【ネタバレ無】劇場版「アイドルキャノンボール2017」感想・解説:映画が映画になる瞬間との邂逅

アイキャッチ画像:「劇場版「アイドルキャノンボール2017」予告編より引用

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね、劇場版「 アイドルキャノンボール2017」についてお話していこうと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

あらすじ・概要:そもそもキャノンボールって何だ?

 2014年の解散を経て16年に再始動したアイドルグループ「BiS」のドキュメンタリー。14年の解散時の模様をアイドルにAV監督が密着するという異色の企画で描いて話題となった「劇場版 BiSキャノンボール2014」、16年の再始動をとらえた「劇場版 BiS誕生の詩」と、これまでもBiSのドキュメンタリーを手がけてきたカンパニー松尾監督が三度、BiSを題材に撮り上げた。AV監督が撮影対象の女性たちに迫っていく様子をドキュメンタリーで描く、カンパニー松尾監督の代表作「テレクラキャノンボール」の設定・手法を取り入れ、BiSの所属事務所WACKが開催したオーディション合宿の裏で密かに撮影を敢行。BiSをはじめとしたWACK所属のアイドルグループのメンバーたちや、オーディション参加者などに、AV監督たちがどこまで迫れるかを競った。(映画comより引用)

キャノンボールというのは、AV監督のカンパニー松尾さんが立ち上げた企画で、そもそもは「テレクラキャノンボール」と題された1997年のAVから始まった企画なんです。

テレクラや出会い系サイト、ナンパなどの手段で、街で女性と出会い、その女性にどこまで迫れるか?ということを得点制のゲーム形式で競うのがテレクラキャノンボールです。

そんな彼らが2013年に撮影した「テレクラキャノンボール2013」が初めて劇場版として公開され、AVファンのみならず、映画ファンからも高い評価を獲得しています。

 



その勢いのままに2014年に撮影したアイドルグループBiSのメンバーにAV監督がどれだけ迫れるかという企画を立ち上げ、撮影した「BiSキャノンボール2014」が公開され、その内容から賛否を呼びました。

 

 



その後「BiS 誕生の詩」「SiS 消滅の詩」というアイドルドキュメンタリーを挟んで、昨年2017年にBiSやBiSHが所属するWACKが新たにアイドルオーディションを開催することなり、そこにカンパニー松尾さんらキャノンボールメンバーが参加して、オーディションに来たアイドルの候補生ないしWACKの現役アイドルたちにどれだけ迫れるのか?という企画で撮影が進められました。

それが今回の劇場版「アイドルキャノンボール2017」という作品です。余談ですが、同時期に公開された「ALL YOU NEED IS PUNK AND LOVE」という作品はこの企画から派生した作品で、キャノンボールにも参加したMV監督のエリザベス宮地がBiSHに密着し、撮影したアイドルドキュメンタリーとなっています。

キャノンボールに詳しく知りたい方はまず「テレクラキャノンボール2013」をチェックしてみてください。本作「アイドルキャノンボール2017」の予習としても最適な作品です。

本作のルールの概略としては、アイドル候補生(ないし現役アイドルメンバー)に特定の言葉を言わせたり、タッチしたり、添い寝、キス、本番、あとは結婚・・・などをすることでポイントが加算されていく仕組みになっています。AV監督のカンパニー松尾さんらとMV監督の岩淵さんらの計7人が参加して合宿所でこの競技に取り組みます。その他にも学力テストやランニング、デスソース早食い競争などの種目も取り入れられていました。

スポンサードリンク




予告編

批評:映画が映画になる。その瞬間の熱量。

FullSizeRender
「劇場版「アイドルキャノンボール2017」予告編より引用

ただの映像が映画になる瞬間とはいつなのだろうか?

映像といえば、テレビの画面に毎日のように垂れ流されているのも映像だ。ただあれを映画と呼ぶ人はいないだろう。

では映像が映画に変わるには何が必要なのだろうか?

映画の原初的存在意義は「記録」だ。しかし「記録」という側面を孕むことが映画の側面なのであれば、テレビニュースで流れている映像の1つ1つも「記録」ではあるまいか。

なぜ映画のそもそもの存在意義が「記録」だったのかと言うと、映画が登場した当時の映像メディアの世界はほとんど映画一色だったからだ。映画館に全ての映像が集結していたと言っても過言では無かった。

しかしテレビが登場したことで、これまで安住の地にあった映画の定義が揺るがされることになる。これによって「映像=映画」の時代は終わったとされている。ただこの時はまだ「映画=映画館で上映される映像作品」という確固たるアイデンティティを保持していたと言える。

その後ビデオやDVDといった映画館以外で映画を鑑賞できるデバイスが登場したことで、映画の定義は完全に崩れ去ることとなる。

つまり映画とは何か?ということを明確に定義することは現代において不可能になったとも言える。ただそれでも映画というものが存在している。では定義が不確定になった今、映画を映画足らしめるものとは何なのか?ということが当然問題になる。

「映像=映画」でもない。「映画館で見る映像=映画」でもない。

私は現代においても映画を映画足らしめるものは変わっていないんじゃないかと考えている。それは「記録」という側面である。映画とはどんな形で撮影したとしても、映像を撮ることでしか始まらない。映像を「記録」することで映画となる可能性が生まれる。

では、さらに映画が映画になる瞬間はいつなのか?というのを考えてみたい。私が考えているのは、その「記録」に物語が生まれた瞬間、これが映画(ないし映画的な何か)が映画となる瞬間だということだ。

連続的な映像の「記録」の中にある瞬間に物語が生まれる。その瞬間にその映像は映画言語(ないし映画的な何か)としての存在意義を獲得すると思う。

そう考えると、映画館で上映される映画だけが、映画として世に送り出された映像だけが映画(ないし映画的な何か)であるという考え方はもはや時代錯誤ではないだろうか?

