【ネタバレ】『フロリダプロジェクト』感想・解説:ラストシーンに込められた子供から大人へのメッセージ

アイキャッチ画像:(C)2017 Florida Project 2016, LLC. 映画『フロリダプロジェクト』予告編より引用

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『フロリダプロジェクト』の感想や解説を書いていこうと思います。

アカデミー賞レースでも大きな話題になっていた作品ですが、ようやく日本でも公開されることとなりました。

特にそのラストシーンがかなり衝撃的で大きな波紋を呼んだことでも知られています。

良かったら最後までお付き合いください。




あらすじ・概要

全編iPhoneで撮影した映画「タンジェリン」で高く評価されたショーン・ベイカー監督が、カラフルな風景の広がるフロリダの安モーテルを舞台に、貧困層の人々の日常を6歳の少女の視点から描いた人間ドラマ。

定住する家を失った6歳の少女ムーニーと母親ヘイリーは、フロリダ・ディズニーワールドのすぐ側にあるモーテル「マジック・キャッスル」でその日暮らしの生活を送っている。

周囲の大人たちは厳しい現実に苦しんでいたが、ムーニーは同じくモーテルで暮らす子どもたちとともに冒険に満ちた日々を過ごし、管理人ボビーはそんな子どもたちを厳しくも温かく見守っていた。

そんなムーニーの日常が、ある出来事をきっかけに大きく変わりはじめる。

主人公ムーニー役にはフロリダ出身の子役ブルックリン・キンバリー・プリンス、母親ブレア役にはベイカー監督自らがInstagramで発掘した新人ブリア・ビネイトを抜擢。

管理人ボビー役をウィレム・デフォーが好演し、第90回アカデミー助演男優賞にノミネートされた。

映画comより引用)

予告編

アメリカの家族事情について

この映画を見た時に強く感じたのが、アメリカ感なんです。

この映画って日本ではまずありえない話ですよね。絶対に作れないし、そもそも理解されづらい部分も多いと思います。

日本で共感を得るのは例えば坂元裕二さんが脚本を書いた『woman』というドラマのようにシングルマザーが苦しい生活の中でも何とか子供のために・・・と奮闘する親子の物語なんですよね。

子どももそんな母親の苦労を感じ取って…という双方向的なベクトルが織りなす物語が好まれる傾向にあるのは確かだと思います。

一方の本作『フロリダプロジェクト』に登場する母親ヘンリーって娘のムーニーに対して、あまり「母親らしいこと」をしようとしませんし、放任しています。かと言って育児放棄をしているわけでもないですよね。

この微妙な距離感って日本の伝統的な親子観の下では成立しづらいものだと感じました。

だからこそ日本人の多くが『フロリダプロジェクト』を見ると、間違いなくヘンリーはクズ、彼女の友人たちはちゃんと母親をしていて立派だという視点になると思います。

ナガ
これはレビューサイト等で他の方が書いたレビューを読んでいても感じましたね。

ただ、こういった感想が出てくるのは、我々の社会がそうだからとしか言いようがありません。

アメリカと日本の家族事情は大きく異なっているのです。だからこそ本作を理解しようとすれば、当然アメリカの家族事情を知っておく必要があります。

まずアメリカのシングルマザー事情についてです。現在のアメリカで未婚の母親の元に生まれてくる子供の割合は4割にも上ると言われています。

もちろんこれは未婚のカップルの間に子供が生まれるのは当然と言うアメリカの価値観があるからこその数値です。

ただアメリカの未婚のカップルが子供が9歳になるまでに別れる確率は何と50%超とも言われています。

一方で結婚していた場合はどうでしょうか。アメリカの離婚率は世界でもトップクラスで、こちらも2組に1組に近い割合で離婚が起きていると言われています。

このため2000年代以降アメリカではとにかくシングルマザーが増えていますし、シングルマザー世帯の貧困問題が顕著になっています。

他方で再婚する場合も多く、それによってアメリカでは子供が血の繋がった両親2人と暮らしているというケースそのものが珍しくなりつつあります。

アメリカの家族の内部に入っていくともっと面白いことが分かります。

基本的にアメリカでは夫婦の寝室と子供の寝室を分けるなんてことが言われています。しかも子供がまだ小さい内からですよ。

日本ではトラディショナルな寝室の光景として「川の字寝」なんて言葉があるくらいですから、子供と両親が一緒の寝室で寝ているケースは多いです。(近年減少傾向にあるかもしれませんが…)

