーフィアスらが提唱した「ネオの物語」は過去のものになりつつありました。
こうした状況はまさしく「申命記」においてモーセが危惧しているところであり、その末路は先ほども書いたように「農作物が呪われ、戦争が訪れる」のみです。
だからこそ、『マトリックス レザレクションズ』の終盤には、ナイオビの改心や若い世代のキャラクターたちのネオの行動への「信頼」が描かれ、若い世代が正しい律法の方向へと引き戻されていきます。
物語の中盤にバッグスがネオに従い、ナイオビに背くような描写がありましたが、これは「申命記」に準えて言うなれば、「律法の遵守、口伝律法の放棄」なので、正しい行動とされるわけです。
モーセによる「未来」への言及と世代交代
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「申命記」とは異なりますが、まずは『新約聖書』の「ローマ教会への手紙」の一節を引用します。
こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。
そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。
福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。
神の賜物と召しとは、変えられることがない。
(「ローマ教会への手紙」第11章より)
この一節は有名で、とりわけ神学においては「イスラエルの回復」を示唆していると解釈されることがあります。
つまり、イスラエルの民はいつか救済され、約束の地へと戻ることができるであろうという「未来」への予見がなされているんですね。
「申命記」に話を戻しますと、モーセは後継者であるヨシュアに「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」と告げており、これも「未来」に起きるイスラエルの回復を示唆しています。
では、イスラエルの回復とはどんな形で起きるのか。
そもそも歴史的に見ると、1948年にイスラエル共和国がイスラエル独立宣言をしたから、それが「回復」に当たるのではないかと思われるかもしれません。
しかし、実はそれは真の「回復」ではありません。
「エゼキエル書」では「イスラエルの回復」について次のように述べられています。
わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
(「エゼキエル書」36章24-27より)
つまり、「イスラエルの回復」というのは、肉体的にもたらされるものだけでなく、霊的ないし精神的なレイヤーでももたらされるものであり、1948年のイスラエル建国は前者にしか満たないという見方がなされているのです。
霊的な回復については「申命記」でも、「そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。」と書かれています。
つまり肉体的な解放よりも真に重視されるべきは「心」の解放なのだということが「申命記」や他の聖書関連の書物に記されているわけです。
脱線が長くなってしまいましたが、『マトリックス レザレクションズ』に話を戻します。
ネオによって解放されたザイオンの人たちは長い年月の経過の中で、徐々に戦いの「記憶」を風化させ、アイオでの新しい生活に馴染んでいきました。
彼らは確かに機械による支配から脱したと言え、その点では「自由」を取り戻したと言えるでしょう。
しかし、彼らの「心」はまだ解放されていないと言えるのではないでしょうか。
それはネオが愛するトリニティーを救出したいと発言したことに対するナイオビの発言が象徴しています。
彼女の発言は「愛(心)」ではなく、自分たちの世界の「肉」を優先するものであり、アイオがまだ「心の解放」に至っていないことを感じさせるものです。
また、今作『マトリックス レザレクションズ』では、ネオやトリニティーの肉体的、霊的回復が描かれています。
そして、その霊的回復のキーになるのが「記憶」でした。
2人は偽物の記憶を詰め込まれ、マトリックスに囚われている状態でした。
そんなネオにまずはマトリックスからの脱出という「肉体的回復」がもたらされ、さらにトリニティーの救済によって「霊的回復」が成し遂げられるのが『マトリックス レザレクションズ』だったのです。
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『マトリックス』トリロジーでは、機械と人間による対立軸を強調し、戦争を媒介として人間の「肉体的回復」にスポットを当てました。
だからこそ『マトリックス レザレクションズ』では、「申命記」にもあるように、人間の「霊的回復」にスポットを当てています。
その2つが成し遂げられた時に人間が真に救済されるのだと見立てる「申命記」の内容を鑑みると、本作のネオとトリニティーの2人が並び立つラストシーンは、まさしく「真の回復(レザレクション)」がもたらされたことを象徴するものだったと思います。
ユダヤ教における「記憶」と『マトリックス レザレクションズ』
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では、ここからは少しだけ「申命記」からは距離を取りつつ、もう少し「記憶」というテーマにフォーカスしていきます。
まず、ユダヤ聖書において「記憶」という言葉は何度も反芻される重要な言葉です。
先ほどまで引用しながらお話してきた「申命記」でも、7章18節にて「彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい。」と書かれており、「過去を記憶すること」の重要性が語られています。
また、「出エジプト記」などを読むと、「記憶」の対象が「神とモーセが結んだ契約」のことであるという側面も見えてきます。
これを『マトリックス』シリーズに投影して言うなれば、「ネオが3つの作品を通して繰り広げてきた戦いとそれに伴う救済と契約あるいはザイオンの人たちの機械との戦い」について「記憶」しておくことが大切だということになるでしょうか。
しかし、エルサレムのシオンに由来するザイオンという都市の名称が「アイオ」に切り替えられたことが象徴するように、人々はネオや戦争の「記憶」を徐々に風化させています。
また、ネオやトリニティーその人も過去の戦いの「記憶」を失っていました。
「記憶」から切り離された2人はそれぞれゲームクリエイターと主婦という偽物の記憶を与えられ、それが真実だとアナリストに刷り込まれながら生活しています。
ユダヤ教ないしその聖書の世界観において、「記憶」は「契約」に密接にかかわっており、だからこそ「記憶」を喪失することは「契約」を喪失することに近しい意味合いを持っています。
だからこそユダヤ教関連の聖書では、「記憶」という言葉がたびたび用いられ、過去を思い出すこと、とりわけ過去に結ばれたアブラハムと神の「約束」や神とモーセよって結ばれた「契約」を思い出すことを促しているんですね。
このように『マトリックス レザレクションズ』では、「記憶」を媒介として、ネオやトリニティー、そして新しい世代のキャラクターたちを『マトリックス』トリロジーの物語から切り離しています。
そうした流れがあって、物語の中盤では、『マトリックス』トリロジーの映像も用いながら、そうした「記憶」の回復が観客も交えて行われます。
また、神学においてユダヤ教の聖書を紐解く際に、ヨーロッパ諸語とヘブライ語の違いに言及されることがあります。
というのも前者が過去、現在、未来の3つの軸で時制の体系を構築している一方で、後者は完了形と未完了形で表されるというのです。
もちろん言語が思考を規定するというサピア=ウォーフの仮説のような考え方は眉唾ものですが、ユダヤ教における「記憶」の概念は単に過去を「記憶する」という他の世界とは異なる時間の感覚の中に位置づけられています。
羽村貴史氏の「ユダヤ教における記憶と時間」の中で、そうした時間性について次のように言及されていました。
聖書に記述されたもろもろの歴史的出来事は,ただの一度しか起こらなかったが,それでもユダヤ教の記憶において「現実化」が起こるのは,「信仰者がもともとの出来事との同一化を経験するときなのであり,その際,信仰者は,歴史的出来事に運び戻され,歴史的時間の裂け目を乗り越えることで,歴史に参加するのである」