例えば、先日のピョンチャンオリンピック男子フィギュアスケートの羽生結弦選手の金メダル獲得劇なんてどうだろうか?絶対王者と言われた羽生選手が数か月間怪我に悩まされて、リンクを離れることとなる。しかし、必死のリハビリとオリンピックへの強い思いだけで這い上がり、盤石とはいえないまでも素晴らしい演技で復活を印象付け、金メダルを獲得する。

そんな彼が金メダル獲得が決まった瞬間の映像を見て欲しい。普段は見せない彼の涙がとても印象的である。この瞬間に、羽生結弦という人物を捉えたこれまでの映像たちが極めて映画的な何かであったことに私はハッと気づかされた。彼の目から涙がこぼれた瞬間に、これまでの彼の映像が1つの物語として映画的な何かにコンバートされたように感じたのだ。

つまり映画というものはかつて映画が誕生した時よりもずっと普遍的な意義を獲得したように思う。映画は我々が普段何気なく生活する中で見る映像の中にも存在しているのだ。映画として世に送り出されたものだけが映画では無いのである。

ただ映画として世に送り出された一般的な映画作品は、その物語誕生の瞬間が不可視である。というのも映画製作陣たちが物語として完成させた状態で映像を撮り始めているからだ。物語誕生の瞬間は映画を製作する人たちに独占されていて、その瞬間を観客として享受することは難しくなっている。リュミエール兄弟の作品のような映画であれば、話は別だが、今日の一般的な映画でそれを経験することはまず不可能に近いだろう。

しかし今回紹介する劇場版「アイドルキャノンボール2017」という作品はそのまさに映画誕生の瞬間を可視化した映像作品と言える。映画が映画になるまさにその瞬間を観客という立場でありながら享受出来てしまうのだ。

本記事の冒頭で、キャノンボールというのはあくまでも点数を競う競技であるということを述べた。今作では7人のAV監督、MV監督が参加しているが、彼らはいわば全員映像を撮る側の人間なのである。つまり物語を生み出す立場にいる人間ということだ。

そんな彼らが撮られる側に回って、しかもその映像の中では現役アイドルやアイドル候補生たちをハンディカメラで撮って回るのだ。何とも不思議な構造である。

ただ本作はナレーションが入ったり、テレビ番組のようなテロップが表示されたりと、極めてテレビ番組的な編集が施されている。そのためこれは果たして映画なのだろうかと疑問に思う方も多いだろう。AV監督やMV監督がおふざけと身内ノリでわいわいやっているだけのバラエティー番組にすら見えるかもしれない。

しかし、劇場版「アイドルキャノンボール2017」は2つの瞬間を経て、間違いなく物語を生み出し、そして映画へと進化する。ネタバレをしてしまうと面白くないため、詳細は伏せるが今作でキャノンボールシリーズ初参加のMV監督の岩淵監督とエリザベス宮地の2人が大きな展開をもたらすのである。

FullSizeRender
「劇場版「アイドルキャノンボール2017」予告編より引用

それまで本気なのか、ヤラセなのか、おふざけなのか、分からなかった映像の羅列を1つの物語へと昇華させ、「アイドルキャノンボール2017」という作品を映画足らしめる瞬間だったと言えるだろう。

それはまさに映画が生まれる瞬間だ。

「テレクラキャノンボール2013」をご覧になった方はご存じだろうが、キャノンボールシリーズというのは男性AV監督たちが真剣にう〇ちを食べたり、飲尿したりするような作品である。

しかし、全員があくまでもヤラセ無しの真剣勝負でこの競技に臨んでいる。だからこそバラエティーなのかアダルトビデオなのか、何とも位置づけの難しいこの映像作品は、その本編の途中に映画だったことが判明するようになっている。

AV監督が撮った作品だからと敬遠されてしまうのも分かるが、ぜひ映画ファンにこそ見て欲しい作品である。ぜひ映画の生まれる瞬間とその一瞬の熱量を体感してほしい。

日本よ、世界よ。これが映画だ。

おわりに

この記事を読んで「アイドルキャノンボール2017」に興味を持った方へ。本作はアイドル映画ではありません。「テレクラキャノンボール2013」を見ていただければわかると思いますが、あくまでもおじさんAV監督&MV監督たちが真剣に女の子の肩を揉んだり、女の子と添い寝したり、服を脱がせようと迫ったりするような作品です。勝負に勝つためなら、尿でも飲みますし、〇んちでも食べます。

FullSizeRender
「劇場版「アイドルキャノンボール2017」予告編より引用

ただこの作品は間違いなく映画であると言えます。普段は映像を撮る側の人間たちが、撮られる側に回ることで、その状況に真剣にのめりこみ、仕事であるということすらも忘れるような熱量から生まれる究極の人間ドラマがこの「アイドルキャノンボール2017」には含まれているからです。

仕事が仕事を超えた時。AV監督やMV監督という肩書をかなぐり捨てて、一人の人間として物語に向き合った時。1人の人間としての本能的な思いに駆られた時。

それを捉えた瞬間こそがまさに映画誕生の瞬間です。

一人でも多くの方に、とりわけ映画ファンの方に見て欲しい一作です。

最後に注意しておきたい点は、本作を見る前に「テレクラキャノンボール2013」を見ておいて欲しいということです。これだけは言わせてください。

 



今回も読んでくださった方ありがとうございました。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください