【ネタバレ解説・考察】「哭声/コクソン」本当にあのラストに納得してる?

アイキャッチ画像:©2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION「哭声」予告編より引用

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

さて、今回は3月11日より公開となりました映画「哭声/コクソン」を鑑賞してきましたので、その感想と考察とを書いていきたいと思います。

本記事は作品を鑑賞した方向けの記事になりますので、ネタバレ前提で進めさせていただきます。映画をまだご覧になっていない方は、お気を付けください。

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映画『哭声/コクソン』の感想

「本作を語る前に言っておくッ!俺は今この映画をほんのちょっぴりだが体験した。い・・いや・・体験したというよりは全く理解を超えていたのだが・・・・・・」

「あ・・・ありのまま、今、起こったことを話すぜ!おれはこの映画で見ているものはすべて真実なんだと思ったら、いつの間にかそれが揺らいでいた。」

「な・・何を言っているのかわからねーと思うが、おれも、何が起こっているのかわからなかった。」

「頭がどうにかなりそうだった・・・。恐怖だとか衝撃の展開だとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。」

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©荒木飛呂彦&LUCKY LAND COMMUNICATIONS 集英社・ジョジョの奇妙な冒険SC製作委員会 「ジョジョの奇妙な冒険:スターダストクルセイダーズ」より

「もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・・・。」

ポルナレフの名言を元に略感を書きましたが、まさに映画を観終わってこんな気持ちでした。全く嘘はありません。あまりにも衝撃が大きすぎてエンドロールが終わっても、しばらく座席から動く事ができませんでした。

恐怖とか衝撃なんてチャチな言葉でこの映画を表現することはもはや叶いません。そんな次元の話では決してないのです。

言うなれば、自分の根底にある何かを思いっきり揺さぶられたような感覚でした。

この感覚というのは、昨年、森達也監督が佐村河内守氏を題材に製作したドキュメンタリー映画「FAKE」を見終わったときに感じたものと非常に似ていたものだと思います。自分が信じていたものをグラグラと揺さぶってくる、まさに映画史に残る韓国産サスペンススリラーだったように思います。

 

 

考察:あらゆるものが信じられない映画

この映画を見た皆さんに一つどうしても聞いておきたいことがあるんですよ。

 みなさん本当にあのラスト腑に落ちましたか?あのラストに本当に納得しましたか?

あのラストを映画で描かれている通りに、受け取るならば次の事が事実だったという風になります。

  1. ジョングの娘は「日本人(國村隼)」によって呪いをかけられて、家族を殺害してしまいました。
  2. 悪魔の正体は「日本人(國村隼)」でした。
  3. 「祈祷師の男」イルグァンは「日本人」とグルでした。
  4. 「若い女」ムミョンはジョングの娘を助けようと試みていました。
  5. ジョングは助けようとしていた「若い女」ムミョンの忠告を守らなかったがために悲劇的なラストを迎えてしまった。

普通に考えるならば、これがこの作品の結論ということになります。確かに本作を見てきての結論としては一応妥当性があるものにはなっています。

しかしですよ。この結末に納得してしまうのは少し待ってほしいのです。本作の結論において重要な役割を果たしているのは、「悪魔」と胡散臭い「祈祷師」と正体不明の「若い女」なんですよ。しかも本作は錯乱状態にある主人公ジョングの視点を媒介として切り取られた物語です。そんな視点で語られた結論であるわけですよ。

では、もっと一般化しましょう。皆さんは先日、清水富美加さんが「幸福の科学」に出家するために事務所を退社した騒動に関してどのような印象を持ちましたか?「宗教」なんて胡散臭いもののために芸能界から足を洗うなんて、と内心軽蔑した様な印象は持ちませんでしたか?私は口には出さないものの内心そんなことも思ったりもしていました。というのも日本人は「宗教」観がほとんどないですよね。ゆえに目に見えないもの、実体のないものを信じるという感性は乏しいんですね。

1月に日本公開されたマーティンスコセッシ監督×遠藤周作の映画「沈黙/サイレンス」でもそんな日本人の宗教観が描かれていましたね。

(「沈黙/サイレンス」のレビューは以下のリンクからどうぞ)

参考:【ネタバレ・考察】「沈黙 サイレンス」<10の視点から語る12000字レビュー>

そんな、宗教観に乏しい上に、宗教に胡散臭いというイメージまで持っている人が多い日本人がこの映画を見て、この結末にすんなり納得できるんでしょうか??

國村隼が演じる「日本人」が悪魔でしたーなんてオチを額面通りに受け取るんでしょうか?

「祈祷師」なんて胡散臭い職業の人物が言っていることが正しいだなんてすんなり受け入れるんでしょうか?

私も映画を見た直後は妥当な結末であると錯覚していましたが、冷静になって考えてみるとこの結末は全く持って受け入れられないと感じるようになりました。なぜなら「悪魔」だなんてモノの存在は全く信じていないし、「祈祷師」だなんて胡散臭い人のいうことを真に受けるなんてとてもできないのです。

普段は「悪魔」なんて信じない、「祈祷師」なんて胡散臭いと思っているにもかかわらず、この映画を見終えた時、この結末に妥当性を感じてしまったのならば、もはやこの「哭声/コクソン」という作品の思うつぼなのではないでしょうか?

 つまるところ、我々の根底にある考え方や価値観というものが揺さぶられているんですよ!!

それは登場人物にも同じことが言えると思います。主人公のジョングは合理主義・証拠主義の最たるものである警察官という職業についています。しかし、物語の終盤では、彼は非合理的で、不確定な要素に振り回されていく事となります。また、終盤に「日本人」と対面する日本語通訳をしていたキリスト教徒の青年もそうです。悪魔には実体なんてないということを信じていたにもかかわらず、ラストシーンでは「日本人」には実体があるにもかかわらず、その姿がまるで悪魔のように見えてきます。

このように、作中の登場人物も自分の信条や価値観と言ったものを根底から覆されているのです。そして、ナ・ホンジン監督は本作を通して我々の根底にあるものに揺さぶりをかけてきました。そして、見事に我々は非合理で幽霊的な、普段なら一瞥もくれないような存在に妥当性を見出してしまうのです。我々はナ・ホンジン監督にしてやられたわけですよ。

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©2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION「哭声」予告編より引用

合理性と現実性を持つ存在をあえて疑わしく描き、非合理性と非現実性を持つ存在をあえて真実味があるように描くことで、我々は完全な混乱状態に陥るわけです。

極論を言うと、この「哭声/コクソン」という映画で描かれたことは、幻覚キノコが原因でした!と言うことにしてしまえば、妥当性もリアリティも保証されるんですよ。人に幻覚作用を及ぼす物質というものは現に存在していますし、錯乱状態に陥った人間が恐ろしい幻覚を見たり、狂気的な行動を取るということは現実に存在しています。

しかし我々は、映画を見終わって冷静になってみないと、この話はこう結論つける事ができるよね、なんて思いもよらないわけです。一番現実味のある可能性にすら考えが及ばないのです。そして、我々がこの映画を見て経験した感覚というものが、まさに劇中で登場人物たちが経験している感覚と同じものなのです。合理主義の権化たる警察官の主人公がどんどんと非合理なものに惑わされていき、それが現実だと錯覚してしまい、もはや合理的な可能性に考えが及ばなくなっていきます。つまり我々は劇中の登場人物たちと全く同じ経験をしているんですよ。

 劇場で映画を見ているだけのはずの我々も、もはやあの恐ろしい村の住人の一人なのです!!

冷静になって考えてみて、ようやくわかった「哭声/コクソン」という映画の持つ得体の知れない何かの正体が自分なりにわかったような気がしました。

考察:信頼できない語り手とその結末

みなさんに問いかけたい質問がもう一つあります。

 この映画で信用できるものってあると思いますか?

「この映画で起こっていることは曲がりなりにも作中では事実でしょ。」と言われる方、果たして本当にそうでしょうか?この映画で明確に現実ではないものとして登場するのは唯一主人公ジョングの夢の描写のみです。これは夢から覚めるというシークエンスがある以上現実とは区別されています。

しかし、それ以外の部分はどうでしょうか?かなり現実的にはあり得ないことが起こっていますよね。そうなのです。この作品では、現実と虚構の線引きが非常に曖昧、いやもはや存在しないと言っても過言ではないでしょう。ゆえにこの映画では、真実味を帯びて描かれているようなことが虚構であることも十分に考えられるし、逆に疑わしく描かれているようなことが真実であるなんてことが十分に考えられるのです。

だから、個人的な見解から言わせてもらうと、この映画で描かれていることは、起こっていることはすべて事実とは言い切れないのです。

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©2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION「哭声」予告編より引用

では、「信用できるのはこの視点、つまりカメラだ!」と言われる方がいるかもしれません。私は作品を見終わって、この映画で信用できるのはもうこの視点(カメラ)だけだな・・・と思っていたんですが、冷静になって考えてみると、もはや視点(カメラ)すら信用できないのではないかと思い始めました。

 文芸の世界には、「信頼できない語り手」なんて言葉がありますが、この映画の視点はまさに「信頼できない視点」ではないでしょうか?

マス・メディアの特徴として、物事のほんの一部を切り取って報道しているなんてことは良く言われますよね。それはと言いますと、メディアの意図や思惑が絡むことで、物事の本質が変容ないし、隠蔽されてしまうからなのです。

そして、この「哭声/コクソン」という映画の視点(カメラ)も我々をまさに一つの方向へ誘導しようと、明確に意図した上で我々に情報を提供してやいませんか??

というのもこの作品の視点(カメラ)というのは、全て國村隼演じる「日本人」が悪魔なのではないかという方向に誘導するために必要な情報を適宜提供しているからです。つまり、この作品を見て、実は幻覚キノコが原因でした、実は祈祷師のイルグァンが黒幕でした、実は若い女ムミョンが悪魔でしたなんて結論には達しないんですよ。可能性としては十分に考えられるにも関わらずです。

また、映画で幻覚キノコや幽霊的な題材を扱っている以上、映画の視点(カメラ)そのものが幻覚や妄想に取りつかれていたなんて可能性すら考えられるわけです。

つまり、我々がこの「哭声/コクソン」の物語を見る媒体として用いている映画の視点(カメラ)すら信用にはたらないのです。

この映画に、「疑え。惑わされるな。」なんてキャッチコピーがついていますが、まさにその通りなのです。この映画のどこにも真実が存在している確証がないのです。

真実や真理などどこにも存在しないといってしまうとこの映画はすごくニヒリズム的に捉えられてしまうかもしれませんが、そうではないと私は思います。

「哭声/コクソン」という作品が主張しているのは、「真実や真理が存在していないのだ」ということではなくて、「『真実や真理など存在していない』ということが真実なのだ」という視座だと考えている。つまり、ニヒリズム的というよりはポストモダニズム的なんですよね。

我々が一般的に信じていることに徹底的に疑いを投げかけて、その先にそんな今までの信条や価値観を覆す新たな考えを見つけて欲しいという狙いがこの映画には見え隠れしています。

だからこそ、この映画を見るときに、考えるときに、何も信じてはいけないのです。徹底的に疑いを投げかけなければならないのです。疑うことで自分なりのこの作品の本質を見つけてみてください。

「疑え。惑わされるな。」

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考察:ポストモダニズム的脱構築と真犯人

これが最後の考察になりますが、先ほどこの作品がポストモダニズム的だと評したのにはもう一つ理由があります。それを考えるうえで、一つ考えてみて欲しいのですが、この作品でジョングの娘の命を奪ったのは誰だと思いますか?

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©2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION「哭声」予告編より引用

映画で描かれた内容から判断するなら、単純に國村隼が呪い殺したという見方はできます。一方で、若い女ムミョンが結局黒幕だったとか、結局は全て幻覚キノコのせいだと結論付けることもできます。

私の個人的な見解から、述べるのであれば、娘の命を奪ったのは他ならぬジョング自身ではないかと思うわけです。

職場に来た娘を一人で家に帰して、娘が「日本人」と遭遇するきっかけを作ってしまったのもジョング。「日本人」の家に不法侵入したり、彼の犬を殺して挑発したのもジョング。「祈祷師」の祈祷を途中で終わらせたのもジョング。ムミョンとイルグァンの言葉を天秤にかけて、イルグァンの言葉を信じるという選択をしたのもジョングです。

つまり、全ての元凶はジョング彼自身なのです。ゆえに個人的に結論づけるならば、今作において、娘を殺したのはジョング自身なのです。

ここから、ジョングが犯人であるという前提条件を元に話を発展させてみたいのですが、なぜ、終盤、ムミョンからジョングが家に戻れば、家族が死ぬなんて発言が飛び出したのでしょうか?個人的にこのジョングが家に戻ると・・・という条件がすごく引っかかっていました。

そこでこのことに関して考えてみて、自分なりの結論を出してみました。

本編中に「餌」という言葉が何度か出てきましたよね。私はこの「餌」というものは人間の秘めたる本能や暴力性を目覚めさせるトリガーの事なのではないかと思うのです。

こう考えると、本編中の「餌に食いついてはいけない。」というイルグァンの言葉は、本能や暴力性を抑えろという意味に取れますし、「餌を飲み込んでしまった。」という発言は彼が本能や暴力性を受け入れてしまったという取れます。

本編中で、このセリフは、主人公のジョングと「日本人」の関わりを表すときに、祈祷師イルグァンの口から発せられます。1つ目のセリフは、ジョングに「日本人」とあってはいけないと促す時に、2つ目は、ジョングが「日本人」を殺して、山に投棄してしまった時に発せられました。

つまり、「餌」というのはまさに「日本人」そのもののことを指していると考えられるのです。あの「日本人」だけ人物名が明かされない点に疑問を持ちませんでしたか?

そこで、作中の「日本人」というのは、主人公ジョングの本能や暴力性を引き出すトリガー、つまり概念的存在であるという考え方が浮かんでくるわけです。

ジョングは娘が不安定な状態になったことから、次々に暴力的な行動へと身を落としていきます。「日本人」の家に破壊も辞さず不法侵入、そして「日本人」の犬を殺し、最期は「日本人」を殺そうとけしかけ、その死体を山に投棄しました。つまりジョングは、「餌」によって次々に本能や暴力性に引き寄せられて行っているんですね。

そして、「餌」を飲み込んだとき、彼はその本能と暴力性を取り込み、劇中で言う所の「悪魔」そのものになってしまったのではないでしょうか?これが、ムミョンの言うところのあなたが家に帰ることで、娘が家族を殺してしまうことの理由なのではないでしょうか?

ラストシーンで洞窟で異形の姿となった「日本人」の姿と惨劇の起きた自宅で娘を見つめるジョングが映し出されます。前者は、発現したジョングの本能と暴力性を、後者は、ここにきてやっとこの騒動の中心にいたのが、「自分」だったのだという絶望を表現しているように感じました。

この犯人が「自分」だったということに気づくラストは、オースターの小説「幽霊たち」や映画「ファイトクラブ」なんかでも使われている手法で、非常にポストモダニズム的と言われている手法です。

その点で、個人的には「哭声/コクソン」にはポストモダニズム的な雰囲気を感じました。

・ポールオースター『幽霊たち』

・映画『ファイトクラブ』

少し無理矢理感がある考察になってしまいました。

皆さんは、「餌」や國村隼演じる「日本人」だけ名前が明かされない理由をどのように解釈しましたか?ぜひ考えてみてください。

まとめ

最初にも言いましたが、本作品はもう恐ろしいなんて生半可な言葉では語り得ない作品なのです。自分の根底にあるものに疑いを突きつけてくる究極の映画作品なのです。

そして、映画に関して信頼できない要素に溢れていることから、本当に多種多様な考察や解釈が可能です。今回の記事で書かせていただいた3つの考察はあくまでも私個人の考えですので、ぜひとも自分なりの解釈を見つけてみてください。

 今日は夢に國村隼が出てきそうです・・・。

あとすごく思ったのは、アニメ「Fate Zero」の第18話の過去篇っぽくないですか?(笑)

当ブログでは同じく話題になった韓国映画『お嬢さん』の感想記事も書いております。良かったらそちらも読んで行ってくださいね。

参考:『お嬢さん』をバレンタインデーに見たらリア充を超えた!

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

16件のコメント

ナガさん。自分も本日見てきました!
「日本人」は「欲」そのものなのかなと思いました。だからこそ名前もないし、悪魔の様な姿であるのも、欲の恐ろしさへのメタファーにも感じました。なので「餌」とはジョングの娘を呪い、ジョングの欲を掻き立て、ナガさんの考察3の様に本能や暴力性に引き寄せようとした。つまり「日本人」も「祈祷師」も「ムヒョン」までもがグルの谷城を舞台にしたジョングをもて遊ぶゲームの様にも感じました。「ムヒョンからジョングに家に戻れば、家族が死ぬ」というのもゲームの中でジョングへ向けた唯一の救いの手なのかなとも。極限を言ったらファイトクラブ的に日本人も祈祷師もムヒョンもジョングも同一人物だったり?笑とか考えたりしました。
ジョングが「哭声」を上げるまで気付く事が出来ない様に、欲の恐ろしさをどこまでも感じました。「哭声」を上げる前に我々が気付ける様にこの映画自体が反面教師になってたりするのも素晴らしいと思いました…

atsukiさんコメントありがとうございます(^ ^)
「欲」ですか!なるほど。
確かに祈祷師も目撃者の女も全員、ジョングから生じてるって説も考えることができますよね!ちょっと今回の記事でそこまで広げる余裕が無かったので、改めて考えてみようと思います!
圧倒されすぎて、なかなかこの映画を反面教師に…とまでは考えが至りませんでした笑 確かに「欲」に関してもそうですし、ビビりで温厚な警察官があそこまで狂っていくっていう過程が強烈でしたね…。教訓にすべき点があるやもしれませぬ。

