映画『レディバード』解説:階級と格差の側面から読み解く「青い家」に隠された意味とは?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガです。

今回はですね6月1日から公開の映画『レディバード』についてお話していこうと思います。

本記事では本作のネタバレを交えつつ映画の解説を書いていきます。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

解説:階級と格差の側面から読み解く物語

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(C)2017 InterActiveCorp Films, LLC./Merie Wallace, courtesy of A24 『レディバード』予告編より引用

近年ハリウッド映画では貧困や格差をテーマにした作品が多く作られています。

今年のアカデミー賞レースで話題になった同じくA24配給の『フロリダプロジェクト』もまさしく貧困をテーマにした作品でしたね。

こちらはフロリダのモーテルで暮らす親子の貧困と絶望を子供の目線からカラフルに描きました。

そして本作『レディバード』にもそんな貧困と格差の影が見え隠れしています。

ただ本作は絶対的な貧困を描いたわけではありません。むしろ相対的な貧困を描いた映画と言えます。

主人公のクリスティーンの家は生活に困窮するほどに貧困にあえいでいるというわけではありません。

ただ彼女は大学に行こうにも親からお金を出してもらえませんし、だからこそ奨学金を得て東海岸の大学に行くんだと意気込んでいます。

つまり社会の経済ピラミッドで見た時に、どん底ではないけれどもそれでも中よりは下くらいの経済状況の家庭です。

父親は病気のこともあり、あまり仕事に打ち込むことはできず、母親がパートで働いて何とか家系をやりくりしている状況と言えます。

こういう共働きでも生活楽にならずみたいな家庭って今まさに日本でも増えています。そして大学行こうにも奨学金をもらわないとどうしようもない。そして借金をして大学に行くと、今度は奨学金破産という問題が浮上しています。

それ故に『レディバード』で描かれているクリスティーンの家族ってすごく日本人にも共感できる境遇だと思うんですね。

そんな状況下でクリスティーンは故郷のサクラメントから飛び出したいと、上手く関係を築けない母親の元から逃げ出したいと願うわけです。

つまりそれは思春期の少女の漠然とした「逃避」なんですよ。

彼女は東海岸の大学に行きたい理由と聞かれると、東海岸は芸術的だから・・・とかアーティスティックな感性を磨きたいから・・・とかサクラメントは退屈だから・・・みたいな接近型の欲求というよりもむしろ回避型の欲求なんです。

彼女が高校最後の年に恋に落ちるダニーは裕福な家の出身ですよね。

そのためTHANKS GIVING DAYなんかでもかなり豪勢なパーティーを催していたりします。

クリスティーンも彼と将来的に結婚すれば、自分はいずれこの青い家に住めるんだと喜んでいます。彼女がこの「青い」外壁の家に憧れるのが何ともノヴァーリス的ですよね。

ノヴァーリスの『青い花』に関してですが、本作は主人公が幼少の時に見た青い花の妖精が忘れられず、その面影を求めて旅をします。しかしそれはどんなに手を伸ばしても手に入らない虚像なんです。

この作品においては「青」というカラーがどんなに手を伸ばしても手に入らない何かを象徴する色になっています。

これは青い花を執筆中にノヴァーリスが亡くなってしまい、作品が未完になっていることも相まって非常に意味合いが強まっています。

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(C)2017 InterActiveCorp Films, LLC./Merie Wallace, courtesy of A24 『レディバード』予告編より引用

だからこそ『レディバード』において主人公の憧れる家が「青」色の壁であるという点は非常に強い意味合いを持っています。

彼女はクラスの中でスクールカーストの上位にいるようなクラスメートに取り入るために、自分の家があの「青い」家だと嘘をついたりしています。

つまりクリスティーンにとって、あの「青い」家は自分の境遇を抜け出すための手の届かない希望なんですね。

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母も捨てきれなかった憧れ

そして本作において富裕層への憧れを捨てきれないのは、クリスティーンだけではありません。

彼女の母親のマリオンもまたそんな憧れを持っています。

クリスティーンがダニーの家のTHANKS GIVING DAYの催しに行く時にもエンヴィーな感情を露わにしています。

また彼女がクリスティーンを連れて、絶対に住めないであろう裕福な家を見学に行くシーンなんかも印象的ですよね。

つまり彼らは年齢も立場も違えど同様に貧しい現状から「逃避」したいと考えているんですよね。

しかし母親のマリオンは自分が今の状況から「逃避」することを諦めています。一方のクリスティーンは漠然と自分はこの状況から「逃避」できると考えています。

2人が言い合いになった時にクリスティーンはマリオンに対して自分が出世したら自分の養育にかかった費用を払ってやるからなんてことを言っています。

彼女は根拠のない将来への希望を持っているんです。そしてマリオンもまた自身が思春期だったころに将来に何らかの希望は持っていたんでしょうね。そしてそれが実現することは無かったと。

つまりこの映画における母親の考え方や生きてきた境遇ってヒルビリー的でもあるんですよね。

貧困の連鎖から抜け出そうにも彼女は貧困から抜け出すことはできなかったんです。だからこそそんな眩しい希望を何の根拠もなく公言するクリスティーンをよく思っていないわけです。

しかし本作はそんな負の連鎖を断ち切る映画でもあります。

物語の終盤で母親が娘に対して抱いていた本当の思いが明らかになった時に、それが決定的になります。

母親は娘が無事に「逃避」できるよう心の内では応援していたんでしょう。そして描かれてはいませんが、そんな彼女にかつての自分を投影していたんだと思います。

この映画の主人公は監督であるグレタ・カーヴィグがモデルになっています。

というより彼女が自分の17~18歳の頃を振り返って描いた半自伝的な映画でした。

そう考えると彼女自身は貧困のループを抜け出したことになりますね。メタ的な視点で見ても非常に面白い映画です。映画の中の物語が現実世界でちゃんと帰結しているところにまた泣けてしまいます。

おわりに

いやはや語ることが山のようにありますね映画『レディバード』。

皆さんも鑑賞した後にいろいろと考えを巡らせて見て欲しいと思います。

『レディバード』に関してはもう1つの記事でキリスト教的な視点やイニシエーションの物語としての構造、タイトルの意味なんかも考察しています。良かったら下のリンクから読んでみてください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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