ベビーシッターなんて文化が根強いのもアメリカらしいところです。日本では基本的に両親が子供を連れて外出するのが当たり前ですが、アメリカでは子供をベビーシッターに預けて、両親だけでデートに出かけるなんてことも日常茶飯事だったりします。

このようにそもそも日本とアメリカで家族観や家族における子どもの立ち位置なんかに大きな違いがあるということを理解しておく必要がありますね。

アメリカの家族事情が知りたいのであれば『クレイマー、クレイマー』がおすすめです。

この作品を見ると、アメリカの家族事情が非常によく分かります。




個人主義と子供

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(C)2017 Florida Project 2016, LLC. 映画『フロリダプロジェクト』予告編より引用

では先ほど挙げたようなアメリカの家族事情はどういう考え方や価値観に由来しているのかというお話になりますが、これは徹底的な個人主義ですよね。

これはアメリカの国を見ても明らかですよね。

日本は国家に権力が一極化していて、今徐々に地方分権を進めてはいますが、なかなか上手くいきません。その一方でアメリカは各州が強い力を持っています。そのため州ごとに法律が違うなんてことも当たり前です。

他にも日本には国民健康保険なんて制度がありますよね。これはアメリカでは考えられない制度です。アメリカでは基本的に個人個人で保険に加入するのが当たり前です。

このようにアメリカは常に個人の自立、独立を重視する気風が強いと言われています。

フロンティア精神の元に、他社に依存することなく、権力に縛られることもなく、自由に独立した個人として生きていくことこそが理想であるという価値観がアメリカ人の中に深く根づいていることも一因として挙げられるでしょうか。

そして彼らはその個人主義を自分たちの家族の中にまで持ち込みます。

日本の家族において中心は基本的に血縁関係です。つまり夫婦の関係よりも親子の関係の方が重要視される傾向があります。一方のアメリカでは違います。基本的に親子の関係よりもまずは夫婦の個々の人間としての存在や意志が重要視される傾向にあるのです。

ここまで申し上げるとアメリカで離婚率が高く、シングルマザーが多い理由が何となく分かってきたんじゃないでしょうか。

日本では離婚をするとなったら、または子供がいるカップルが別れるとなったら、真っ先に子供のことが問題となりますよね。子供はどうするんだ?と。

それがために夫婦としての関係はほとんど破綻しているにもかかわらず、子供のために結婚生活を継続している家庭も存在していると思います。ただそれって極めて日本的なんです。

アメリカでは基本的に結婚も離婚も個人の契約でしかありません。だからこそ離婚する際に子供はほとんど顧みられません。そして離婚が成立した暁には、子供の負担を大体のケースでは1:1に折半します。

最近Netflixで公開されアカデミー賞レースでも注目を集めた『マリッジストーリー』という映画を見てみても、そんな構造が透けて見えますよね。

この作品は確かに子どもの親権を巡る夫婦の戦いを描いた作品ではありますが、その夫婦はと言うと、自分たちの仕事やキャリアがまず頭にあって、その上でアメリカの西海岸と東海岸で別居することとなり、その生活領域にいかにして子どもを迎え入れるかを考えていました。

そんな2人がお互いに歩み寄りながら、子どもという接点を持ち、これからも夫婦とは違う関係性で繋がっていくという着地点に辿り着くのが『マリッジストーリー』でした。

アメリカの伝統的な個人主義が垣間見える設定や物語ではありますが、この作品ではその変容を描いているのが印象的ですね。

ナガ
さて、映画『フロリダプロジェクト』に話を戻しましょう。

これを踏まえた上で本作のヘイリーとムーニーの親子の関係性を見てみると実に腑に落ちませんか?ヘイリーって基本的に子供にほとんど干渉しようとしません。食事だってまともに用意しようとしません。子供のために仕事をしようとすらしません。

なぜなら彼女にとって子供は自分という個人から独立した存在だからです。

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(C)2017 Florida Project 2016, LLC. 映画『フロリダプロジェクト』予告編より引用

だからこそ子供を1日中ほったらかしにし、夜になると友人とパーティーに出かけていき、またある夜は子供がいるにもかかわらずモーテルの部屋で売春をするのです。

このようにヘイリーと言う人物には、アメリカの個人主義的な考え方が強く反映されています。

では、彼女はムーニーを愛していないのでしょうか?と言われると、それは違います。

終盤に児童局に娘を引き取られていくシーンでも、日本のドラマのように涙を流しながら娘を追いかけていくなんてことはしないですよね。動揺しながらも彼女は荷造りを淡々と行います。

しかし、児童局の人たちが子供を見失った暁には、彼らに「母親失格と言ったのはどの口だ!」と言わんばかりにブチギレます。

正直、私も含めて、この映画を見ていた多くの人は、彼女の「母親失格」のレッテルを貼っていたんじゃないでしょうか。

ただ、この一連のシーンを見ている中で、確かにヘイリーはムーニーを愛していたんだということが、伝わってきますよね。

ヘイリーという人物は、どこまでもアメリカ的な個人主義を体現していて、それが故にムーニーをあまり顧みないという側面はあります。

しかし、そこにだって彼女なりの愛があるわけで、それはなかなか外部の人間からは理解しがたいものなんですよ。

そして、もっと言うなれば「親の愛」というものを子どもの側が感じ取ることもまた非常に難しいものです。

ナガ
「親の愛」は離れてみて初めて分かるなんてことも言われるくらいですからね…。

今作は徹底的にムーニーの視点、つまり子どもの視点から物語を展開しています。そんな映像を見ていて、ヘイリーの愛情を私たちが感じ取りにくいという構造は、まさしくそんな「親の愛、子知らず」な状況を体現しているとも言えます。

だからこそ、あのラストシーンが何とも言えないほどに美しく輝くのでしょう。

 

ラストシーンに込められた子どもから大人へのメッセージ

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(C)2017 Florida Project 2016, LLC. 映画『フロリダプロジェクト』予告編より引用

さて本作のラストシーンは多くの人が「どういうことだ?」と首を傾げたことだろうと思います。

今回は私のラストシーンへの解釈を書かせていただけたらと思います。

本作で注目してほしいのが大人と子ども、とりわけヘイリーとムーニーのリンクです。

例えばムーニーは他のモーテルで車に唾を吐きかけたり、空き家に放火したりと基本的にルールや規則、法律を破り放題ですよね。しかしそれを指摘されたところで悪びれる様子もありません。

一方でヘイリーも盗みや押し売り、売春、ドラッグなど法を犯すようなことをたくさんしています。それでいて反省するようすもありませんよね。

他にもムーニーは夏季休暇中ということもあり一日中遊んでいますよね。

一方のヘイリーも仕事をせず1日中ダラダラとしています。

このように本作ではヘイリーとムーニーが非常にリンクする形で描写されています。

これがラストシーンを解釈する上で重要なことなのではないかと個人的には考えました。

もう1つ注目したいのが本作に登場するモーテルです。

フロリダ州にあるそのモーテルはカラフルでしかもメルヘンチックな名前がついていますよね。ムーニーが暮らしているのは「マジックキャッスル」という安モーテルです。

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(C)2017 Florida Project 2016, LLC. 映画『フロリダプロジェクト』予告編より引用