実はコクソンには編集の段階でカットされたエンディングシーンがあるそうです。
https://youtu.be/62bt5ZdRJ7w
この動画の1:50秒あたりからのシーンです。
監督曰く、ジョングの父性愛を強調するためカットにしたそうです。
いきなりのコメント失礼致しました。

通りすがりさん。コメントと興味深い映像ありがとうございます。
なるほど父性愛…。あとこれを描いちゃうとラストの解釈が一つに絞られてしまって面白くないですね。これをカットしたことでこの作品がよりレベルの高いものになってるように思いました!

早速読ませていただきました。
ナガさんの問いに答えるべく、フィルマークスの内容を切り取って引用させてもらい、自分の解釈を述べさせてもらいますね(笑)
ラストの見解ですが
“悪魔の証明”という言葉があるように、我々が住む日本国では悪魔の存在自体が空想の産物。
『沈黙-サイレンス-』でもあった
“日本人は自然の内でしか信仰を見出せない”
まさにこれです。
日本人は可視化できるものに宗教概念を持ちます。
ではなぜその不可視な存在である”悪魔”が見えたのか。
そもそも霊的な存在というものは信じ方によって神にも悪魔にもなります。
これは人の善悪にも通ずるものがあります。
クライマックスでの死んだはずの日本人の姿は復活という神(キリスト)を暗喩しているのではないか。
手には聖痕があることからもそれは明らかでしょう。
その後、その姿は悪魔のように変貌する。
神と悪魔、善と悪の両方が存在することになります。
それまで袈裟を着た日本人からはキリスト教を匂わすことはありませんでしたよね?
しかし、洞穴での日本人の姿は神と悪魔、キリスト教における象徴的な存在。
つまりは対面した者の心を、信仰を思い描いた姿を映し出す鏡のようなものではないだろうか。 続く

続き
非現実的なものが現実的に表現される。
この手法はホラー映画でもよく用いられる手法ですが、それはあくまでも主人公の主観で描かれ、鑑賞者側も同じ視点で見させられ、ミスリードさせられている。
恐怖のあまり目に見えない幽霊の姿が見えてしまうといった一種の錯覚に近いものでしょう。
今作も同様に、鑑賞者側を惑わせる作品であることは間違いない。
主人公ジョング目線で見た日本人の姿は自分の根底にある闇だったのだろうと解釈しています。
何を信じるかという問いに対してですが
この惑わせる脚本演出は監督の意図したもの。
解釈を鑑賞者側に委ねたとも言える。
特に宗教概念の違いで、人それぞれ様々な解釈が出来る。
何を”信じる”のか、は映像や登場人物の視点ではなく、己の目で見て感じたことなのではないでしょうか。
長々とすみません。
餌という言葉、確かに多かったですね。
暴力性の引き金…とても興味深い内容でした^ ^
餌とはなんだろうか、自分なりに考えてみることにします(笑)

レクターさんコメントありがとうございます。
おそらく作品の最初にキリスト教の福音書の引用があることから考えても、キリスト教をベースに読み解くというのが正攻法的な解釈の仕方かなと思います。復活思想もそうですし、娘が狂ったように魚を食べる点や、祈祷師が逃げる時に飛んできた繭?をキリスト教の側面から解釈されてる方もいらっしゃいました。僕としても非常に頷ける解釈でした。
多分僕の解釈はかなり自己流というか邪道だとは思います笑
國村隼の日本人が人物を映す鏡というのは非常に納得ですね。やはり自分の信ずるもの、信仰への疑念によって彼の見え方が変わってくるんだと思います。という点で今回主人公=日本人であるという自分の解釈も近いものなのかなとは思います。
結局自分を信じる、自分の内なる神を信じるという点では、その主題は沈黙に通じるものもあるやもしれませんね!

ききさんコメントありがとうございます。
まとめ記事興味深く読ませていただきました。自分の解釈は随分邪道なところにいったなあと、読み返して笑っちゃいました。キリスト教の側面から読み解くというのがやはり正攻法だなあと思いました!!

記事、興味深い内容でとっても楽しかったです。
僕の頭の中で渦巻いている考えをどこかで吐き出さないとと思い、書かせていただきます。
大筋のところ、この映画は、土着神(ムミョン)と外来神(國村)との間で繰り広げられた縄張り争いに巻き込まれた人々の姿を描いたものと考えています。
國村さんを悪魔だと決めているレビューがネット上で見られますが、それはちょっと違うと思います。
まず、パクチョルベさんを助けようとしたところ、最後に見せた手のひらにあった釘の跡などを見ると単純に悪魔ではないように見えます。
もし、最後の悪魔に化けるところや、韓国映画に出演している唯一の日本人ということを理由に悪魔だと認識するのは、またしもナ監督に惑わされることになると思われます。
本内容にもどりますと、
不可解な病や殺人事件が起こる理由は、ムミョンによるものと思われます。外来神の餌に食いついた自分の縄張りに住む人々への罰として、そのような苦しみ、試練を与えていると思います。神とは、人間に飴と鞭を与える存在で、自分に対する信仰が弱くなるものや裏切ろうとするものに対しては容赦なく罰を与える存在です。
外来神がコクソンの人たちに巻いた餌は正確に見られませんが、神父さんとの会話の中で、外来神に対して決して悪い噂だけでなく、良い噂もあるということがあります。外来神からの餌に食いついてまだ土着神に罰を受けてないところでは良い噂が流れていたのではないかと。もしくは、その良い噂が外来神の餌であったかも。

つづき、
ムミョンが巻いた餌(コクソンの人々の頭に植え付けようとする餌)は、外来神に対する悪い噂。國村さんが巻いた餌は自分に対する良い噂。
つまり、話はこのような流れかと
外来の神の餌を食べた人が現れる(映画には出ない)→地元の神の罰がその人に当たる(罰は、湿疹、強暴性、狂いなど)→地元の神により餌が巻かれる(外来の神に対する悪い噂)→罰を受ける人の中で、その餌に反応しないと死。反応すると外来の神を排除する行動に移る(ジョング)→外来の神の防御(イルグァン)→地元の神と外来の神の戦い(地元の神の使い手:ジョング、外来の神の使い手:イルグァン)→戦いの一段落→外来の神の復活→使い手に与えられた最後のテスト(ジョング:家族の命、イルグァン:蛾の襲撃)→決着、地元の神の使い手の喪失(地元の神を信じきれなかったジョング家の死、地元の神による罰)
ゾンビ化した人物は、地元の神に捨てられ、外来の神に最後まで助けられなかったため、どっちの世界にも行けず、生きたものでもなく死んだものでもないゾンビ化したのではないかと。
結局のところ、ムミョンと國村には善し悪しがなく、自分を信じるものに対しては善い神のように、信じないものに対しては悪魔のように見える。ムミョンと國村を見る人々によって、定義され、その存在意義が決められるものかとも思っています。
頭の中でまだ整理がつかず、観終えたばっかりで、混沌とした解釈となります。すみません。

『上手い演出だなぁ』とは思いましたが、やはり下地として日本人への先入観、韓国の社会的背景がなければ、そこまで陽の目を見なかったのではないでしょうか。
いつの時代でもそういう面はあり、興業的な意味でもやむ無しだったかもしれません。
しかし話自体を成立させるつもりなら、韓国人のよそ者、村のはじき者なんかでも良かったのではないかと思います。
あのラスト、國村隼の顔が悪魔のようになるだけでは結局『日本人 = 悪魔』という価値観が拭い切れないまま終わるので、その部分だけが非常に残念でした。

コメントありがとうございます!
日本人が見ると、日本人=悪魔みたいな印象を受けるということはつまりこの映画がやはり見る人の写し鏡になっているんだと思います。

ジョーカーさんコメントありがとうございます!!
この作品をスッと受け入れている自分な気がついた時に、それがかえって恐ろしく感じられますよね!
この映画は本当に身体の奥深くを揺さぶる恐怖を孕んでますね(°_°)

下記のサイトによると監督は國村さんに「“山の中の男”は、旧約聖書が信仰されている世界に突如現れたジーザス・クライストのイメージ」と語ったそうなので、劇中の日本人=イエスということなのかもしれないですね
https://cinemarche.net/suspense/kokuson/

ほたるさんコメントありがとうございます!

なるほど。それは非常に面白い解釈ですね。

つまりキリストに対して疑念を抱いていた律法学者たちのような視点で、我々は山の中の男を我々見ているのかもしれないということにもなるということですね。

また作品について考えてみたくなりました。ありがとうございます。

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