大切なのは過去を過去にしてしまうのではなく、過去を自分自身のものとして現在、そして未来に至るまで持ち続けることなのです。
そして、そのためのキーになるのが「聖書」であり、人々は「聖書」を通じて「歴史時間の裂け目」を乗り越え、当事者として歴史に参加し、その「記憶=契約」を保持することができるんですね。
また、同論の中で、『マトリックス レザレクションズ』にも繋がる非常に面白い記述があるので、併せて引用します。
聖書に記述される出来事は,「断じて静的なものではなく,あくまでも始まりとして機能するのであり」,イスラエルは,時空を離れた「おのおのの世代と出会いつづけ,同時代でありつづける」。さらに言うならば,「神の目的において過去と未来はひとつなので,イスラエルは,記憶の行為によって過去と結びつくことで,未来の一部となるのである」。ユダヤ人にとって,記憶は,歴史に参加し過去を経験する時間上の行為なのであって,静的で知的な活動を指すのではない。
「記憶」というものは静的で固定されたものではなく、記憶があらゆる時間や世代と絶えず出会い続け、そして「過去」であるだけでなく、「未来」足りうるのだということが言及されています。
つまり、「過去」を記憶し、その記憶に参加することは過去との結びつきを構築し、同時に「未来」とのつながりを獲得することでもあるのだと言っているわけです。
この内容は先ほどまで話題に挙げてきた「申命記」の内容とも一致します。
「申命記」には、出エジプトを思い出し、モーセが神と結んだ「契約」を思い出すという「記憶」が、未来のどこかで起きる「イスラエルの回復」にもリンクしているのだというモーセの説法が綴られていました。
ここまでお話すると、『マトリックス レザレクションズ』とのつながりが見えてきたでしょうか。
今作では、執拗なまでに過去の記憶を掘り起こすような展開と演出を積み重ねていきます。
ネオによる契約やザイオンの人たちの戦いは言わば聖書に描かれている「出来事」なので不変であり、その内容は過去作の映像としてインサートされます。
しかし、モーダル(進化プログラム)によってそうした過去の記憶は現在や未来と結びつき、微妙にその形を変容させていくのです。
『マトリックス レザレクションズ』はリブートではありません。リメイクでもありません。かと言って続編でもありません。
これは明確に『マトリックス』という聖書の「外」にある物語であり、それを享受する新しい世代の人間たちのための物語です。
バッグスをはじめとする新世代、そして「記憶」を失い救世主という役割から切り離された1人の人間としてのネオ。
つまり、彼らが「『マトリックス』=聖書」に描かれた過去の出来事、つまり「記憶」とのリンクを回復し、その記憶に参加し動的に経験する中で、「未来の一部」にまで繋がっていくというのが『マトリックス レザレクションズ』の選んだアップデートの在り方なのです。
「過去」は「おのおのの世代と出会いつづけ,同時代でありつづける」わけで、だからこそ「未来」でもあり続けます。
ラナ・ウォシャウスキー監督は本作を通じてまさしく『マトリックス』を常に「同時代であり続ける物語」として位置づけようとしたのです。
本作がなぜ執拗に過去の映像の引用にこだわったのか、そして過去とのつながりの中で未来を描こうとしたのか。
答えは1つです。
わたしは,初めであり,終わりである。
(「イザヤ書」44章より)
つまり、「過去」は「未来」であり、それらは2つで1つなのです。
「集合的記憶」と「歴史記述」の関係から紐解く「神」の奪還
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最後にもうワントピックだけ語らせてください。
先ほどの章で、ユダヤ教ないしユダヤ教聖書の中に「過去」と「未来」のつながり、そして過去が「おのおのの世代と出会いつづけ,同時代でありつづける」という特性が内包されていることをお話しました。
それに関連してなのですが、ユダヤ教圏では、聖書以後の「歴史記述」がほとんどなく、その代わりにユダヤ人たちの歴史は儀礼や典礼などを媒介としてユダヤ人の「集合的記憶」に刻み込まれ、継承されていったという言説があります。
この「集合的記憶」を引き合いに出してY. H. イェルシャルミであり、その中心にあるのが彼の著した『ユダヤ人の記憶 ユダヤ人の歴史』という書籍です。
同書では、ユダヤ人たちが「集合的記憶」を足掛かりにして歴史を伝承してきたこと、そして19世紀にヨーロッパ式の「歴史記述」による歴史の記録が流入したことで、彼らが記憶や信仰と切り離されてしまったことなどについて省察されています。
では、そもそも「集合的記憶」とは何なのでしょうか。
『ユダヤ人の記憶 ユダヤ人の歴史』では次のように書かれています。
ユダヤ民族の集合的記憶は,集団それ自体の分かち合った信仰,団結力,そして意志の一機能であり,その集合的記憶を得るために有機的に作用し複雑に連動している社会的・宗教的制度全体を通して,みずからの過去を伝達し再生したのだった。
(『ユダヤ人の記憶 ユダヤ人の歴史』より引用)
同書の中では、こうした集合的記憶を繋ぐための方法の中心に「儀礼」があったとも書かれていますが、とりわけ記述することではなく、彼らは民族全体で記憶を分かち合い、それを絶えず「再生」することで次の世代へのバトンを渡していったんですね。
では、19世紀に入ってユダヤ人たちをそうした「集合的記憶」から切り離してしまったものは何だったのかというとヨーロッパ的な歴史記述であるとイェルシャルミは述べています。
歴史記述は時系列に出来事を並べ、それを一つの線にしてしまうという点で、「集合的記憶」とは大きく異なるのですが、最大の違いは「神の存在」でしょう。
「集合的記憶」には宗教的、信仰的な側面があり、神,神的なものの存在が君臨することができますが、「歴史記述」においてはそうした神の存在は認められず、あくまでも「歴史」が主体として君臨することになります。
イェルシャルミはこれがきっかけとなり「ユダヤ人の歴史の世俗化」や「ユダヤ教自体の歴史化」が起こったとしています。
歴史は以前にはけっして存在しなかったもの,すなわち,落ちぶれたユダヤ人の信仰(the faith of fallen Jews)となったのである。聖典ではなく歴史こそが,初めて,ユダヤ教の裁定者となったのである。
(『ユダヤ人の記憶 ユダヤ人の歴史』より引用)
こうして「集合的記憶」から切り離され、ヨーロッパから流入した近代的な歴史記述によって歴史を担保されるようになったユダヤ人たちは「ユダヤ教とは何なのか,ユダヤ教が存在したとしても,自分たちにとってはまだ有効に機能しているのかどうかということについて,もはや確信をもてなかった」のだと同書の中で触れられています。
それは、近代の歴史記述がユダヤ的な歴史概念の核だった「神の摂理」を退けたために他なりません。
さて、ここで『マトリックス レザレクションズ』に話を戻しましょう。
本作において、私たち観客がネオや他のキャラクターたちと共に直面するのは、『マトリックス』トリロジーにないしそこで描かれたネオやザイオンの物語そのものとの断絶です。
私たちが知っている「マトリックス」、私たちが知っているネオやトリニティー、私たちが知っているザイオンといった「集合的記憶」が解体され、それらはプログラム(ないしコード)となり、単なる「歴史記述」に成り下がっています。
これについては、過去作をプログラミングコードで制作されたゲームという位置づけで提示してきたことからも分かりますよね。
だからこそ、『マトリックス レザレクションズ』はもう一度『マトリックス』と同種の物語を微妙に形を変えて劇中のキャラクターたちに、そして映画を見ている観客に体験させることによって、キャラクターに、そして観客に「集団的記憶」との繋がりを回復させようとしたのです。
物語の冒頭に『マトリックス4』の企画会議が行われ、様々な人間が「マトリックスとは何たるか?」についての持論を展開し、ネオを疲弊させている一幕がありました。
このシーンは、本作の冒頭時点でのネオが『マトリックス』トリロジーとの繋がり(ないしその集団的記憶との繋がり)を喪失したことで、「マトリックスとは何か?」を見失い、さらには自分のアイデンティティを喪失している様を見事に表現しています。
また、本作でザイオンに代わって生身の人類の都市として描かれたアイオでは、ナイオビを中心に、ネオによる救済を「歴史」の外へと追いやり、ザイオンで起きた戦争も含めて、あくまでも「歴史記述」によって伝えられているに過ぎません。
