【解説・考察】小説「愚行録」はなぜ映像化不可能と言われてきたのか?

アイキャッチ画像:©2017「愚行録」製作委員会 映画「愚行録」より引用

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

2月18日から映画「愚行録」が公開されました。本作品は、「慟哭」や「プリズム」の著者としても知られる貫井徳郎氏が2009年に発表したミステリー小説ですね。

映画版のメインキャストには妻夫木聡さん、満島ひかりさんが参加し、監督の石川慶さんは今作が初監督作品となりました。

今回はそんな『愚行録』の原作についてお話していきます。

良かったら最後までお付き合いください。

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『愚行録』はなぜ映像化不可能なのか?

私自身はまだ映画を鑑賞できていないため、今回の記事では、原作「愚行録」に基づいて今作品がなぜ映像化不可能と言われ続けてきたのかについて考察していきたいと思います。

映画を宣伝する際のキャッチコピーとして「映像化不可能と言われた作品を映像化!!」というものを見かけることがある。しかし、たいていの場合その表現は誇張に過ぎない。しかし、この「愚行録」作品をという映像化に際して、この表現は誇張でも誤りでもないのです。

なぜ、映像化できないのか?それは映像メディアと活字メディアの特性の違いが大きく影響しているのです。

この「愚行録」という小説は、淡々とさまざまな登場人物が主人公の記者田中武志のインタビューに答える形で展開していきます。そのため、作品は、証言者のインタビューと武志の妹である光子の語りを交互に配置している構成になっています。

しかし、この作品に登場する人物はあくまで自分の見地から経験則から、推測から物事を語っているに過ぎない、つまり主観に基づいてのみ、一家惨殺事件ないし殺害された田向夫婦のことを語っているわけです。このようにこの作品はそのすべてを「信頼できない語り手」による口上によってのみで構成しているのです。

これがこの作品が面白いと言われる所以の大きなもののひとつなのです。登場人物が自分の立場から主観でのみ物事を語る、それ故に殺害された田向夫婦を非常に多面的にとらえることができ、かつ微妙に矛盾や相容れない部分を生じさせるのです。この主観と主観の錯綜にこそこの「愚行録」という作品の真髄があるのです。

そして、この真髄にあたる部分をどうしても映像メディアにコンバートすることができないために、この「愚行録」という作品は「映像化不可能」なのです。

映画と小説、そのメディアの特性の差異

今回は非常にわかりやすい論文を発見したので、それを参考にしつつ、その理由を解説していきたいと思います。

前田敬子さんという方が2010年に発表した三島由紀夫の「潮騒」の映画版・小説版を比較しながら映像メディアと活字メディアについて考察した「映像と活字の特性」という論文を今回は参考文献として挙げさせていただきます。

この論文で取り上げられている映像と活字の特性の違いは大きく分けると2点になります。1つ目は、「『行為』によって進む映像と『心理』によって支えられる活字」という点です。前田氏は映像は「行為」を描き、小説は「心理」を描くというふうに述べられています。つまり映像というのは行動や表情を映し出すことで、そこに内在する心情を想像させる特性を持つメディアであるのに対して、小説は内面や心情を詳細に記述することでもって、その外面、姿、表情、行動を想像させるのです。

そしてもう1点は「『見えないものは想像し難い』映像と『見えないものも想像できる』小説」という点が挙げられています。映像メディアというのは、視覚志向のメディアです。そのために画面に映し出されていない情報を表現し、鑑賞者に理解させることが非常に難しいのです。それは映像メディアとのメリットでありデメリットでもあるのです。映像はその時何が起こっているのかを分かりやすく視覚に訴えることができる一方で、明確すぎるあまりに、活字を読むときには働いていた想像力を抑制してしまう傾向にあります。

この2点を踏まえたうえで、話を「愚行録」に戻したいと思います。先ほどこの作品の真髄は主観と主観の錯綜に有り、という話をしました。そしてもっと言うなれば、この作品が「愚行『録』」というタイトルである所以はここにあるのです。

証言者たちは、その主観でもって一家惨殺事件や田向夫婦について語るわけですが、読者はその主観から徐々に田向夫婦の実態とともに、それを語る証言者自身の内面をも読み取れるようになっているのです。これは映像メディアには絶対に表現できません。

なぜなら、映像にしてしまうと、その証言者の行動や表情が視覚情報として明確に我々に印象付けられてしまいます。ゆえにその語り上からその人の人間性を垣間見るという本作品を読み進めていくうえで最も重要で楽しい作業の一部を、映画そのものに代行されてしまうのです。これではもうこの作品の魅力は半減してしまいます。

活字だからこそ、その主観のみからなる登場人物の証言の節々にちりばめられた心情や感情から、その人のキャラクターを自分の頭の中で作り上げていき、最終的にその人物の「愚行」の何たるかを暴き出すのです。そして、そんな数々の証言者の「愚行」を読者自身が暴く出す作業を経ることで、この作品は「愚行『録』」となりうるのです。

映像メディアでは、確かに視覚志向で明確な情報伝達が可能です。しかし、目には見えないような微細な情報をかき集めて、見えない人物像を作り上げていくことに面白さがある本作品には、映画という媒体はとても太刀打ちできないのではないかと、勘ぐってしまうわけです。

また、そもそも映像というメディアは「行為」を描く特性があるという点を挙げましたが、「行為」を映像で見せると、それはもうソリッドで客観的に妥当性を保証された客観的事実として現前してしまうのです。

ゆえに「信頼できない語り手」によってのみ構成される、非常に不確定で主観的な情報の積み重ねによって成立している本作品を正確に映像化することは不可能であるし、正確に映像するならば、真っ黒の画面でひたすら登場人物が語り続けるだけというもはや映画とも言えない代物が出来上がることは自明です。

映像メディアも活字メディアもそれぞれに一長一短です。そのためそれぞれの特性にかなった作品が生み出されています。しかし、それをどちらかにコンバートしようとするとき、やはりどこかで本来あった魅力は失われてしまいます。しかし、コンバートしたことによって、変換先のメディアで新たに魅力が付与される場合もあります。そういう場合には、その映像化は成功と言われるわけです。

しかしながら、この「愚行録」という作品は活字メディアの特性を最大限に発揮した作品であったわけで、その魅力はどうしても映画というメディアにはコンバートできないのです。

ゆえに私はこの作品が「映像化不可能」と言われてきたことに非常に納得していますし、それは間違いないとすら思います。

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おわりに

しかし、この作品が映画として新たな魅力を獲得しているということは大いにに考えられます。ゆえに私も本作品の映画版を当然見るつもりでいます。

これから映画を鑑賞する人、すでに鑑賞した人もぜひこの「愚行録」という作品を活字媒体で味わっていただきたいのです。活字というメディアの良さを再認識させられた傑作でした。

2018年の3月に公開された『去年の冬、きみと別れ』という作品が叙述トリック小説の映画版としてすごくおもしろいアプローチをしていたので、記事を書いてみました。良かったらこちらも読んでみてください。

参考:【ネタバレ】映画『去年の冬、きみと別れ』が魅せた素晴らしい原作からのアレンジとは?

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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