映画『万引き家族』はなぜ「万引き」を描かなかったのだろうか?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガです。

今回は急遽映画『万引き家族』について書きたいことが出来たので、お話してみようと思います。

短めの記事になるとは思いますが、良かったら最後までお付き合いください。

できるだけ作品の展開に触れないように書いていくつもりですが、記事の都合上どうしても言及する部分もあるかと思います。作品を未鑑賞の方はお気をつけくださいますようよろしくお願いいたします。

映画『万引き家族』はなぜ「万引き」を描かなかったのだろうか?

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(C)2018フジテレビジョン ギャガ AOI Pro.

本作『万引き家族』はカンヌ映画祭でパルムドールを受賞するや否や国内でも大きな話題を集めました。そしてその話題度の高まりに伴って、『万引き家族』という作品のタイトルが批判されることとなりました。日本が「万引き」を描いた作品で国際映画の舞台で賞を受賞したことは恥だみたいな意見も見かけました。

これに対する私の答えは「映画ってそういうものだから。」になります。映画とはそもそも我々の生きる世界とは全く異なる世界や価値観を表現できる場であるはずじゃないですか。『ハリーポッター』の作者としても知られる作家のJ・K・ローリング氏は2008年にハーバード大学の卒業式のスピーチで人間の最大の武器は「想像力」であると語りました。

人間は自分とは異なる背景や経験に裏付けられた他人の考えや心情をその「想像力」でもって推し量り、共感的な関係を築くことが出来ると彼女は述べました。映画というものはまさしくそうで、自分とは全く異なる世界で、自分とは異なる人生を生きる人の姿を見て、共感的にそれを楽しむことが出来るんです。(もちろん共感できないからこそ面白い作品もありますが)

だからこそ映画の中の世界は我々の価値観に縛られる必要がありません。映画『万引き家族』が「万引き」で批判されるくらいなら、この世界に「人を殺す」シーンが登場する映画なんて存在できるはずがないじゃないですか。

ここまでが最近話題になっている問題に対しての私の回答です。

ここからは『万引き家族』はなぜ「万引き」を描かなかったのだろうか?という記時のタイトルにもしているテーマについてお話をしていきます。

本作『万引き家族』において私が最も注目したのは「万引き」という言葉がタイトルに含まれているにも関わらず、この映画の本編中で「万引き」という言葉がほとんど登場しない点です。

この映画に登場する治たちの家族は、確かに仕事をしていないわけではありませんし、初枝の年金もありますから万引きをせずとも質素に暮らしていけるだけの収入はあったのかもしれません。それでも治は祥太に対して「万引き」を教えてはいるんです。

ただこの時、治は「万引き」という言葉を一切使いません。指をくるくるしてその手を額に当てる動作で「これ」とか「あれ」といった指示語を用いています。そしてスーパーに並んでいるものは「まだ誰のものでもないものだから」と言って、その行為が「悪」であること教えていません。そのため祥太は「万引き」をある種の「仕事」だと捉えている様子が伺えますよね。治が家長として勤めている役割を祥太は見習い、いずれは自分1人で出来るようになるんだと意気込んでいるわけです。

つまり彼らにとっての「あれ」とか「これ」は、我々の価値観で言うところの「万引き」とは全く異質なものなんです。我々は「万引き」という言葉に犯罪のイメージを結びつけますが、彼らにとってはそうではないんです。

治と祥太の親子関係を成立させていた「あれ」を教えるという行為は、父親が息子にキャッチボールを教えることや釣りの仕方、手品の仕方を教えるといった類の行為とほとんど同じ次元のものであるわけです。

だからこそ彼らは生きるために、飢えを凌ぐために「あれ」をしているのではありません。「家族」であろうとするがゆえに「あれ」をするのです。

それが明らかになるのが、予告編でも登場するあのセリフではないですか?

「子供に万引きさせるの後ろめたくなかったですか?」

「他に教えられることが何にもないんです。」

治は幼少の頃から両親や友人に「お前に存在価値はない。」と言われて育ってきたような人間です。だからこそ自分は父親から何も教わることが出来ず、まともな生き方をしなかったために祥太に教えられることも、父親として尊敬されるに値することも何もなかったんです。

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(C)2018フジテレビジョン ギャガ AOI Pro.

だからこそ「あれ」を教えることで、彼は祥太の「父親」になろうとしたんです。そしてそれが唯一彼が「父親」として尊敬されることにもなりました。

そんな我々とは全く違う価値観をしている人間に、我々の価値観から「正義」を突きつけるのがまさに「子供に万引きさせるの後ろめたくなかったですか?」というセリフなんですよ。

つまりこの映画『万引き家族』において実は「万引き」は描かれなかったということすらできます。この映画において描かれたのはただ単に「あれ」であり「これ」でしかなかったわけです。終盤にそれが世間一般で言う万引きという行為だったと明らかになるだけです。

是枝監督は我々の一般的な価値観とは、全く異なる価値観の元に生きている人間を家族を映画の中に描き出し、まさに我々に問いかけています。

おわりに

映画を見てもいないのに批判する人が後を絶たないこの映画ですが、この作品はむしろ「万引き」を描かなかった作品だと私は思っています。

確かに我々の目線で見ると、それは明らかな犯罪行為でしかありません。しかし、そういう価値観が通用しない世界なんてこの世にいくらでもあります。今の自分の「当たり前」は、時と場所を変えるとすぐに「当たり前」ではなくなってしまう脆い砂城の様なものです。

いろいろな意見があるとは思いますが、ぜひとも上辺だけでこの映画を批判せず、劇場で鑑賞し、その上で改めて考えて欲しいと思います。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。




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