【ネタバレあり】『ハローグッバイ』感想・解説:1つのメロディが紡ぐ友情と継承の物語

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね、映画「ハローグッバイ」について語っていきたいと思います。

いやはやとんでもない作品に出会ってしまいました。今年劇場で鑑賞した邦画の中ではダントツでトップの出来でした。

そんな映画「ハローグッバイ」をもっと多くの方に見ていただきたいということで、今回は核心に触れるネタバレをできるだけ少なめで作品の魅力を解説していけたらと思います。

良かったら最後までお付き合いください。




『ハローグッバイ』

あらすじ・概要

若手女優の萩原みのり久保田紗友がダブル主演し、同じクラスでも全く交わることのないタイプの異なる2人の女子高生が、ひとりのおばあさんとの出会いをきっかけに交流を持ち、ぶつかり合いながらも次第に認め合っていく姿を描いた青春映画。

クラスの中で目立つ存在だが、元彼との間に子どもができてしまったのではないかと悩むはづきと、「委員長」と呼ばれる優等生だが、仕事で忙しい両親のために孤独を抱え、その寂しさを紛らわすために万引きに走っていた葵。

2人は、ある認知症のおばあさんと知り合い、初恋の人にラブレターを渡したいというおばあさんのため、一緒に初恋の相手を探すことになる。

ドラマ「表参道高校合唱部!」で注目を集めた萩原がはづき、NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」に出演した久保田が葵を演じ、2人が知り合うおばあさん役でもたいまさこが共演。

長年の助監督経験を経て「ディアーディアー」で監督デビューした菊地健雄の第2作。2016年・第29回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門で上映された。

映画com.より引用)

 

予告編

『ハローグッバイ』感想・解説(ネタバレあり)

「映像」への信頼を感じられる映画は”面白い”

まずは、こちらの記事に私の映画評価観を詳細に書いていますので、良かったらご一読ください。

このブログをいつも読んでくださっている方は、私の映画の好みが何となく察しがついているかもしれません。

要は、「映像が物語に先行している映画」が好きなんですね。

もちろん映画が「物語」ないしシナリオありきで作られることは百も承知です。ただ時にその作為性を感じさせない映画に出会うことがあります。

ただ映像がそこにあって、それが淡々と流れていって、そして終わる。終わってみた後にふと考えてみますと、「ああこの映像にはこんな物語があったんだ!」という物語性が自分の頭の中に徐々に浮かび上がってくるのです。

こういう映画こそ、声高に傑作なんだと称賛したいという風に考えています。

ただ、最近はどうも「物語に映像を押し込めた映画」が受ける傾向にあるようです。これって一言で言えば、すごく分かりやすい映画なんですよね。物語を映像で楽しむ、いわばこれって小説に映像がついただけですから。

でも私は、そんな映画を見ると、この映画を作った人たちは映像の力を信用していないのではないか?と感じてしまうのです。

映像は物語の奴隷ではありません。映像と物語は互いに独立して存在するものであってほしいのです。

そう意味でも昨年度のアカデミー賞作品賞を「ムーンライト」が受賞したことは個人的にもとても嬉しいことでした。1人の男の幼少期、少年期、青年期という3つのパートを淡々と描いたこの映画はまさしく「映画」でした。

淡々と映し出される男の人生の映像、そしてその連続。映画を見ているときは「物語性」や「作為性」は一切感じられません。しかし、映画が終わってみると、「ああこれは、愛の物語だったのか・・・。」としみじみと思い出されるのです。

私にとっての映画かくあるべきを体現したようなこの「ムーンライト」という作品が北米で高い評価を受けたという点が、北米の映画文化のレベルの高さを物語っているように個人的には感じました。