だからこそ、ネオという救世主がアイオに帰還したという状況に際しても、ナイオビを含めて彼が成し遂げた契約と救済を信じようとしない人がいます。
バッグスの「奴らがあなたの物語を……わたしにとって大切なものをつまらないものに変えた」というセリフは、まさしくネオによる救済=「聖書」が記述によって単なる「歴史」にすり替えられてしまったという状況を如実に反映していますよね。
そして、『マトリックス』という作品の「歴史記述」的なものによる解体は、作品の中だけでなく現実世界でも起きていました。
有名なセリフやシーンが抜き取られ、作り手の意図しない形で引用されたこともありましたよね。
Qアノン陰謀論者やテスラ創業者のイーロン・マスク氏や元アメリカ大統領ドナルド・トランプ氏の娘に同作のセリフが恣意的な解釈で用いられたのは有名な話です。
つまり、19世紀以降の「歴史記述」によって神や神のような存在が排されたユダヤ人の「歴史」が構築されていったように、『マトリックス』においても「作り手=ウォシャウスキー姉妹」の存在が排された「歴史」が勝手に作られてきたんですね。
作品の中では「ネオ」の存在が排除され、現実世界においては「ウォシャウスキー姉妹」の存在が排除される。
作品の中では『マトリックス』トリロジーの物語とキャラクターたちが切り離され、現実世界ではウォシャウスキー姉妹の意図と『マトリックス』の物語が切り離されて広まっていく。
こうした2つのレイヤーで起きた「神」の排除と隔離によって生まれた大きな「断絶」を何とかして飛び越えようとしたのが、『マトリックス レザレクションズ』なのです。
だからこそ、本作が見せようとしたのは、革新的な全く新しい何かではなく、原典である『マトリックス』トリロジーへの回帰でもある必要がありました。
つまり、キャラクターと観客、そして作り手であるウォシャウスキー姉妹(今作はララ・ウォシャウスキーのみが参加)の三者を本来の『マトリックス』に立ち返らせることが最大の目的だったわけです。
本作のタイトルには、「レザレクション=復活」という言葉があしらわれています。
表面的に読み解けば「レザレクションズ」は「ネオとトリニティーの復活」のことを指しているということになるでしょうか。
しかし、本作が成し遂げたのは、キャラクターと観客と、そして作り手の三者の中に『マトリックス』を「復活」させることであり、そういう意味での「レザレクションズ」と解釈することもできるでしょう。
本作において、仮想世界「マトリックス」の支配権を握ったのは、「アナリスト」でしたが、彼はどこかユダヤ人の歴史を「歴史記述」へと転換した歴史家の存在を想起させます。
その上で、本作のラストでは、ネオとトリニティー(おそらくウォシャウスキー姉妹のメタファー)が「アナリスト」から「マトリックス」を奪還しました。
「マトリックス」は劇中の仮想世界を表す言葉ではありますが、ここではメタ的に『マトリックス』の作品そのものと読みかえることもできるはずです。
そう考えると、『マトリックス レザレクションズ』は、ネオ(&トリニティー)の手に、そしてウォシャウスキー姉妹自身の手に『マトリックス』を取り戻すために作られたのではないかと思わずにはいられません。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『マトリックス レザレクションズ』についてお話してきました。
かなり自分のこじつけと解釈を交えた内容ではありますが、より作品を深く味わうための一助になれば幸いです。
鑑賞直後からなぜ『マトリックス』シリーズが存在する世界で『マトリックス レザレクションズ』を再構築したのかを考えていました。
この演出はどうしても懐古主義的な色を強めてしまいますし、「新しさ」を追求するのであれば、完全に悪手と言えるでしょう。
しかし、『マトリックス レザレクションズ』はユダヤ教聖書的な「過去と未来」の感覚を持ち込み、私たちの時間の概念を超越したところにシリーズの「未来」を確立したのです。
ぜひ、皆さんの目でその「未来」を確かめてみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。