【ネタバレ考察】映画『怒り』:その怒りの表現と犯人の動機について

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

試写会にて一足早く「怒り」という作品を見てきました。

この作品は李相日監督脚本と原作吉田修一というまさに「悪人」タッグで映画化されることとなった映画です。。

アイキャッチ画像:©映画「怒り」製作委員会 「怒り」ポスターを引用

概要

この「怒り」という作品は千葉、東京、沖縄という3つの場所で起きた出来事が「怒り」という言葉の下に収束していく群像劇となっています。そのため、それぞれの場所に物語に絡んでくる重要人物が3人ほどずつ登場します。

この時点でこの原作がいかに映画化が難しい題材であるかはお分かりいただけるでしょう。この作品を完結させるにはその主要人物たち全員に掘り下げが必要になって来るし、全員の物語を収束させなくてはなりません。絶妙なバランスの上に成立した作品であるがゆえに、容易に映画に落とし込むことができないのです。

しかし今回李相日監督をはじめとする製作陣は巧みにその要求に応えて見せました。邦画にありがちなくどいほどの説明調はそこにはなく、適度に人物たちを描き出し、そして決して説明不足、描写不足を感じさせませんでした。

この手腕には本当に脱帽です。原作、そして映画でもこの作品のクライマックスは本当に秀逸であり、全員の物語が「怒り」という言葉の下にリンクする最大の見せ場となっています。そのラストをこれだけ観客の心を揺さぶる重厚感ある仕上がりにできたのは、ひとえに人物描写の成功ゆえでしょう。


考察:李相日監督は如何にして「怒り」を表現したか?

この作品で私が注目したのは映画における、怒りの表現についてです。怒りという感情は確かに映像で表現しやすいように見えます。声を荒げるだとか、暴力描写を見せるだとかそういうカットを見せれば怒りという感情は確かに観客に伝わるでしょう。

しかし考えてみてほしいのです。こういったわかりやすい怒りの表現は、その対象である人やモノが明確でありかつ自分ではないことが前提条件となります。

自分が自分に対して感じる怒りを映画で表現したいとなるとどうすればそれを表現できるのだろうか。また人やモノという範疇に含まれない、自分にはどうすることもできないほど大きなものに対する怒りを映画で表現するとなるとどのように見せればよいのだろうか。

この作品でそれを表現するために使われた表現はずばり「静と動」です。登場人物たちのそんな「怒り」がどのように映画として表現されたのか、ぜひその点に注目してみてほしいと思います。まさに観客の心を強く握りしめるような素晴らしい表現になっています。

カメラワークのすばらしさ

最後に触れておきたいのはカメラワークの素晴らしさです。映画「悪人」でも印象的なカットがいくつもあったが、今回の「怒り」にも秀逸なカットが散見されます。個人的に特に印象的だったのは以下に掲載する予告にも登場した2枚のカットでした。

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©映画「怒り」製作委員会 「怒り」予告編より引用

この2枚のカットについて今回の記事では深く語るつもりはありません。ただこの2つのカットがなぜ素晴らしいかを語るのは野暮に思います。

ぜひこの作品を見るときに本編に登場するこのカットに注目してほしいと思います。この作品を見終えた後、この2枚のカットが果たしてあなたの目にはどのように映るのでしょうか?

犯人の動機とは何だったのか?

今作品における犯人はまあ言ったら自尊心の塊みたいな人間なわけで、自分は常に人より高いところにあるみたいな自負で生きているわけです。だから他人の不幸や苦しみを見ると優越感を感じてしまうのです。

そんな人間。そんな人間に被害者は哀れみや同情の感情を感じてしまったわけです。そしてその感情に基づいて犯人に対して憐れむような行動を取ってしまいました。それは犯人が「信じて」た絶対的な自分の優位性の転覆に他ならないわけです。

だから犯人も自分が信じていたものを否定されたことに「怒り」を感じた1人なんだと私は思います。

死人が生きかえる、生きかえらせることができると考えているのも、肥大化した自尊心ゆえ。彼が自分を他者よりあまりに優位なものだと考えているゆえの行動です。

だから彼は、知念に包丁を向けられても全く動じないのです。犯人は自分が優れている。つまり自分は死をも超越しているとすら考えているのかもしれません。

あまりにも肥大化した自尊心だけが彼を生かしていたのです。

そして信じてきたもの、自分が絶対的に信じてきたものが崩れる時に人が感じる「怒り」は計り知れないものなのです。知念と犯人の2人がとった行動は、2人が全く違う人間であり、全く違うバックグラウンドを持つにもかかわらず、実は全く同じ「怒り」に突き動かされたものだったのです。

犯人の怒りや動機についてみなさんの考察も聞かせていただきたいです。描かかれていないものをわからないとあぐらを書いて批判するのではなく、描かれている部分から考察していく方が建設的です。ぜひ考えてほしい部分です。

まとめ

邦画豊作の年にありながら決してそこに埋もれることはなく、輝きを放つ本作品。私は映画を見ていただけなのに、心を押しつぶされるような感覚に襲われました。

この感情は言葉にはできないし、きっとこの作品を見た人の中にしか存在できないものである。みなさんにぜひその感覚を味わっていただきたいと思います。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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