結局、私にとっての映画の”面白さ”の基準において一番重要なのは、作り手がいかに「映像」を信頼しているか?なんだと気づかされました。

小説は文字だけでのメディアですので、「見えない」んです。だからこそ、小説は文字でもっていかに「見せる」のか?というところが評価のポイントになってくるわけです。

一方で、映画は映像メディアですから、「見える」という最大の強みを持っています。だからこそ、それを最大限に生かしてほしいのです。映画において「見せる」という作為性はもはや害です。そしてその「見える」という強みに、映画を委ねられる勇気こそ映画の作り手に必要なものなのではないかと私は考えています。

「ハローグッバイ」という作品は、まさに「見える」という映像の特性を最大限にまで信頼した素晴らしい「映画」だったと確信しています。




「ハローグッバイ」は映像で魅せる映画だ

映画「ハローグッバイ」は本当に映像先行型のきわめて素晴らしい作品だと思います。

本当に余計な説明や演出が一切ありません。

例えばこの階段は物語の重要な舞台になっていて、劇中で何度も登場します。

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©2016 Sony Music Artists Inc. 映画「ハローグッバイ」より引用

しかし、この階段のシーンは見るたびにその色を変えています。歩く人数、構図、人物の歩き方、仕草、人物の立ち位置、歩くスピード、目線・・・いろいろな要素が、階段のシーンが登場するたびに微妙に異なっているのです。

これも「見える」という映像の特性を最大限に生かしていることだからできる魅せ方ですよね。特に説明せずとも、また登場人物のセリフに乗せずとも、映像だけでその登場人物の性格や心情なんかを全て浮き彫りにしています。

そして何よりも素晴らしいのが、この物語で描かれる友情物語には「言葉」が無いんですよね。この映画で「友情」というテーマを表現したのは映像であり音楽です。

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©2016 Sony Music Artists Inc. 映画「ハローグッバイ」より引用

この映画のセリフだけを全て抜き出して、小説のように読み進めていくとしましょう。おそらくそれだけを読んだ人は、この映画が友情の物語だということにすら気づかないのではないでしょうか?

ただ映像を見てください。音楽を聴いてください。するとそこには美しい友情の姿があるではないですか。

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©2016 Sony Music Artists Inc. 映画「ハローグッバイ」より引用

この映画において「友情」は「見せる」ものではなくて、「見える」・「聞こえる」ものなんですよね。映画というメディアだからこそ、この「友情物語」は成立しているのです。

映像にこの作品の多くを委ねるという決断を下せる菊地健雄監督は、すごく自分の「映像」に自信を持っているんだなあということが伺えました。

 

おわりに:「ハローグッバイ」って何だろう?

この「ハローグッバイ」という作品のタイトルは作品を見終えると、すごく意味を感じられる素晴らしいタイトルになっています。

まず「ハローグッバイ」というのは、そもそも挨拶ですよね。「こんにちは」「さようなら」みたいなものです。

ですから、このやり取りをするようになるというのは、友人関係を築く上での初期段階なんですよ。

つまり、会話を交わすこともなかった2人が、「ハローグッバイ」というやり取りをするようになったのであれば、そこには友人関係の芽がしっかりと育まれているということです。

また、本作は人が「『自分の弱さ』に向き合い、それを克服して、一歩踏み出す物語」でもあります。

つまり、「自分の弱さに『ハローグッバイ』する物語」というわけなんですよ。

主人公である葵とはづきの2人はお互いに「弱さ」を抱えています。そして、その「弱さ」と向き合うことから逃げているのです。

しかし、葵とはづきの出会いは、そして2人と悦子の出会いは、2人に大きな影響を与えます。

人が自分の弱さを認めながらも、「弱い自分」を克服し、前に進もうともがく、そんな姿を生き生きと切り取っています。

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©2016 Sony Music Artists Inc. 映画「ハローグッバイ」より引用

ナガ
この映画を見ながら、ふと自分や自分の友達について思いを巡らせてみてはいかがでしょうか?

一見の価値がある素晴らしい映画作品でした。

このヒリヒリとした人間関係を味わえる映画として『リズと青い鳥』を推しておきます。こちらも良かったらご覧になってみてください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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