この2つを踏まえた上でラストシーンを読み解いていきましょう。

本作の衝撃のラストシーンはまさに子供から大人に向けられた小さな反逆なんだと思います。

先ほどから申し上げているようにアメリカにおいては個人主義の気風が強いです。それが家族に持ち込まれた結果、犠牲になるのはいつだって子供なんです。親の個人主義に振り回された結果、不利益をこうむってしまうのは子供でしかないんです。

それでも大人は自分の個人主義を振りかざして、子供を優先するのではなく、自分たちの都合を優先して離婚やシングルマザーになるという決断をしてしまいます。

近年のアメリカではその伝統的な精神たる個人主義が1つの問題となっています。行き過ぎた個人主義の先に待つのはエゴだからです。そんなエゴの表出がアメリカでは多くの社会問題を生んでいます。

自分のことしか考えられないのが子供、他人を思いやれるのが大人、しかし現代アメリカが抱えるエゴイズムが浮き彫りにするのは自分たちのことしか考えない大人たちの姿です。

その姿はまさしく『フロリダプロジェクト』のヘイリーに重なるとは思いませんか?

でも、先ほども申し上げたように確かにヘイリーだって彼女なりのやり方で、娘を愛していたわけで、それが終盤になって一気に表出していきます。

興味深いのは、鑑賞している私たちが彼女の娘に対する愛情を明確に言葉として感じられたのが、ムーニーがいない空間で繰り広げられていた児童局の職員との会話だったということでしょう。

親には親の都合があって、そしてそれぞれの子どもの向き合い方や愛し方がある。でも子どもの視点で見ると、実はそれが伝わっていないということもあるのです。

今作『フロリダプロジェクト』に登場する大人たちって、たしかに子どもの目から見ると、自分を支えたり、守ってくれているように見えないかもしれませんが、大人が見れば、子どもを思ってのことだということは分かります。

そして分かりにくいですが、確かにヘイリーだってムーニーのことを思っているのは分かるんですよ。

しかし、徹底的に子どもの視点にこだわった本作は、ラストシーンで強烈なカウンターを加えて見せました。

ムーニーたちは、ラストで「ディズニーランド」のお城で暮らしてやると言わんばかりに飛び出していきました。

子どもたちは自分の望む世界に生きたいと願っても、どうしても親の都合、大人の都合でそれを壊され、振り回されてしまいます。

もっと言うなれば、子どもは親の経済状況に大きく左右される傾向にあり、生まれた環境で人生の可能性が制約されてしまうという点も指摘されます。

なぜ、自分たちは無限の可能性をもって生まれてきたのに、親や大人に左右され、自分たちの世界を壊されなければならないのか、進むべき道を、暮らすべき場所を決められなければならないのか。

先ほども書いたように、ヘイリーとムーニーはリンクするように描かれています。

そこには、大人と子どもというものをリンクさせようとする意図が見え隠れしていたのではないでしょうか。

つまり、大人には選んだり決断したりする権利があるのに、なぜ子どもにはないのかという疑問と反抗を本作『フロリダプロジェクト』は子どもの純粋な視点から描いているというわけです。

この映画を見ている私たちは、それが何の解決にもならないことは分かっています。現実はもっと苦しいものです。

それでも、子どもたちには無限の可能性があり、イマジネーションがあり、彼らにもどこにだって行ける足がついているのだということを確かに感じさせてくれる作品となっています。




ヘイリーと母性

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(C)2017 Florida Project 2016, LLC. 映画『フロリダプロジェクト』予告編より引用

さて本作を読み解く上でもう1つ考えてみたいのが、ヘイリーと母性という視点ですね。

基本的に映画などで登場人物の行動や考え方が理解できない時に、一旦自分の価値観から離れた視点から考えてみるのは非常に大切なことです。

子供を産めば、自動的に母親になるなんてことはありませんし、女性に生まれつき母性が備わっているなんて話は神話紛いのものです。

日本でも母親が子供を虐待するニュースなんかが報道されると「母性の喪失」だなんて声が挙がりますが、そもそも母性は誰しもが元々もっている性質ではなく、子供とのかかわりの中で後天的に付与されるものですから、「喪失」というワード自体がずれています。

本作の主人公ヘイリーは本編中でほとんどムーニーの母親らしい側面を見せないんです。母親として当然すべきことをほとんどしてあげていないという有り様でした。

これはなぜなのかと考えてみた時に、ヘイリーにはそもそも私たちが一般的に定義するような「母性」が発達していない、欠落しているという視点が浮かび上がります。

ダルデンヌ兄弟『ある子供』という映画では、自分の子供を人身売買に売り渡したことを喜々として恋人に報告する道徳観が欠如した主人公が描かれました。

本作のヘイリーの行動の不可解さもそう考えると腑に落ちてきます。

今月の頭に公開された映画『ラプラスの魔女』で映画版ではカットされていたのですが、原作では先天的に父性を欠落して生まれてくる男性がいて、それが家族を持った時に表出して虐待などに走ることがあるという旨が述べられていました。

我々は母親である彼女を見て、彼女には当然母性が備わっているものであるとする母性神話を当てはめようとしますが、そもそも彼女には母性なんてものは無かったし、発達していなかったのかもしれません。

ただ、ヘイリーはそういった「母親らしさ」が分からない中でも、自分なりにムーニーを愛そうとしていたことを忘れてはいけません。

つまり、何が言いたいのかと言うと、外部の人間や他人が、勝手にその人の価値や愛を、一般的な尺度でもって決めつけることは実は難しいのだということです。

児童局の人間は、ヘイリーに対して「母親失格」だなんて言いますが、では「母親」という尺度は誰がどのように決定づけたものなのでしょうか、そしてその一般的な尺度で個別の事例に優劣をつけることが正しいと言えるのでしょうか。

もちろん、母親がいくら自分なりに愛していたからと言い張っても、それで子どもに被害が及ぶ可能性もありますから線引きは難しいとは思います。

そんな不器用な彼らが、必死に子供を愛し、育てようとしているそのプロセスを評価し、もっとサポートできる体制ができていれば…なんてそんなことも考えさせられましたね。

 

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『フロリダプロジェクト』についてお話してきました。

本作の撮り方の巧さが光っていたのは、大人の世界をあくまでも子供の視点から描くという作品構造ですよね。

1番度肝を抜かれたのはやはりお風呂のシーンです。

子供の視点からはお風呂の中しか見えていませんが、そこから1歩外に出ると、ヘイリーが男に身体を売っていたという何とも物悲しい事実が待ち受けています。

他にも本作は徹底的に子どもの視点から見た世界を描こうという演出が一貫していて、それがラストシーンでしっかりと作品の主題にも繋がってきたので素晴らしかったですね。

美しい映像も相まってまさに「真夏の奇跡」と呼ぶにふさわしい映画に仕上がっていました。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

4件のコメント

はじめまして。母性、なんてスタンダードはないんですよね…その時、その人の対処が幾通りもあるだけなんですよね…願わくば、ウィレム・デフォーおじさんみたいな人がいた、とコドモたちの記憶に残ってほしいな。

@さるこさん
コメントありがとうございます!
デブォーおじさんのあの手を差し伸べようとするもどうしようもないという切ない感じが素晴らしかったですね〜

今更ながらこの映画を観て、ここのブログを拝見させていただきました。
このブログでラストの解釈があてはまって凄くスッキリできました。なんかわからないですけど、ありがとうと感謝したくなりました。ありがとうございます。

ちきんさん、コメントありがとうございます!

もちろんいろいろな解釈があることと思いますが、参考になったようでしたら幸いです。